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春が近い。
少しだけ暖かい朝の日差しの中を歩いて、そう呟いた。
高校入試まで一ヶ月をきったある日、僕は勉強の疲れから気分転換しようと外に散歩に出掛けた。
というのは言い訳であり、本当は今朝起きた時から勉強したくない気分だっただけだ。ここしばらく机に向かって根詰めていたので何かだるい。それに麻香と茅ヶ崎の図書館での教授からは勉強もスムーズに進んでいて(流れを掴むとはこの事かと悟った)、今日一日何もしなくても恐らくは大丈夫だろうと思う。
まあそういうわけで今日は本能の赴くまま、日中は街をブラブラすることにした。
学力が同じぐらいの友人が見れば高校は諦めたのかと思われてしまうだろう。
高校受験では大学受験とは違い、そんなに焦るほど大変ではないはずが僕らの志望校は多少人気がある優秀な進学校。
成績の下位にいる僕らは普通志望すら、させてもらえないのだが、何の因果か僕らのその志望校の申告書が何事もなく通ってしまったのだ。これではもう勉強する他ない。
奇跡的にも友人達は、所謂「やれば出来る子」だったらしく努力の成果が最近テストに反映されだしてきている。そこまで突出しているわけではないが、既に勝負できる範囲には入ったらしく、最後の仕上げに入っている。
僕は切符を買って、改札を抜ける。
・・・・・・。
これは偶然か。
それとも―――必然か。
そもそも麻香が勉強をサボタージュする僕を放置して、見逃す事がおかしいのかもしれないが、それでもこれは偶発的な出来事なのか判断しかねる。
駅のホームのベンチで眠そうに座って、読書をしている女子に見覚えがあった。ついぞこの間勉強を教わった麻香の友人がそこにいた。
ふう。
見掛けたのに無視する事はない。
一応この間のお礼も兼ねて挨拶でもしておこう。
「お早う」
一言声を掛けた。
「あ、先輩じゃん。おはようございー」
茅ヶ崎が本から顔を上げ、タメ口で対応した。
挨拶ぐらい言い切ってほしい。
一応先輩なんだけどなあ・・・。
だが自分の事を覚えていてくれてホッとする。
正直、忘れられたらこの後はどうしようかと思った。
「つか、先輩はこんな所でなにやってんの? 手ぶらだし、勉強は?」
「ああ、今日はサボりだ」
「知らないよ。麻香にばれた時は・・・」
良く分かってるな。
と、僕に向かって合掌する茅ヶ崎を見て心の中で苦笑した。
「それで? 何処行くの?」
「茅ヶ崎は何の予定だ?」
茅ヶ崎は「勉強」と短く答えた。
「図書館か?」
「塾に決まってんじゃん」
決まってるのか・・・?
「ま、教わりに行くわけじゃないけどね」
「・・・自習室?」
「ブッブー。はずれー」
「仮眠室」
「何で態々寝に行くの? 正解は、実験室」
「実験室? 最近の塾はそんな設備があるのか?」
「しょぼいけどね。ここだけの話、私のお目当ては塩酸とかの劇薬」
「おいおい、ぶっちゃけ過ぎてないか?」
発言が犯罪染みている。
「そういう危険思想はないから安心しなさい」
そういって茅ヶ崎は座っている場所を少し横にずれて僕が座れるスペースを作った。座れということなのだろう。麻香は絶対にこんな事はしないから涙が出そうになる。
「何泣きそうになってんの? 早く座れば?」
「サンキュ。それで何の実験をする予定なんだ?」
僕は茅ヶ崎の隣に座り訊いた。
「んー。金の練成」
「錬金術をするのか!?」
鉛を金にする、あれか!?
魔術的な、あれか!?
「まあ、それは冗談だけど今は原子物理の応用によって可能なんだ」
「えっ? できるのか?」
僕自身冗談で言っていたのに・・・。
「核分裂や核融合を応用すれば理論上は可能。だけど核分裂の方は長い年月と膨大なエネルギーが必要になって、作ったとしても生成資金が掛かるから意味無いし、核融合の方は必要な条件を発生・制御できる技術はまだ無いわけ」
「へえ。そうなのか」
ハッキリ言ってさっぱり。
「核融合は麻香が出来そうだよね」
「確かにそうだな。・・・・・・茅ヶ崎、悪いが用事思い出したから僕は帰る」
「下心が丸見えだよ、先輩・・・」
そう簡単に出来ない、という茅ヶ崎の言葉で僕は上げた腰を下ろした。
「それで、何の実験をするんだ? 塩酸と水酸化ナトリウムを中和させて塩でも生成するのか?」
「中学生の実験じゃないんだからさ・・・」
茅ヶ崎は呆れて溜息を吐いた。
お前、中学生だろうが。
「これだから・・・。塩酸と言えばすぐ中和だよ」
悪いな! それぐらいしか知らなくて!
「それで先輩は何処に行くの?」
「そうだな・・・。それといった予定は無いな。街には出る気でここまで来たんだけどな」
未定も未定。
決定事項は街に行くことのみである。
「自由でいいねえ。まるで受験生とは思えない」
「それだけ頭が良いってことじゃないのか?」
「妹とその友達に勉強教わった張本人がよく言うよ」
「フフフ。お前らの学力を測っていたのだよ」
「測られてたのは先輩でしょ」
「そうだったな」
測られて、計られていた。
麻香の手の上で踊っているだけと言うよりは、手の上で生活しているようなものだ。まるで世界が麻香のおままごととも言える。
特に麻香の調子がいい時は、自分のアイデンティティーを見失ってしまいそうになる。
ま、麻香は随時絶好調だが。
「あ、来たね」
駅のホームに電車が入って停まった。電車が来る事は既に放送で知らされていたので驚くまでも無い。
茅ヶ崎が立ち上がった。
「先輩も乗るの?」
僕は追うように立ち上がって茅ヶ崎の隣に並ぶ。
「一緒の車両じゃ嫌なのか?」
「ハハッ。麻香はそう言うかもね」
肯定されたらこのまま膝を折って額が地面に着くところだった。
茅ヶ崎と居るとひやひやさせられる。
麻香の友達だからって麻香な訳じゃないんだよなあ。
妹の友達と言う初めての体験で緊張しているのは、寧ろ僕の方かもしれない。
電車に乗り込み、ベンチの様に隣り合って腰掛けた。今日は、客が疎らで僕らが座ったシート以外にも幾つか空席がある。ただ、乗りあった乗客全員、女性と言う事が気になった。
「・・・茅ヶ崎、これって女性専用車両じゃないよな?」
僕は恐る恐る茅ヶ崎に訊いた。
「私が居るから大丈夫」
「騙された!」
別の車両して置けばよかった!
予想通りじゃねえか!
「冗談だよ、冗談。そんな元気にはしゃがないでよ」
落ち着いて周りを見ると若い女性の二人がこちらを横目にクスクス笑っていた。
「驚かすなよ。全力でホームに下りなきゃいけないところだったぞ」
「窓から?」
茅ヶ崎の爆弾発言時には既にドアは閉まっており、出発しようとするところだった。
しかし、もし本当だったらやるかもしれない。
ガタン、と。
電車が僕らを乗せて発車した。
「先輩」
「なんだ?」
「時に、許嫁って知ってる?」
「親が子供の結婚相手を決めてしまう、あれか」
「そうそう。三平方の定理も知らなかった先輩でも許嫁は知ってるんだ。もしかして文系?」
「一つ質問に答えただけだというのに、お前は何故一言二言余計なことを言う?」
確かにあの時お前に教えてもらった定理だが。
何か悪い事言ったかなあ・・・。
「先輩には許嫁っている?」
「いるわけねえだろ。親が大企業の社長って訳でもない。それにそんな政略結婚みたいな制度はとっくの昔に廃止されてるんだから」
室町時代の武家かよ。
「廃止って言うか規制ね。憲法24条辺りで当事者の合意に基づくようになったから」
「辺りって・・・」
アバウトだな。
親しみ易くていいかもしれないが。
「どう思う?」
「どう思うって・・・」
アバウトだな。
漠然とし過ぎだ。
「自分がそうだとしたらってこと」
「僕に許嫁がいたらどう感じるかということか?」
コクッと、茅ヶ崎は頷いて肯定した。
「そうだな・・・。相手が出来た人間なら言うことは無いと思うが、性格が悪かったら結婚はしたくないな。それ以前に相手の気持ちも分からないのに親が勝手に決めるっていうのが考えられないな」
「相手を好きになる努力はしないの?」
「最終的にはそうなると思う」
「諦めるの?」
「心底心中に決める相手がいない限り、無理に反抗はしないんじゃないかな」
「相手が顔も頭も性格も最低ランクでも?」
「そん時は麻香にでも頼むよ」
「仲睦ましいね」
「別に甘やかされてるとは思ってないけどさ。麻香はああ見えて僕が理不尽な目に遭ってるときは助けてくれるんだよ。それでかな、変な諦め癖がついちゃって」
「妹頼って今度は責任転嫁? サイテー」
「かもな」
かも、じゃなくてそうなんだけどな。
責任転妹。
ズルイ兄だよなって心底思うよ。
「あたしはね」
茅ヶ崎は少し黙って遠くを見る目で言った。
「あたしはいるんだ。許嫁」
「へえ。そういえばお前、いいとこのお嬢様だっけ?」
「一応ね」
「それでそのお相手は?」
「取引相手の社長の息子」
「どんな奴なんだ?」
「知らない。けど噂で聞くには世間知らずの我侭小僧らしいよ」
「あー。何て言ったらいいかな」
ここで慰めるべきか・・・。
僕ってまったく気が利かないよなあ。
「別に気遣わなくてもいいよ。自分でも貧乏くじ引いたと思ってるから」
そう言われても対応に困ることには変わりない。
いきなり変な質問したと思ったら。
つまりこういうことか。
「当然結婚したくないんだろ?」
「当たり前でしょ。まだ中学生の私の人生のレールが既に錆付いてると分かって進みたくないと思わないほうがおかしい。親に反対しても決定事項だって。自分の子供を道具としか思ってない」
「ま、まあまあ。落ち着けよ」
決壊寸前の茅ヶ崎を必死にあやすと、何とか落ち着いたようだ。
え、何?
こいついきなりヒステリックになるタイプ?
「あたし、両親が嫌いなんだよね。お父さんもお母さんも大嫌い。憎いって言っても過言じゃないぐらい。お父さんは仕事しか頭に無いし、お母さんはひたすら私を完璧にしようとしてる」
落ち着いたと思ったのは気のせいだった。
完璧と言った時、あの夜が一瞬思い返された。
「娘を育てるって言う感覚じゃない。言わば自慢の娘を作ってる。愛情も感じないし、自分の自己満足の為だけにあたしを教育してる。許嫁の話を聞いたとき、思った―――」
この時点で僕はこの一歳年下の中学生の話を最後まで静かに聞いておこうと決めていた。
「―――今まであたしが生きてきた時間って、誰のものだろうって」




