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茅ヶ崎栄が交通事故にあったと言う知らせを聞いたのは、僕が壬生高校に見事合格し、カツ丼と言うタイミングがおかしい夕食を食べた日の翌朝、正確に言えば午前10時頃、まだ僕が布団の中でゆっくりと惰眠を貪っていて、それを麻香に踝に対する部屋のドアの一撃で起こされる直後だった。
そんな起こし方ばかりするから部屋のドアは凹むのだ。
ともかく僕は部屋着を素早く着替えて、麻香がドアを開ける勢いにも負けないように力任せにドアを蹴破り、部屋を飛び出た。
茅ヶ崎は麻香の友人と言っても、既に僕の友達でもある。
僕ははっきり言って焦っていた。
それは僕の友人が大変な事になっていると言う事よりも、どちらかというと妹の友人が大変な事になっていると言うことに、である。
あろうことか、麻香の方を心配していた。
友人を失うと言う事はどういうことなのか、僕はまだ良く知らないが、相当のショックである事は推測できる。
そのストレスに、妹はどう対処するだろう。
それを考えると決して冷静にはなれなかった。
もし僕はこの時点で、冷静になって今生じている事象の矛盾に気付いても結末は変わらないだろうが、それでも後悔してしまう。
本当に気付くべきは茅ヶ崎と始めてあった時点だったとしても。
僕は階段を落ちるように降り、玄関を出て、自分の自転車に飛び乗った。荷台に麻香が(あくまで上品に)飛び乗る。こういう緊急事態には、二人乗りも目を瞑らなくてはならない。
麻香は走ったほうが速いと思うのだが、それも一々議論している暇など無いようだ。
一刻を争う。
麻香は身長の割には重くないので、二人分の体重をそれ程感じずに漕ぐ事ができる。
僕は三つしかないギアを最大に設定し、全力で漕ぎ始めた。
ここから茅ヶ崎が搬送された病院まで十分。
考えられる限りの最短ルートを頭の中で構成すると、後ろから声が掛かった。
「その道は今日水道管の工事をしてるから通れないよ。私が言う道を通って」
麻香の言うことだ。拒む理由は無い。
「分かった」
僕は足をフル回転させる。
ここ最近で筋力が落ちた為、自転車の最大ギアでの二人乗りはやっぱり多少は力が必要だった。他人が見れば少し引くくらいの形相だろう。
二人乗りをしながら全力で漕ぐ男。
何かあったのではないかと 実際何かあったが 思わせるような、シュールな絵である。
麻香の案内により、信号には一度も引っかからない。全て青のGOサインだ。本来なら爽快だが、残念ながら事態は悪かった。
いつかの話で青は安心の保護色。
今日ばかりは、鎮静効果も薄れていた。
*
僕らは麻香のおかげで途中、時間を一切ロスすることなく、病院に辿り付く事が出来た。
僕は自転車置き場に殆ど放り投げるように自転車を停め、麻香と共に茅ヶ崎の病室に急ぐ。
受付の看護師の方に聞く限り、どうやら手術を必要とする怪我ではないようだ。話では徐行していたトラックのミラーに頭が当たったらしい。つまりはドラマ的な重大な交通事故ではないということだ。
僕は少し落ち着いた。
少なくとも命に別状は無さそうだ。
救急車で運ばれたのも、頭を打って気絶しただけらしい。ひとまずはホッとする事ができる。
受付で教えてもらった三階まで上り、病室の『茅ヶ崎 栄』の名前を確認し、麻香は扉を開けた。
茅ヶ崎は一人でベッドの上で座っていた。
―――しかし。
彼女は、いつもの茅ヶ崎栄ではなかった。
目は半開きで、瞳には光が灯ってなく、何処かしら虚ろで、それはもう生気を感じなかった。目の下には濃い隈があり、女子中学生特有の肌のハリは完全に失われている。体に力が入っているようには見えず、上半身は枕をクッションにして壁に寄り掛かっている。まるで人形だ。
「栄」
麻香が呼び掛けると、彼女は視線だけをこちらに向けた。
それは見据えるというより、さながら、音に反応する機会センサーのようだ。
茅ヶ崎の視線は麻香と僕とを交互に行き来して、最終的に呼び掛けた本人である事を判断したのか、麻香の方に落ち着いた。
そして。
意外にも彼女は言葉を発した。
「―――さかえというのは何ですか?」
「っ!?」
僕は驚愕を禁じ得なかった。
こいつは今、何と?
「何って、貴女の名前じゃない」
「私の名前ですか・・・? 先程も看護師の方や医師の方が、私をそう呼んでいらしたので、もしかしたら名前ではないかと思っていましたが・・・。そうですか。私の名前は栄と言うのですか。では、名字は何か、ご存知ですか?」
「茅ヶ崎だよ。貴女の名前は茅ヶ崎栄」
麻香の恐ろしいほど冷静な対応と、本来使うはずの無い丁寧な敬語の茅ヶ崎との会話を、僕はまるで他人事のように聞いていた。あたかも傍観者のように、僕はそこに存在した気がしなかった。
「あなた方はどなた様でしょうか」
「誰だと思う?」
「最初に話しかけて頂いた医療関係者以外の方だと判断し、考察するに両親でしょうか」
「栄は記憶と一緒に知力も落としたの?」
「・・・やはり違いましたか。それでは第二候補の姉と言う結論に―――」
「友達よ」
いい加減面倒だ、と言いたげに麻香は正解を口にした。
「そして私は貴女と同学年よ」
「ではそちらの男性の方は後輩―――」
「一学年先輩だよ」
お前より大きくてどうしてその結論に達する?
本当に頭が悪くなったんじゃないのか?
「失礼しました」
茅ヶ崎は頭を下げる。
何!?
この後輩が僕に謝罪するだと!?
ここが院内じゃなかったら写メるところだぜ。
「兄貴、ちょっと」
「ん? お、おい。麻香?」
麻香は僕の腕を引っ張って、病室を出た。
「今の栄がどんな病気か、分かる?」
「ああ。なんとなく」
素人の僕でも茅ヶ崎の病名は分かった。
「記憶消失―――だろ?」
「そう。概念は健忘の中でも記憶喪失。あの症状で言うと親の顔も私たちも忘れてるから、全生活史健忘と見て間違いないね」
「全生活・・・?」
「漫画や小説で言う『ココハドコ?ワタシハダレ?』ってやつだよ。発症以前の記憶が全部吹き飛んじゃうの」
「成る程。発症者を外人にする必要性が分からないが分かりやすい例えをありがとう」
そしてそのカタカナ発音が妙にうざい。
「愚兄でも分かる例だよ」
「どさくさに紛れて悪口を言ったな!」
愚かとか言うなや!
さっきまでの緊張感たっぷりの進行が、遂にいつものギャグパートだよ!
「でもさ、麻香」
「何?」
「治るんだろ? 小説の記憶喪失なんて大体は完治の確率が高いんだから」
それにお前は麻香なんだから。
「治るよ、当然。全生活史健忘は元々治る病気だからね。原因が外部からの身体的干渉なら尚更」
しかし、麻香は続けた。
「普通なら、ね」
「は?」
普通、なら?
僕は麻香の最後の一言に『?(ぎもん)』を表す。
「そう、普通なら。普通は頭の中に記憶が残ってるもの」
麻香はそう言ってそこにある椅子に座った。横にスペースを残していると言う事は、僕に座れと促しているのだろう。駅のことを思い出し、僕は少し罪悪感を感じるが、続きを求めるべく隣に座った。
「いい? 記憶喪失とか、物忘れっていうのは二つに分けられるの。過去の記憶が思い出せなくなるタイプと記憶が蓄積されなくなるタイプ。栄はどっちだと思う?」
「前者だろう?」
「そう。過去を忘れてしまったパターン。でもそもそも忘れるって言うのは記憶が消えるって事じゃないんだよ」
「・・・・・・」
「忘れるって言うのはね。記憶を探し出す糸口が見つからない状態を言うの」
「糸口・・・」
僕は麻香の言葉を復唱する。
何か話を理解するためには、キーワードを拾う事が重要だ。
「縁日の出店で紐を引いてその先に付いてる賞品が貰えるって言うお店知ってる?」
「ああ、知ってる。でもそれが何?」
「忘れるって言うのはその賞品を繋ぐ紐が無い状態を言うんだよ。賞品を記憶とすると紐はその記憶を呼び起こすための鍵。それが糸口だよ」
「つまり記憶喪失者って言うのは記憶が賞品として存在するけどそれを引き出すことが出来ないって事だな」
「そういうこと」
珍しく肯定された。
「成る程。分かりやすい例えをありがとう」
「ゴミでも分かる例えだよ」
「はっきりと悪口を言ったな!」
最早工夫すらしない直球だな。
「・・・・・・それで、茅ヶ崎はどうなんだ?」
「栄は人為的にその記憶を修正不可能に裁断されてるの。箱の中の賞品は、ミキサーでぐちゃぐちゃにしてある」
「っていうことは・・・」
「そうだよ。栄の記憶が戻る事は無い」
「・・・・・そんな」
嘘だろ・・・。
茅ヶ崎の記憶が戻らないなんて・・・。
僕たちのことは忘れたなんて・・・。
・・・・・・ん?
待てよ。
「麻香。今『人為的に』って言ったよな」
「言ったよ」
「茅ヶ崎の記憶を消すなんて、どこの誰がやったんだ?」
ぶつかったトラックの所為か?
そういうことなら、麻香こんな所で僕に説明なんてしてないで
「無理だよ。そんなこと。記憶を粉々に粉砕するって言う事はそう簡単に出来る事じゃないんだよ。記憶は交通事故みたいに一瞬で壊れるほど柔じゃない。準備期間が少なくても一日は必要だね」
「それじゃあ一体誰が・・・?」
「私だよ」
え?
最初は聞き違いかと思った。
しかし、それを空耳と勘違いする時間も一瞬で、直ぐに麻香は同じ台詞を吐いた。
「私だよ。茅ヶ崎栄の記憶を消去したのは」
「お、お前。吐いて良い嘘と駄目な 」
僕の言葉は麻香の僕を見る目で最後まで続かなかった。
麻香は無言を続ける。
不敵な笑みと共に。
「で、でも麻香。一日の準備期間が必要なんだろ?そんな時間お前が何かやっていたら流石に茅ヶ崎も気付くだろう・・・?」
麻香は遂に沈黙を破った。
「準備する方法なんて様々だよ。今回は私の言葉に乗せた」
「言葉、だと・・・?」
まるで窮地に陥った敵キャラのような台詞を口にする僕がそこに居た。
「言葉って言うのは単純だけど、効果は絶大なんだよ。言うでしょ、言霊とか。それで、その日は一日中栄と喋って基礎を固めてた」
「一日中栄と喋って・・・」
僕はその様な状況を知っている。
「そう。兄貴が休館日である図書館で受験勉強をしているとき、私は栄の記憶破壊の準備をしていたんだよ」
あの時・・・!
麻香と茅ヶ崎が他愛の無い会話を繰り返していた、あの時!
「兄貴はあの時の私の話を16進法に改変して、それに加えて3回暗号化して、記憶を消す言葉に変換できる?」
「・・・!」
僕の中には、体験した事の無い感情が溢れていた。
これを激情と呼ぶのだろう。
「麻香! お前は親友の記憶を!」
「親友? はっ! 笑わせないで!」
立ち上がって声を上げた僕に対して、麻香は座りながら冷淡に僕を一蹴した。
「毎回毎回私に闘争心を抱いて、内心で私のことを化け物って蔑んできたあいつが親友? 私の才能に嫉妬して、私の弱点を必至で探していたあいつが親友? 冗談ならもっと面白い冗談をいうんだね。もてないよ?」
麻香は冷静に、視線を僕に向けずに言う。
「ふざけないで。最初から『化け物』を見る目で、私に興味本位で近付いてきた時から、私はあいつのことを友達だなんて思ったことはない」
麻香ははっきりと切り捨てた。
四捨五入の四以下よりもばっさりと切り捨てた。
「麻香・・・・・・」
確かにそうだった。
最初から何もかもが矛盾していた。
麻香という妹の存在がある時点で、その友人が交通事故に合うこと事態がおかしい。
人類よりも千歩先を歩く麻香が、茅ヶ崎栄の事故を予測していないわけが無い。
事故なんてものが起こるはずが無いのだ。
僕は椅子に崩れるように腰を下ろした。
「後悔なんてしてないんだよな」
「してると思うの?」
妹はもう怒気を発さず、普通の口調だ。
「思わない」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
麻香は顔を僕に向ける。
「どうする? 怒る?」
「怒らねえよ。お前がやったことなんだろ。つまりそれは何か理由があるって事なんだろうが。僕は妹を信じてるからな。僕の妹は無駄な事はしない」
今度は僕が視線を外した。
「・・・・・・そりゃどうも」
よいしょ、と麻香は立ち上がった。
「ちょっと今回の最終ラウンド行って来るわ。兄貴も行くでしょ?」
きっと面倒臭い兄妹だと思っているだろう。
僕はこいつの手の上で踊っているのだろう。
面倒臭い兄だと思ってもらっても結構。
どうせ馬鹿なら踊らないと損だ。
「当たり前だ」
そして僕も腰を上げた。




