手紙の配達
まず始めに、この小説で伝書鳩の話が出てきますが、登場する白いハトは伝書鳩ではないことを言っておきます。伝書鳩なら本来、帰巣本能を利用して手紙などを送ってくれますが、全く知らない場所に送り届けることはできません。設定上、白いハトはそれを全く無視した鳥ですが、ご了承ください。
昔よく使われていた伝書鳩は、今ではすっかり利用されなくなった。郵便ポストに手紙を入れれば安全に届けることができるし、メールを使えば一瞬で相手先に送れる。それに電話を使えば遠く離れた人とおしゃべりもできる。それらと比べ、伝書鳩は全くと言ってもいいくらい不便だ。贈り物を落としたり他の動物に襲われたりと紛失してしまう恐れがあって、ハトに任し切れないところがあった。
鳩小屋でぐっすり眠っているハトの群れの中に、一匹だけ真っ白でとても目立つハトがいた。
そのハトは外から流れ込む冷気に身震いをしながらうずくまっていると、鉄格子の扉が重苦しい音を唸らせた。小太りの男性が足を鳩小屋の中へ踏み入れ、白いハトの目の前までおもむろに歩いた。
「ハトを使うなんて変わった人だよ、全く。なにか未練でもあるのかねぇ」
ハトを見るなりそう独り言を言うと、ハトの足に手紙を括り付けた。
「いいか、ちゃんと受取人まで送るんだぞ。場所が分からなくなったら真っ先にここに戻ってこい。いいな?」
男性はハトに念を入れてそう言った。
お任せください。
ハトは男性に甘噛みして鳩小屋から勢いよく飛び出した。
コンコンと、くちばしで窓をノックした。しかし音沙汰もなく、虚しい音を立てただけだった。
受取人は留守なんだろうか。
ハトが降り立ったのは、窓に取り付けられた木材の踊り場だった。小さな鳥の巣が作れるくらいの、七羽の雀をぎゅうぎゅうに詰めてようやく納まるくらいの大きさだ。
もう一回だけコンコンと、窓をノックしてみた。しかし家の中はひっそりとして、なにも返事が返ってこなかった。
時間をずらしてまた来ようかな。
ハトが窓に背を向いて立ち去りかけたそのとき、部屋の中からがちゃと扉を開ける音がした。部屋に入ってきた女の人が、ハトに気づき、口を半開きにした。ハトは物音に反応して、その場で小さく跳ねて体を方向転換をし、再び顔を窓に向けた。女の人はハトを怖がらせないようにと、音を立てず、窓までゆっくり歩き、窓を開けた。
ハトは開けた窓からぴょんぴょんと跳ねながら中へ入った。女の人は思わぬ訪問者が部屋の中に入ってきたことに驚き、ただ呆然としていた。ハトの足に括り付けている手紙に気づくまですぐには気づけなかった。
「これは……わたしの?」
そうだよ。
ハトは短い鳴き声で返事をすると、女の人はその鳴き声の意味がちゃんと分かったようで、足に括り付けている手紙を恐る恐る外した。そして手紙を広げて読み始めた。
よし、仕事が終わったから、もう戻ろう。
「あ、待って!」
開けっ放しになっている窓に向かって飛び立とうとしたら、背後から女の人があわてた声でハトを呼び止めたので、広げた翼を再び折り畳んだ。
「すぐに返事を書くからちょっと待ってて」
女の人はそう言うなり、急いで――しかし一つ一つ言葉の意味をよく噛み締めながら――再び読み始めた。
女の人は書斎机に一枚の便箋を置き、すらすらと手紙を書き始めた。その走らせる万年筆のペン先は、まるでとても嬉しそうに踊っているように見えた。ハトは書いている手紙を覗き込む。刻まれた細い文字はとても優しそうに、しかし繊細だった。
嬉しそうに書いているはずなのに、女の人は泣いていた。口の端が少し上がっているから、嬉し泣きなんだろう、とハトは思った。
女の人の涙がぽたりと落ち、手紙の一部分だけ湿らせた。そのせいで文字がにじんでしまった。
「待たせてごめんね――わたしの返事をちゃんと届けてね」
女の人は、にじんだ文字を気にせずにハトの足に折り畳んだ手紙を括り付けた。
ハトは窓から飛び出し、空高く舞い上がった。
翼をはためかせて大体一時間ぐらい経ち、ようやく目的の場所まで着いた。
他の動物から襲われて引っかき傷があちこちできてしまい、まっさらな白い羽毛に赤い色がべっとり流れていた。久々の仕事のせいで体を動かさず、集中力が欠けていた。翼は疲労困憊で、体中ズキズキと痛かった。
ハトは器用に窓の淵に足を乗せた。そして足を挙げて括り付けられた手紙をちらりと見た。
若干血痕が付着している。これじゃあ文面は読めないんじゃないだろうか。ハトは焦った。
それでも送り届けるのがぼくの仕事。文面が読めなくて、それで受取人がカッとなってぼくを殺したって、そしてそのあと丸焼きにされたって構わない。送り届けることに意義があるんだ。
ハトは家の中の様子をうかがう。中には、別の窓の傍で下を除き見ている男性がいた。
彼に違いないと、ハトは弱々しくこんこんと、くちばしでノックした。すると、男性はその小さな音に敏感に反応して、ずんずんと早歩きでハトの方へ近づいていった。
急いだ男性が窓を開け放つのと同時に、ハトは窓から離れた。旋回をして窓へすーっと入っていった。
軟着陸したハトは床に突っ伏した。もう体力の限界だった。つばさに力を込めることができず、自力で立ち上がることも難しかった。
男性は、そんなハトなんかお構いなしに、足に括り付けている手紙を外してわなわなと体全身を震わせながら手紙を読み始めた。
全てを読み切るのにわずか数分しかかからなかった。
男性は体が崩れるようによろめきながら、ハトの前で膝をついた。
手紙が男性の手から滑り落ちた。ちょうど文面が天井に向けていて、ハトでも見ることができた。
文面は、文面は読めたのか?
ハトは足を震わせながら立ち上がった。読めなかったのなら、喜んで殺されよう。喜んで丸焼きにされよう。そして喰わされ、人の血肉になればそれでいい。
もはや威厳さのないとぼとぼ歩きで手紙のそばまで歩き、そしてじっと見た。運よく、文面に血痕が付着しておらず、ちゃんと読めることができた。手紙にはこう記されていた。
例えいたずらだとしても、わたしは喜んで受け取ります。でも、きっとこれはいたずらじゃない。だって、ハトを使ってこんな素敵な手紙を書く人が本気でいたずらしようなんて思わないもの。
突然手紙が来て驚きました。こうやって文通することさえ難しいと思っていました。でもこの白いハトのおかげで、こうやって意思疎通できるし、あなたの気持ちを知ることができて、本当に良かったと思います。
わたしもあなたのことが……でした。それが故に、他の人を……になることが難しくなった原因でもありました。あなたがわたしのことで引きずっていたことと同じように、わたしもあなたのことで引きずっていたのです。悲しみにくれたのもそれの理由です。でも、あなたからくれた手紙のおかげで、吹っ切れることができました。もうくよくよなんかしません。
あなたが勇気を出して告白したのと同じように、わたしも告白します。
わたしには、……な人がいます。
あなたがどう思うか分かりませんが、わたしがそこに行き着くまで待っていてください。
しかし、一部分だけが文字がにじんでいた。あの女の人の涙が落ちてにじんだのだ。一部分だけにじんだ文字の形は、どれも同じような形をしていた。まるで、一部の文字だけは記してはならないと誰かが細工したように見えた。
男性がうなだれているのは、文面が読めないからじゃなくて、文面から汲み出た強い決意からだった。
ハトは男性のほうに目線を送った。最初は悲哀の満ちた顔つきをしていたが、今は口元に小さい笑みを浮かんでいた。その笑みからはなんだか寂しそうな面影を漂わせていた。
ハトはそんな男性を最後まで見届けながら、静かに体を傾け、ゆっくりと目を閉じた。
何百年もこの仕事をこなしているけど、本当に慣れない。複雑そうな顔を見る度、こんな仕事をしていいのかと、考え込むときもある。でも、陽が地平線から覗き込むころになればけろりと忘れてしまう。傷もすっかり治ってしまう。まるで、誰かがぼくの時間を巻き戻したかのように。
ぼくは白いハト。差出人と受取人がいる限り、そしてどれだけ重傷を負ったとしても、どんな手紙や贈り物もお届けします。どんな場所でも必ずお届けします。