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「それじゃあこういうのはどう? エメラルドグリーンに浮かぶ氷塊」
「だから麻香。厨二っぽいって」
「馬鹿ね。こういうのは格好付けたもの勝ちなのよ。センス感じれば厨二であろうと、なんだろうと受け入れるものなの」
「そうなの? んじゃこれは?」
「漆黒の大雨の後の水溜り。―――あ、兄貴、それはこっちの公式ね」
「・・・おう」
「センスは感じないが面白いな、それ。―――先輩、それは分数で大丈夫だよ」
「・・・ああ」
「今度は栄が考えてみたら?」
「よっしゃ、お題頼む」
「いいよ。・・・これはどう?」
「難しいな・・」
茅ヶ崎は少し考えて、
「・・・・・・柑橘香る小さな空間」
「渋いなあ。―――あ、兄貴、それは・・・」
「そいや!!」
僕は自習室の机に並べられた参考書とノートを投げ飛ばした。
頑固親父がちゃぶ台を引っくり返すように。
本当は机ごと引っくり返したかったのだが、持ち上げる力がないこと以前に、図書館の公共物なので止めておいた。やっぱり皆が使うものは大切にしなければならない。
「最近のガキは切れやすいと言われているのは本当だね」
「喧しいわ! どうして僕が受験勉強している横で『喫茶店のメニューを格好よく言い直そう』とかいうゲームで楽しんでんだ!」
「別にいいじゃん。栄も勉強手伝ってくれてるんだし。二人の家庭教師なんて兄貴にしては生意気だよ。感謝しろよ。崇めよ」
「知るか、そんなもん! 感謝は良いとして、妹を崇拝するとか何の罰ゲームだ! つーか麻香は兎に角、なんで茅ヶ崎までも高校受験の勉強が分かるんだよ!?」
「栄は頭がいいんだよ。なんたって両親は東大の卒業生で、今は某有名企業の会長と秘書。サラブレットだもん。もう大学卒業できる程の学力を身につけてるんだよ」
「マジ!?」
「ああ、まあね。親が教育熱心で、遊ぶよりも勉強といろいろなものを詰め込まれた」
そこでふと、僕は茅ヶ崎の顔に陰りを感じた。微かだがハッキリとした陰気がその場にそよいだ気がした。
「そんな栄と私が教えてるんだから文句言わないでさっさとやりなさいよ」
「・・・分かったよ」
僕は自分で投げた参考書類を取りにいく。
はあ・・・。
なんとも惨めである。
なんで年下二人に勉強教えてもらわなきゃならないんだよ・・・。
「本当に兄貴は数学が出来ないねえ」
参考書を拾って席に戻るや否や、麻香が悪態をついた。
「しょうがないだろ。数式を見るだけでイライラしてくるんだから」
そして睡魔に襲われる。
勉強が分からない人の典型的なパターンである。
「一回完璧に解いちゃえばその後もスムーズに出来るんだよ」
麻香は言う。
「流れって大切なんだよ」
「流れ?」
「言い換えれば自分のやる気。何かしら自分のやる気を刺激すれば、いつも以上に思考が働くし、頭の回転も良くなる。大切なのはそのスイッチだよ。兄貴のクラスにもいるでしょ。いつも遊んでるくせに成績がいい人」
「確かにいるな」
「そういう人って言うのは切り替えがちゃんと出来るから、頭が良いんだよ」
「・・・で? どうすれば僕のやる気スイッチがオンになるんだ?」
「今から入れてあげる」
そういって麻香は微笑んだ。
悪い予感しかしない。
人差し指を立てて、たっぷり間を取って言った。
「兄貴の本棚の奥に隠すようにしまってあったエロ本を全て机の上に置いて来ました」
「帰るぞ」
僕は殆ど反射神経で勢いよく立ち上がった。
何してくれてんだ、この女!?
隠すように、じゃなくて隠してんだよ、それ!
「残念ながらここで帰すわけにはいきません。安心して。お母さんは午後8時頃まで兄貴の部屋には入らないから」
「安心できるか! 早く帰って隠し直す」
逆に言えばその時間になったらアウトってことだろう。
出口に向かおうとした瞬間、麻香に腕を掴まれた。
「早く数学を仕上げないとお母さんは自分の息子の部屋でエロ本を見つけちゃうよ」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・(ニコッ)」
それは悪魔の微笑みにしか見えなかった。
ベッドの下じゃないんだ・・・、と茅ヶ崎が呟いたのが聞こえる。
俺の部屋にはベッドは無いんだよ。
*
「国語82点、社会81点、数学79点、理科85点、英語83点。・・・・・・うん。こんなもんかな」
「はあ、やっと終わった」
僕はカチコチの身体を伸ばし、リラックスした。
「一日やってこの程度って言うのは多少心残りだけど、まあ、合格点でしょ」
「この程度って、麻香、あんたの兄貴は結構頑張ったと思うけど」
茅ヶ崎が麻香の発言を咎めた。
「何言ってんの。たかが平均点が40点上がったところで」
「だからそれ、すごい事だから」
「私がいながらこの程度って言うのは少しガッカリした結果よ」
あの後、追い詰められた僕は麻香が用意した参考問題集をひたすらやらされた。前半は終わることなく永遠と続けられた麻香と茅ヶ崎の無駄話の中、集中するのは難しかったが、人間何事も慣れである。最終確認模擬試験を実施する頃には周りの音は何も聞こえなかった。
それにしてもあんな中身が無い話、よくも一日中話してられるよな・・・。
やっぱり友達ができて嬉しいのかな。
茅ヶ崎も頭が良いらしいし、話が合うのかもしれない。
それから。
僕らは茅ヶ崎と別れ、帰路に発った。
図書館を出たのが7時少し過ぎだから、このまま帰ればエロ本を見られずに済む。
学力も上がったし、母親の信用も落とさない。
僕にとっては損害無しの良い事ずくめである。
方法はどうあれ麻香にお礼を言わなくてはいけないようだ。
「麻香」
「何?」
「ありがとな」
「お礼なんていらないよ。そんな事言われたらもうとっくにお母さんにエロ本が見つかっている事、言い辛いでしょ」
「やっぱりそういうオチかよ!」
そうだよな!
上手くいき過ぎだと思ったわ!
「安心して。無難なのを一番上においておいたから」
「・・・何を置いたんだ?」
「『妹の弄り方』」
「どこが無難だ!? 困難極まりねえじゃねえか! しかもそんな本知らないぞ!」
僕のコレクションにそんな本はない。
つか、妹がいるのに妹本買ってくるって危なすぎる兄だぞ、それ。
「私が親切心にも買い足しておいた」
「悪戯心の間違いだろ!?」
そうともいう、麻香は頷いた。
「そうとしかいわねえよ」
五歳の園児みたいな言い方しやがって。
つか相変わらず悪戯のレベルが高い。
最高難易度とは言わないが普通に嫌がらせだ。
「・・・・・・冷静だね」
口では驚いたものの、走って家に帰ることをしない僕に疑問を持ったのかそんな事を言った。
「もう手遅れだしな。諦めるよ」
暫くは母親と顔を合わせられそうにないけど。
だけど。
「マジで感謝してるし、そんなんだろうと予想はしてたし」
「どういたしまし・・・ああ! やっぱり気持ち悪い!」
「なんだよ。最後まで言い切れよ」
「だってさ、本当に気色悪いんだもん。兄貴が私に真面目にお礼を言うなんて。鳥肌さえ立ってきた・・・。もういっそラーメンのスープで溺死すればいいと思うよ」
「器用な死に方だな」
そんな死に方したら末代までの恥だ。
「醤油か塩か豚骨か味噌か」
「スープの種類を吟味すんじゃねえよ」
「・・・お湯で良い?」
「それはスープなのか? 麺の茹で汁なのか?」
「私が食塩で良い感じに味付けするから」
「それを俗に塩ラーメンといわないか?」
流石にお湯という発想はなかった。
「ナルトは要る?」
「この下りまだ続けるのか?」
そういえば最近ナルトが入ったラーメンを見なくなった気がする。
そもそもどんな味だっけ。
「原料は魚肉のすり身だから、かまぼこと同じ。因みに最近は需要が減って製造量が激減してるって話だよ」
「ふーん。だから見かけないのか」
イメージも古臭いってことかな。
「む。ナルトっていう発想は古いってこと?」
「いや、そういうことじゃ・・・」
「それじゃあ知ってるかな? ナルトって言う漫画があること」
「そりゃまあ」
一応あの漫画雑誌愛読してるし。
「真のラーメンに合うナルトを作るために戦う忍者の話」
「あれ? 僕の知ってるナルトと違う」
共通点は忍者だけだ。
寧ろ共通点があることが不思議である。
「えっ? それ以外にナルトってあるの?」
「それ以外のナルトしかねえよ」
どこの出版社で出してるんだ。
訴えられるぞ。
「それにしても冬は日が落ちるのが早いねえ」
自宅近くまで来た僕らは暗い道を歩いていた。
空には星が瞬いているが、道路を歩くには街頭の明かりだけが頼りである。
麻香の真っ黒の衣服は闇に融け、ちょっと路地に入ると見失ってしまいそうだ。
この辺りは住宅街なので通る車も稀である。
「家まであと少しだな」
「早く帰ってお風呂に入りたいわ」
「今日は僕が背中を流そうか?」
「エロ本見つかってる状態でそんなことしたら社会的地位を完全に失うと思うけど」
「そ、そうだったな・・・」
忘れていた・・・。
うっかり冗談も言えないな・・・。
「ああ。でも今日は疲れたなあ」
「一日中話してたもんな」
本当に終始口を閉ざす事はなかった。
内容は薄っぺらいし、よく飽きなかったよな。
「計算しながらだったしね」
「計算? 僕の勉強の事か?」
お前にとってそんなの負荷にならないだろうに。
「まあね。・・・・・・そういえば」
僕は立ち止まった麻香を「どうした?」と振り返った。
「栄、どう思う?」
「? どういうことだ?」
「茅ヶ崎栄のこと、どう思うって言ってるの」
「可愛いし、勉強も出来て、加えてあのサッパリとした性格だろ。好感は持てるほうだな」
これでいいのか?
と、僕は付け足す。
麻香は「ふむ」とだけ言って少し考えた。
「茅ヶ崎栄、撫子大学付属中学校の二学年に所属。身長こそ低いものの、整った顔立ち、人当たりの良い性格、スポーツ万能、学業優秀・・・いや、これは卓越とでも言おうかな。ほぼ完璧な人間よ」
「まるでお前だな」
お前の場合ほぼじゃなくて完璧か。
「そうなの。まるで私なの」
「?」
自分で言うか?
何ていうか少し自意識過剰気味なところが・・・。
「私の頭がいいのは脳の使い方が他人とは違うからって昔言ったでしょ?」
「そう言えばそんな事言ってたな」
意味は半分以上理解できなかったが。
「茅ヶ崎栄はそうじゃない」
「えっ?」
と、いうことは。
「そう。あの子の頭は兄貴と同種。普通の脳細胞だよ」
「いや、ちょっと待て。それなのにお前に近い存在ってどういうことだよ?」
「そう。あれは少しの才能と努力―――これじゃ良く聞こえちゃうかな―――理想と非現実によって塗り固められた、いわば作り物の天才」
そして、麻香は続ける。
「並みの努力ではああはなれないよ」
「作り物の天才・・・?」
麻香の言葉を反芻して意味を噛み締める。
「しかし・・・茅ヶ崎に本物の才能があったんじゃないか?」
「そんなものあれにはない」
麻香は言い放った。
彼女は人より少し頭の回転が速いだけ、と。
「考えてみてよ、兄貴。私みたいな小説や漫画の中にしか出てこないような完璧超人がこの世界に何人いるの?」
「だが、茅ヶ崎は完璧じゃないってお前が今・・・」
「だからほぼ完璧なの!」
だけど。
「ほぼって言う意味分かる!? 後一歩で完璧なんだよ!」
「・・・・・・」
「私でさえ完璧じゃないんだよ」
「えっ?」
お前は完璧じゃないか。
誰がどう見ようと。
「それは確かに恐竜を復活させるだとか、全人類を滅亡させるとかは不可能じゃないよ。しないだけ。だけどさ、いくら私でもできない事はあるんだよ」
「た、例えば・・・?」
「何の装備もなしに成層圏にはいけないし、海溝の底を歩けない」
「それは当たり前だろう」
逆を言えば装備があれば出来ると言うことだろうが。
「そうだよ。当たり前なんだよ。論ずるまでもなく自明なんだよ。・・・・・・ほら、私は完璧じゃない」
「人間では出来ない事が出来なくても、それってどうなんだ?」
「それじゃあ人間の完璧って何?」
「いや、それは・・・」
「どこから完璧なの? 境界線はどこ?」
言われてみればそんなこと考えた事もないし、寡聞にして聞いたこともない。
「私も神じゃない。同格じゃないんだよ」
「だから・・・」
ほぼって言うことか・・・。
「そういうこと」
「それで? 茅ヶ崎とお前がほぼ完璧だと言うことは分かった」
しかし何が言いたいかが分からない。
自分の友人をあれとかああなどと言ってる所、まだ友達ができた事が慣れないだけかと思っていたが、読み違えたか。
お前は茅ヶ崎栄のことをいったい何者だと認識してるんだ?
「異常な脳の使い方をしている私と普通の脳を持つ栄、同じランクにいるとしたらどっちが優れているのかな?」
「お前とは比べられないだろう」
頭が良いと言っても大学レベル。
スーパーコンピュータと比べるのはハンディキャップが必要なはずだ。
そもそも比べるベクトルと規模が違う。
「中学二年生の段階では私も栄も常軌を逸してる。しかも栄は進化を止めようとはしない」
あの場ではそういったけど本来ならば大学とか言うレベルじゃないよ、と麻香は言う。
「いくら東大出の親を持っても、大した才能もない僅か齢十四の小娘がそこにいるのは、私が言うのもなんだけど―――」
麻香は一息ついて、言い切った。
「異常だよ」
それも―――
「ある意味、私と同じように」
「・・・・・・」
僅かな沈黙の間を置いて、麻香は僕に質問を投げかけた。
「人間が脳細胞を使い切ると、どうなるんだっけ?」
「えっ?」
昔、麻香の話にあった気がする。
確か・・・・・・。
―――有効活用といっても実は60%がその限界である。80%の使用で精神的・身体的な障害が生じ、もし100%完全に使い切れば―――
な!?
「そう。このままいけば早々に死ぬよ」
麻香は街頭の下で静かに、はっきりとそういった。




