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病室に戻って直ぐに茅ヶ崎の両親が慌てる様子も無く、入ってきた。
父親と思しき男は黒いスーツを着ていて、いかにも仕事をしているといった雰囲気で、その後ろを歩く母親と思しき女は白いスーツを着ていて父親同様、仕事
に命を燃やすといった雰囲気。
父親は開口一番とんでもない事を言い出した。
「親に面倒をかけるな。栄、お前の所為で午後の会議を延期しなくてはならなくなった」
「というと、あなたが私のお父さんですか?」
茅ヶ崎の切り替えしには流石に両親も難色を示した。
「そして、あなたがお母さん」
茅ヶ崎は構わず、母親に話しかける。
「栄、私たちを忘れたのか?」
頭の回転が速いのか、早急に事態を収拾し、父親は言った。
「はい。今日より昔のことが思い出せません」
それを聞いて母親の方が直ぐに口を出した。
「栄、ヒルベルトの零点定理を証明してみなさい」
「・・・? 何ですか、それは」
「栄には」
ここで初めて麻香が口を開いた。
二人同時に麻香を見つめる。
「栄には中学二年終了程度の知識しか有りません」
母親は後ろに倒れた。父親が間一髪それを受け止める。目を強張らせ、呪文のように呟いた。
「そんな馬鹿な・・・。私の栄は天才で・・・」
「栄はあなた方の人形じゃないですよ」
「!?」
「私の話が理解できますか? 母国語である日本語で話しているんだから趣旨ぐらいは理解してください」
「・・・あんたは一体なんなんだ?」
「あなた方が娘に調査をさせた天才ですよ」
「な・・・!?」
「私は栄の自由を要求しますよ。ご安心を。二つだけです。過剰な家庭学習と許嫁」
「あんたには関係のないことだろう」
「あるんです。あなた方は―――」
麻香はあくまで東大出の二人を見下して言う。
「―――私の友人を人として扱わなかった」
この言葉には母親が強く反発した。
「自分の娘の教育法を他人にとやかく言われる筋合いはないです!」
「いえ」
麻香は、その場を永久凍土に閉じ込めた。
「貴女の娘ではありません。私の友人です。間違えないで頂きたい」
父親はどうしようもないと言う顔で首を振り、母親を抱き起こした。
「まったくさっきから―――」
「妄言を言っているのはあなた方です」
麻香は父親の言葉を先取りした。これには父親も言葉を失ってしまった。
「どちらが主導権を握っているか、分かっていないようですね。茅ヶ崎繋さん。あなたが敵に回しているのは誰ですか?」
麻香は次に母親の方を向いた。
「どう思いますか。茅ヶ崎華子さん」
妹は相手の心を壊すのが得意である。
何をどのタイミングでいうと心的ストレスが最大になるかを知っている麻香にとって、それは言葉による拷問だ。
「おま―――」
「三上商事四千、海日用六千、壁耳商事二千五百」
繋の言葉を遮って、麻香は何かの羅列を口にした。
それを聞くうちにまた、華子の顔が青くなる。
「駄目ですよ。証拠はちゃんと払拭しないと。中学生でも簡単に見つけられるようじゃ、中途半端な処理しかしてないですね」
「な、何故それを・・・」
華子の顔は蒼白と言うより真っ白だった。
「今から何をしても無駄ですよ。事前に調査はしたでしょう? 大和撫子の危険性も十分過ぎるほど理解していると受け取りますよ」
「な、な、な・・・・・・」
「栄は自分を殺してほしいと私に言いました」
「えっ!?」
初耳だ。
僕も一緒に驚いてしまった。
ベッドを見ると茅ヶ崎本人も驚いている。覚えてないのだから当然だ。
「私は殺してあげましたよ。他ならぬ友人の頼みですからねえ。そこに座ってるのが」
たっぷりと時間を置いて麻香は止めを刺した。
「あなた方の作品『栄』の亡骸です」
両親は膝から崩れた。
二人とも口を開けて、心そこにあらずといった感じだ。
「お父さん、お母さん・・・」
栄の呟きだけが聞こえた。
「私に自由を下さい」
それは、僕らに一瞬記憶が戻ったかと思わせるような、広々とした大空に憧れる人間のような、そんな呟きだった。
「さて、兄貴帰ろうか」
心機一転。
麻香はご機嫌そうに僕に言った。
「麻香さん」
「麻香でいいよ」
麻香は茅ヶ崎の呼び掛けに間髪入れずに快活に答えた。
「友達になってもらえますか?」
「そうそう、前の栄から今の栄に伝言があるんだった」
麻香はニヤッと笑って言う。
「私は天才だってさ」
一瞬。
その間は刹那とも言えるほど一瞬だった。
「化け物の一人や二人、問題ありません」
茅ヶ崎は確かにそう言った。
麻香は「そっか」とだけ言うと、「明日には退院出来るよ」と付け加え病室のドアを開ける。
「娘をお前に近づけようとした代償が娘を失うと言う事か・・・?」
見れば繋は目を閉じ、俯いていた。
「栄は・・・・・・」
「神話のイカロスは太陽に近付きすぎてどうなりました?」
麻香は振り向くことなく言った。
「まあ、今回の蝋の翼はあなた方でしたけどね」
無理矢理なこじつけ。
立ち止まっているところを見ると、最後は僕にとって置いてくれたのだろう。
麻香は歯牙にもかけなかったが、僕はいい加減頭にきていたのだ。
「えっと、ご両親方」
何て呼んで良いか分からず、中途半端な丁寧語になってしまう。
僕の言葉に二人はこちらを向いた。
「僕の妹は化け物じゃないですよ」
「・・・・・・ふん。『それ』を化け物と呼ばずしてどう表現すればいいのだ?」
繁は鼻を鳴らして嘲る。
「参考程度に」
また口を開きかけた繋を遮るように僕は言った。
「―――僕は麻香と呼んでいますよ」
麻香はふっと笑って歩き出す。
捨て台詞としては上等。
そう言ってくれたらしい。
それ以上両親二人は何も言わなかった。
*
結局あの時の話ははったりか・・・。
古往今来お前たちは友達だったって訳だ。
「ねえ」
帰りの自転車で、荷台からまた声が掛かった。
「兄貴は私の事好き?」
「嫌いだね。超が付くほど」
「ありがとう。私も嫌いだよ、兄貴の事」
「・・・感謝するよ」
何だ、この会話・・・。
マゾ同士の愛の確認か?
「私さ、時々この世界を滅ぼそうかと思うときがあるんだよね」
「勘弁してくれ・・・」
そんな思いつきで滅ぼされていい世界ではない。
「でも毎回思うんだよね。世界を滅ぼしたら兄貴を苛める事できないなあって」
「本当に兄を凹ませるのが上手いな、お前は」
そんなしょぼいことで思い留まってるのか・・・。
世界が急に安く思えてくる。
「そうだよ。私にとってこんな世界要らないし。兄貴と遊べればそれでいいんだよね。でも―――」
「?」
「もう一つ、滅ぼさない理由が増えちゃったよ」
「・・・・・・」
茅ヶ崎栄。
彼女はどうしても親の呪縛から逃げ出したかったのだ。昔から、ずっと。
そんな時、一人の女性に遭遇した。
そいつは昔から天童とされていた自分の遥か上に存在していた。
自分の現在地を見せ付けられたのだ。
天狗の鼻を見事に圧し折った。
そこで。
茅ヶ崎は折れた鼻を捨て、麻香を頼った。
潔く。
清々しいほどに。
『助けてくれ(ころしてくれ)』と願った。
私を『殺してくれ(たすけてくれ)』と頭を下げたのだ。
茅ヶ崎栄。
記憶を失った僕の後輩。
彼女は―――救われた。
そして麻香を受け入れた。
惹かれたものは何かと、詮索するのは無粋だ。
救われたのは茅ヶ崎だけではない。
栄の記憶を消した張本人。
時間を握り潰した少女。
麻香も―――救われたのだ。




