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EP1「夢」

「わたし、大きくなったらすいえーのせんしゅになる!」

 そんな言葉を胸に抱いてどれだけ努力してきただろう。城戸きど 愛あいが水泳に対する夢の原点とも言えるその言葉は、ずっと愛の胸の中に渦巻いていた。

 愛は昔から泳ぐことが好きだったし、他の生徒とも十分に勝負できるほどの才能も持っている。少々不安があるものの、愛は特に心配されるようなことはなかった。

 愛が目指している大会もそう遠くない。今日もそれに向けての練習をしていた。

「ふぅ……」

 愛はいつものように水泳部の練習を終えて、シャワー室を出ると濡れた髪を拭いて更衣室に入る。

「お疲れ様」

 更衣室で着替えていると、顧問の風谷かざやがやって来た。愛は荷物をまとめるとベンチに腰掛けてバッグから取り出した水筒を飲む。

「お疲れ様です。先生」

「ええ。今日のタイムもいい感じね。今度の大会期待してるわ」

 愛の所属する水泳部は来月、地区大会への参加が決定している。地域の期待の星として他の部の人間や、学校周辺に済んでいる人々からも愛は期待されていた。

「それでは、失礼します」

 愛は荷物の入ったバッグを背負い、風谷に一礼をして更衣室を後にする。外は既に暗くなっていて、愛はやや急ぎ足で家へと帰途へと就いた。



「はぁ……はぁ……」

 今日もいつも通りに水泳部の練習を終えて、いつも通りに家へと帰るだろうと思っていた。しかし、愛は“何か”が発する殺気のようなものに襲われ、とてもじゃないが帰れるような状況ではなくなった。相手が自分を狙っているという保証はない。ただ、本能が逃げろと叫んでいる。

 自分を追いかけてくる“何か”からある程度距離を離したと思ったその時、振り返った拍子に転んでしまい、バッグの中に入っていた手鏡や生徒手帳が落ちる。慌ててそれらを拾い上げ、バッグの中に乱雑に入れる。そしていざ立ち上がろうとした時、くるぶしの辺りに鈍痛が走り、くるぶしを押さえる。

「ぐっ……。う、嘘でしょ……」

 先ほど転んだ拍子に右足を捻ってしまい、無理矢理にでも立ち上がろうにも立ち上がろうとした。しかし、足の痛みに耐えられずに這いつくばって移動する格好になってしまう。

 愛を追っていた“ソレ”は着実に愛に近づいてきていて、愛の目の前に姿を表した。電灯に照らされて姿が明らかとなった“ソレ”は確かに人の形をしていた。しかし、明らかにその外見は人間のものではなかった。全身は金属で覆われているような光沢を放ち、その頭は牛そのものだった。“ソレ”の手には2メートル弱もある鎌が握られ、まるで自分は死神だと誇示しているように見えた。

「……」

 牛の怪物は鼻を鳴らして愛に迫る。愛は足の痛みなど忘れて後ずさるして何とか逃れようとするも、歩くことが困難な状態では出せる速度もたかが知れている。牛の怪物は手に持っていた鎌を振り上げ、愛の首筋めがけて振り下ろそうとし、愛もここで殺されるのだと目を閉じて覚悟した。

 しかし、いくら待てども衝撃は襲ってこない。愛がゆっくりと目を開けると、そこには鎌を白刃取りで受け止めている別の怪物が立っていた。

 逆光のせいでシルエットしか分からないものの、人の姿をした異形であることは確かだった。牛の怪物は新たに現れた怪物を見てたじろぎ、その隙に手にしていた鎌を真っ二つにへし折られた。牛の怪物は分が悪いと判断したのか、一目散に逃げ出した。

「大丈夫?」

 新たに現れた怪物は振り返ると、やや高い男の声でそう呟いた。愛に近づいてきた怪物はゆっくりと愛に歩み寄り、愛の目の前でしゃがみこんだ。その距離まで近づいて、やっと怪物の姿が見れると思ったのだが、近づいてきたのは明らかに人間の男だった。

「あーあー足ひねっちゃってるね。歩いて帰るのは難しいなこりゃ」

 目の前の男は馴れ馴れしい様子で愛の足を眺めていた。そして慣れた手つきでポケットから湿布を取り出し、愛の足を注意深く触る。その手つきには下心は全く感じられず、むしろ医者の触診に近いものを感じた。

「ここだな……。いいか、動くなよ」

 男はゆっくりと愛の靴下をめくり、持っていた湿布を貼った。

「さてと、君家どこ?送ってくよ」

 男の態度から怪しさはかなり漂っていたものの、愛は自力で帰ることは難しいと判断し、仕方なく男に家まで送ってもらうことにした。

「ねえ、あなたは誰なの?さっきの怪物は?」

 男におぶされながら愛は問いかける。

「俺?俺は通りすがりの医者の卵みたいなもんだよ。さっきの怪物は……専門外だからなんとも言えないかなあ。ただ、無差別に人を襲ってるってわけじゃないっぽいけどね」

 医者と名乗った男は胡散臭いが、こちらを騙そうという意図は見えない。それに、先程から示している道順に従ってちゃんと歩いている。

「ここ?君の家」

「う、うん。そうだけど」

 男は素直にインターホンを鳴らし、しっかりと挨拶をしていた。

「すみません。ここの家のお嬢さんが襲われて足くじいたみたいで、ここまで送ってきた者です」

 男の応対に不自然な点はないと判断したのか、玄関から母親が出てきた。男は愛を素直に母親へと預け、持っていた荷物も同時に渡した。見知らぬ男に連れられている事にかなり不信感を抱いていたようだが、男の態度を見て少し安心したらしい。

「それじゃ、僕はこれで」

 男は一礼をすると足早に城戸家宅から去って行った。怪物に襲われたことといい、愛にとっては奇妙な夜だった。



 翌日、愛は部活に出る前に念の為に保健室に寄っていた。

「これはちょっとダメね。しばらくは泳げないわね。悪いけど、今度の大会は諦めるしか無いわね」

「そう、ですか……」

 愛は保健室の先生に同伴される形で保健室を出た。まだ足は痛むが、なんとか歩ける程度には回復しているため、年がら年中誰かの助けを借りなければならないというわけではない。しかし愛はずっと目指していた大会へのチャンスを奪われ、どうしようもない虚脱感に襲われていた。

 こうなることは昨日の夜から何となく分かっていた。しかし、それをハッキリと宣告されると予想以上に辛かった。愛は行き場のない怒りを発散させるが如く壁を殴りつけた。

「城戸さん……?」

 たまたま通りすがったのか、風谷の声が聞こえた。愛が風谷の表情を見るとかなり心配そうな表情をしていた。

「先生、私、大会に出られなくなっちゃいました……。足、ひねっちゃって……」

 愛は今にも泣いてしまいそうで、声にも少し嗚咽が混じっていた。風谷は愛の様子を見て、表情を一変させた。

「そう、残念だったね」

 風谷はまるで人が変わったかのように冷酷な表情になり、冷たい一言を放った。

「じゃ私は他の子を見なきゃいけないから。じゃあね」

 風谷は冷たく言い放つとその場から去って行った。“教師”としてはごく当たり前の、普通の反応だったが、精神的に弱っていた愛にとってはかなりのダメージとなってしまった。

 それからのことはよく覚えてはいない。ただ、ふらふらと他の生徒と同じように授業を受けて、いつも通りの通学路を通って帰る。そんな何気ない学生としての平凡な日常が目の前にあった。ずっと目指していた水泳の夢を絶たれたような気がした愛は、これから何をしなきゃいけないのか、どうしたらいいのか、それを教えてほしいと思いつつ、ただ呆然としていた。

 通学路にある少し広めの横断歩道に差し掛かった時、一台の大型トラックが猛スピードで突っ込んできた。その速度は最早トラックというより、闘牛場で暴れまわる牛のように見えた。足に負担をかけてしまうが、避けようと思えば避けられる。だが不思議と体が言うことを聞かない。このままでは車に轢かれてしまうことは火を見るより明らかだった。

(もう、いいんじゃないかな……)

 不思議と愛は怖くなかった。むしろ、生きることへの諦めの方が強かった。水泳という生きるための指針を失った今、もう死んでしまった方がいいのではないかと思っていた。

 そう思っていた矢先、いきなりバイクが割り込んできて、それのライダーに殴り飛ばされるようにしてバイクの後ろに半ば無理やり気味に乗せられた。愛を乗せたバイクは遠ざかっていくトラックを尻目に家とは正反対の方向に走っていき、やがて少し大きめの一軒家にたどり着いた。

「ふぅ~。ごめんね勝手に連れてきちゃって」

 目の前のライダーが被っていたフルフェイスのヘルメットを脱ぐと、その下から昨日愛を助けてくれた男の顔が姿を現した。

「えっと、あの―――」

「あら?涼りょう、どうしたの?」

 愛が何かを言いかけたところで、目の前の家の庭から愛より少し大きい程度の女性が姿を現した。涼と大して変わらないように見える女性は軍手をして首に手拭いを巻いていて、体からほんのり漂う土の匂いが鼻についた。

「ちょっと危なかったから連れてきた。次の奴らのターゲットだと思う」

 涼と呼ばれた目の前の男はバイクから降りると目の前の女性にそう説明した。2人は親密そうで、他人のようには見えない。

「もしかして昨日言ってた娘?やっぱり、元を絶たないとだめなのね」

 その女性は家の塀を出て、軍手を外して愛に手を差し出す。愛はその手を取り、バイクを降りる。

「本当、いきなりでごめんなさいね。私は、野澤のざわ 香澄かすみ。こっちは……弟の涼。よろしくね」

 愛は戸惑いながらも手を取って握手をした。涼のことを紹介するのに少しタイムラグがあったことが少し引っかかったが、香澄の表情は柔らかく、不思議と不信感は抱かなかった。それに合わせて後ろの涼もそれに合わせて軽い会釈をしている。

「えっと、城戸愛です」

「そう。城戸さん。ここで立ち話もなんだし、上がっていかない?ここだといろいろと面倒だし……」

「あ、はい」

 知らない人間の家にいきなり上がるのは少し抵抗感があったが、少なくとも昨夜の涼がとった行動や作業途中であろう家庭菜園からにじみ出る生活感などから、愛は野澤宅に上がることになった。

「それじゃ、お茶入れてくるからちょっと待っててね」

 野澤宅の中はごく普通の一軒家だった。家のあちこちに家族の集合写真が置かれていて、少し異様に感じる点を除けば、野澤宅はごく普通の家だった。香澄はお茶を用意するために家の奥へと消え、家の居間には涼と愛だけが残された。

「あの、ちょっといいですか?」

「ん?何?」

 愛は沈黙だけが残された空間に気まずさを感じていたものの、涼は全く感じていないようで出会った時と同じように飄々とした態度をとっていた。

「さっき、香澄さんと話していた、“奴ら”ってなんなんですか?それに、私が狙われてるって……」

「昨夜言った通り、俺には専門外だからどうとも言えないんだよね。名前は確か……なんて言ったっけなあ……井戸の怪物だっけか?こう、井戸の底から『うらめしや~』みたいな感じで出てくるようなやつ。確かそんな名前だった気がする」

「は、はあ」

 涼はわざとらしい幽霊のまねごとをして愛を脅かしたが、愛には全く要領の得ない話だった。

「全然違うわ。この前案だけみっちり教えたのに、もう忘れちゃったの?」

 愛が返答に困っていたとき、お盆に乗った3人分のお茶とカステラを持った香澄が戻ってきた。香澄は乗っていたお盆をテーブルの上に置き、涼、愛、香澄が座っている位置に乗っていたものを置いた。

「イドの怪物ってそういうものじゃないの!第一、井戸の底から出てくるのは貞子でしょ?そういうのはホラー映画でやってよ」

 どうやら涼の説明は全然違うものだったらしく、香澄はあきれた様子で落胆していた。

「じゃあ姉ちゃんが説明してくれよ。俺外科医志望だし」

「はいはい。じゃ、改めて説明させてもらうわね」

 香澄は持ってきたお茶を一口飲むと、一息を置いて愛の方を見つめた。

「結論から言っちゃうと、アレはゴミの塊みたいなものね。人間の心が出したゴミが集まって生まれた怪物なの」

「はい?」

「うーんとそうねえ……。分かりやすい例えっていうと……あ!そうそう。オバケみたいなものかしらね」

 香澄の話は全く要領を得ないもので、愛は何の話かさっぱり分からなかった。『オバケ』という例えで何となく正体が分かったような気がしただけである。

「やっぱり難しいかしら?何か、こう、分かりやすいモデルがアレばいいんだけど……」

 首を傾げている愛を見て、香澄は部屋の中を探しまわり、モデルに出来そうなものを探し始めた。そして、部屋から出て行くと、冷蔵庫にくっ付けるマグネットを持って戻ってきた。

「これが一番わかり易いかしら。磁石って、砂場とかの中に入れると砂鉄がくっついてくるでしょ?そうして生まれるのがあの怪物。誰かが作った核を中心に、人間の心が出したゴミが集まって、生物みたいに見える・・・・・・・もの。言っちゃえば、無意識イドの怪物って所かしらね」

 香澄は頑張って愛に話を理解させようとしているものの、人に説明するのがあまり上手ではないのか、愛にはニュアンスを感じ取るのが精一杯だった。

「イド……?水汲みとかに使うアレ……じゃないですよね?」

「ああ、ごめんなさい。つい」

 香澄はマグネットを手元に置くと、一度自分を落ち着かせるためにお茶を飲んで深呼吸をした。

「イドっていうのは人間の深層意識のことね。欲望そのものって言ったほうが分かりやすいかしら?」

 愛は少し自分の中で考えをまとめて、香澄が言おうとしていることを汲み取ろうとした。そして今までの話を繋げて何とか、イドの怪物とやらを何となく理解できたような気がした。

「姉ちゃんそこまでにしときなって。心理学の講義ならよそでやってくれよ」

 退屈そうにしていた涼が話を遮った。香澄は不満そうな表情で涼の方を睨んだ。

「そう?結構面白いと思うんだけど……」

 涼はこの話を何度も聞かされていたようで、かなり疲れているようだった。一方の香澄はエンジンに火でも着いたのか、話を遮られて涼に不平を言っていた。

 目の前で繰り広げられる野澤姉弟の小さい姉弟喧嘩を見て、愛は一つだけ確信したことがある。この人たちは決して悪い人ではないが、少なくともまともな神経を持った人たちではないのだと。

「ま、アイツらがウロチョロしてるのはこの街の中ぐらいだし、逃げたいなら他の街に引っ越せばいいだけなんだけどね」

「涼、女子高生がそんなことできるわけないでしょ。一人暮らしじゃないんだし」

 愛が愛想笑いを作って場を和ませようとした時、ポケットの携帯電話の着信音が部屋中に鳴り響き、野澤姉弟が黙って愛の方に目を向けた。愛がポケットから携帯電話を取り出すと、『城戸 さくら』の名前が表示されている。去年実家を出て、遥か遠くの都心で高校の国語教師をしている姉である。

「もしもし」

『もしもし愛!?大丈夫!?』

 電話の向こうから聞こえてきたさくらの声はかなり緊迫しているもので、一刻を争うような用件であることは何となく分かった。

「え、大丈夫って……どういうこと?」

『そう言えばこの時間帯はまだ学校だったわね、いい?落ち着いて聞いてくれる?』

「う、うん」

『今ね、警察の方から連絡があったの、ウチに、大型トラックが突っ込んだって』

 その言葉を聞いて、愛の表情が凍りつく。一瞬、あの横断歩道で自分に襲いかかってきた一台のトラックが脳裏をよぎる。それからさくらは何かを言っていたが、全く頭の中に話が入ってこなかった。

「お母さん……」

 愛は持っていた携帯を投げ捨てて野澤宅を飛び出す。捻挫している片足が痛むが、そんな『些細な事』はどうでも良かった。

「待って!」

 野澤宅を飛び出そうとした時、香澄が愛の腕を掴んで制止した。

「あなた今自分が狙われてるのを分かってないの?足を痛めているのに、1人出て行ってどうするの!?」

「そんなことどうでもいいじゃないですか!今は一刻も早くお母さん達の無事を確認しに行かないと!」

 愛は香澄の手を振りほどこうとしたが、不完全な状態なため、バランスを崩して倒れそうになり、慌てて香澄に受け止められた。

「落ち着いて。どこかへ行くつもりなら、涼と一緒に行ってもらうわ。きっと怪物の狙いはあなたか、あなたの家族。みすみす飛び出していくわけには行かないわ」

 香澄の背後から愛の携帯を持った涼が姿を現す。電話越しに慌てふためく桜の声は聞こえず、涼が愛に代わってさくらに話をつけてくれていたようだった。

「それじゃ、行ってくるよ姉ちゃん。後はよろしくね」

 涼に手を引かれ、愛はバイクの後ろに乗せられた。しかし、さっきとは違い、涼からヘルメットを手渡された。そのデザインは女性らしい可愛らしいものであり、香澄のものであるという想像は容易だった。

「さてと、しっかり掴まってろよ」

 涼のバイクに乗せられ来た道を引き返していく。涼も愛の気持ちを汲んでいるのか、野澤宅に向かう時と比べて速度も上がっていた。やがてあの横断歩道を通り過ぎ、愛の家にすぐにたどり着いた。さくらから聞いていた通り、目の前に広がっていたのは想像を絶する光景だった。

 今朝家を出た時はちゃんと目の前に家はあった。しかし、今目の前に広がっているのは、巨大なトラックに押しつぶされグシャグシャになった瓦礫の山だった。既に警察による規制線が張られていて、家の中は確認できないが、少なくとも中にいる人間は平気そうに見えない。

 どういうわけか人も少ないので、愛はそれをいいことに規制線を乗り越えて中へ入ろうとしたが、涼に止められた。

「放してください!今行かないと、お母さんが!」

「良いから落ち着けって!お前も下敷きになったらどう済んだよ!」

 愛は意地でも涼を引き離して瓦礫の山に飛び込もうとしたが、いきなり瓦礫の山の一部が吹き飛んだ。

「……」

 瓦礫の山の下から現れたのは、昨晩愛に襲いかかった牛の怪物だった。日の本に晒されたその怪物は、昨日とほぼ同じで青銅器のような外見だったが、昨日と違うのはその体が仄かに赤く輝いている。

「昨日の……」

 牛の怪物を見た瞬間、涼の顔が一気に険しい物になる。そして後ろから軽自動車が走ってきた。愛達の近くで停止し、運転手が姿を現した。

「涼!」

 軽自動車を運転していたのは追いかけてきた香澄だった。香澄は涼から愛を引き離し、軽自動車の近くで待機させる。

「それ、もうすぐ脱皮するかもしれない!早く倒さないと!」

 香澄の表情はかなり険しいもので、心の何処かで目の前の怪物に怯えているようにも見えた。

「分かってる。すぐに終わらせる」

 涼はゆっくりと深呼吸をし、太極拳を思わせるような珍妙なポーズを取った。しかし、そんなことはすぐに吹き飛んでしまうような驚くべき光景が目の前で繰り広げられた。涼が大声で叫び、それと同時に涼の体表面が著しく変化し、異形の怪物へと変わっていく。昨晩はシルエットしか分からなかったが、今はその姿がはっきりと見える。

 その姿は、黒と緑が入り混じったような気持ち悪い配色な上に、外殻に覆われた体は上半身と下半身どころか、首と胴体の区別さえ出来ないほど醜悪な外見をしていた。それに息が上がっていて余計不気味に見える。

 涼は変化を終えると、有無をいわさずに牛の怪物に跳びかかり押さえつける。涼は何度も執拗なまでに殴りつけ、背負投げで牛の怪物を投げ飛ばす。牛の怪物は近所のブロック塀にぶつかり、ブロック塀を粉々に砕いた。

 牛の怪物はノロノロした動きで立ち上がるも。涼は反撃の隙も与えずに、牛の怪物に掴みかかって蹴りつけた。その様はあのおちゃらけた涼からは想像もつかないような野蛮な戦闘スタイルだった。

 牛の怪物は反撃と言わんばかりに角を前に突き出して突進を仕掛けるも、それに合わせたかのように涼の右手の甲から鉤爪のようなものが飛び出した。涼は牛の怪物とぶつかる直前に、アッパーを繰り出して鉤爪を突き立ててそのまま殴り飛ばした。力一杯殴られた牛の怪物は地面に叩きつけられて転がる。牛の怪物はおぼつかない足取りで起き上がったが、体中から黒いガスのようなものが吹き出し始めた。足取りもどこかおぼつかないもので、涼に襲いかからんとするも、最初に手、そして腕と崩れていき最終的には全身が灰となって崩れ去った。

「……!?」

 牛の怪物を撃破し、安堵しているように見た涼がいきなり態度を変えた。目の前に残っていた牛の怪物だった灰の塊から、霊魂のようなものが浮き上がり、空の彼方へと飛んでいったのだ。

「やっぱ核は破壊できない……か」

 異形の怪物となっていた涼の姿は人間へと戻り、残念そうに肩を落として愛達の元へ戻ってきた。

「お疲れ様。今回は何とか、規模を押さえられたわね」

「けど、コアを破壊できないのは流石にマズイだろ?流石にこのままじゃ埒が明かないし」

 香澄と涼の口から飛び出したのは驚くべき言葉だった。目の前で人が死んでいるというのに、まるでそれらを気にかける様子もなく、さっきの戦いを振り返っている。

 愛はそのことについて追求しようと口を開こうとしたが、遠くの方からサイレンの音が聞こえてきた。サイレンの音からして、向かってきているのはパトカーのようだった。

「とりあえず続きは家でしましょ。ここで見つかったら面倒なことになるわ」

 愛はそのまま香澄の車に半ば無理やり乗せられ、香澄の車は走り出した。車の中は見た目以上に広く感じられ、香澄が1人で使うにしては広すぎるように愛には見えた。道中、会話らしいものは一切なく、静寂だけがその場には存在していた。

 愛の家を離れ、野澤宅に戻ってくると、玄関の前で一人の女性が待っていた。長い茶髪を後ろで一つに結った女性で、大和撫子という言葉がしっくりくるように見えた。香澄は車を止めると、車を降りてその女性に軽く挨拶をしていた。愛も車から降り、様子をうかがうことにした。

「遅かったじゃない。何してたの?」

「まあこれの最終調整をね。意外とデリケートだから、結構調整に時間がかかっちゃって」

 そう笑う女性の手には銀色のトランクケースが握られ、香澄は半ばあきれていた。涼はそんな二人のやり取りに特に反応を示さずに、そそくさと家の中へ入って行ってしまった。

「あら?その子があなたたちが保護したって子?」

 女性は愛に気付くとこちらまで駆け寄ってきた。遠くからではわからなかったが、目の前の女性はスタイルもよく、容姿も整っていて、同じ女性である愛が見てもかなり魅力的に見えた。

「初めまして。私は大國おおくに 日和ひより。あの怪物とかを専門に研究してるの」

「えっと、城戸愛です」

 愛は差し出された日和の手を取り、握手をした。挙動の一つ一つに日和の気品の高さが伺い知れた。

「それじゃ、これ、頼まれてたものね」

 日和は握手を終えると、足下に置いていた白いアタッシュケースを持ち上げて香澄に渡す。香澄はそれを受け取ると、アタッシュケースを開いて中身を確認した。

「ありがとう。悪いわね。突然頼んじゃって」

「別にうちの中を探せばまだまだ同じようなのあるし、どうってことないわよ。後は実戦テストとその微調整だけだけど。」

 日和と香澄はそのまま家の中へ入っていってしまい、結局愛は何も聞けず仕舞だった。

 そのままま成り行きで愛はこの家で生活することになり、香澄が昔使っていたというパジャマや下着をとりあえず使わせてもらう事にした。香澄か涼にあの戦いのことを問いただそうとしたが、涼は部屋でぐっすりと眠っていて、香澄は日和と何か相談事をしていて、とても取り合ってもらえそうになかった。

『それで、あなたは今野澤さんの家にいるのね?』

「うん。今のところ、特に問題はないし、しばらくはここにいようかなって」

 そして今、電話をかけてきたさくらと会話をしていた。庭先の家庭菜園を眺めながら、愛は不安でいっぱいで、こうしてさくらと話すことで何とか安心感を得ていた。

『私も今そっちに向かってる最中よ。色々とやらなきゃいけないこともあるし、あなたの転入手続きも必要だしね』

「……うん」

 愛は家の中で流れているテレビに目をやる。愛の母の死を告げるニュースが延々と続いている。愛の中の不安がいつまでも消えない要因の1つとなっているこのニュースは、どのチャンネルを回しても同じ内容をやっていて、肝心の愛は行方不明扱いになっている。

『それじゃ、そろそろ切るわね。じゃあね』

「うん。バイバイ」

 愛は電話を切ってポケットに電話を戻す。そしてテレビの電源を落とそうと振り返ると、香澄が盆に乗ったお茶に持っていた。しかも肝心のテレビの電源は既に落ちていた。

「隣、いいかしら?」

「はい」

 香澄は愛の横に座ると、盆に乗っていたお茶を愛に差し出す。

「ごめんなさいね」

 香澄は口を開くなりそう言った。その顔は深刻そうで、愛の心情を察しているように見えた。

「色々あって疲れちゃったわよね。涼があんな姿に変身できるなんて、普通の人だったら逃げ出しちゃうでしょうね」

 香澄のそういう口調はどこか悔しさが見え隠れし、涼があの姿で戦うことに少なからず後ろめたさのようなものを感じているようにも聞き取れた。

「これまであなたみたいな人を何人も見てきた。でも、誰しもが怖がって逃げ出しちゃった。保護しようとしたけど、みんな嫌がって、そのまま怪物に殺されちゃったり、自殺した人もいたわね」

 愛はそういった話を聞いてゾッとしたが、その人達の気持ちがわからないでもなかった。もし、あの夜足をくじいていなかったら、愛だって逃げ出していただろう。

「本当だったら、あなたのお母さんだって助けたかったけど、私たちの見立てが甘かったわ。本当、助けられなくてごめんなさい」

「いえ、いいんです。母のことは、もう、どうしようもないことですから」

 本当だったら、愛はあのことを問い詰めたいと思っていたが、しかしながら今聞いた香澄のことを考えると、問い詰めることができなかった。

 それからは、日和、香澄、愛の3人で夕食を食べ、風呂に入って客室に通された。

「しばらくはここの部屋を好きに使ってちょうだい。私は向かいの部屋にいるから、困ったときは呼んでね」

「ありがとうございます」

 香澄は外に出て行った。愛はいろいろありすぎた今日の出来事を整理する為にベッドに入る。体はかなり疲れていたのか、眠りに落ちるのは非常に早かった。



「……ん」

 愛は夜中、尿意に目を覚まして部屋を出る。トイレの場所は香澄に教えてもらっていたので、迷うことなく辿り着き、速やかに済ませてトイレを後にする。用を足したついでに目が冴えてしまい、そこであることに気付いた。この家は、香澄と涼だけで広すぎるのだ。

 二階建ての、それなりに広い一軒家だが、涼と香澄だけが暮らすにしては広すぎる。道中、香澄、涼の部屋を通り過ぎたが、それのほかに何の表札もかかってない部屋が2つある上に客室も見てきただけでも3部屋ある。

部屋が集中している2階部分でさえ、人と人とがすれ違えるぐらいの余裕もある廊下があるので、それと同等、もしくはそれ以上の広さを持つ1階の事を考えると、親元離れた姉弟が暮らすには異常な広さを持っていることに気付いた。

そして、愛はその疑念を確かめるべく、表札のかかっていない扉にゆっくり手を伸ばした。ドアノブに手をかけ、ひねる。この部屋には頻繁に出入りしているようで、ドアノブ自体は非常に簡単に回った。鍵がかかっている様子もなく、開けるのは非常に簡単だった。そして---

「あら、どうしたの?」

 背後からいきなり声をかけられて愛はビックリした。愛が振り返ると、パジャマ姿の香澄が立っていて、愛は開きかけていた扉を急いで閉める。

「そこは物置になってるの。物が落ちてきたりしたら危ないし、なるべく近寄らないほうが良いわ」

「そうですか……。ありがとうございます」

 愛は香澄に促されてそそくさと寝室に戻った。母親の死と、大会に出れなくなったことによってで愛の心のできた大きな穴は、この野澤宅の謎によって少しずつ、侵食されていったのだった。



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