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町月記           :約4000文字

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/09/02

 夜、コンビニからの帰り。住宅街の道を歩いているときだった。人影はなく、辺りの家の窓はほとんど明かりが点いておらず、すっかり寝静まっているようだった。

 ふと横道へ目をやった、その瞬間だった。電柱の陰で何かが動いたような気がして、おれは思わず足を止めた。

 家を出る前、母親が「最近、この辺で不審者が出るらしいよ。気をつけてね」なんて、いつものお節介を焼いていたのをふと思い出し、何気なく視線を向けただけだったのだが、まさか……。

 おれは背中を丸め、じっと目を凝らした。すると、電柱の向こうにコートの裾らしきものが見えた。夜風に煽られているのか、あるいはそこに潜んでいる者が身じろぎしたのか、布の端がひらりと揺れた。

 次いで、電柱に括りつけられた古びた看板が目に入った。『不審者に注意』――錆びの浮いた白地にそう書かれている。まさに、といったところだ。

 おれは警戒しながら、じりっと一歩だけ電柱に近づいた。

 その瞬間、自分がいつの間にか拳を固く握りしめていたことに気づき、おれは小さく笑った。

 何を考えているんだ。まだ不審者だと決まったわけではないし、仮にそうだったとしてもおれに捕まえる義務はない。相手が刃物でも持っていたらどうする。下手な正義感を出して危ない橋を渡るより、このまま通り過ぎたほうがいいに決まっている。

 そう考え直し、おれは肩の力を抜いて前を向き直した。


「――?」


「えっ」


 ふいに名前を呼ばれ、おれは反射的に振り返った。


「あ、やっぱりそうだ。ははっ、久しぶりだな」


「……田辺か? え、お前、田辺なのか?」


 おれは驚きのあまり目を見開いた。電柱の陰から聞こえてきた声は、間違いなく高校時代の同級生のものだった。記憶の中にある声と比べると多少掠れてはいたものの、あの頃よくつるんでいた仲だ。聞き間違えるはずがなかった。


「あ、来ないでくれ!」


「え? はは、どうしたんだよ」


 電柱に近づこうとした瞬間、田辺は鋭い声を上げた。

 おれはぴたりと足を止め、電柱の陰を覗き込むようにその場で背伸びした。だが塀にぴたりと体を押しつけているらしく、肝心の顔はどうしても見えなかった。


「頼むから来ないでくれ……頼む、頼む……」


「え、まあいいけど……。で、そんなところで何してるんだ?」


「それは、その……言いたくないんだ」


「言いたくない?」


「ああ。このまま話そう。頼む……」


「このままって、そんなの変――」


 言いかけたところで、視線が再び看板に吸い寄せられた。『不審者に注意』――まさか、こいつが? あのコート……こいつ、露出狂にでもなったのか。


「おれは……ネズミになってしまったんだ」


 訝しく思っていると、田辺は震えた声でそう言った。


「ネ、ネズミ……?」


 意味が分からず、おれは反射的に聞き返した。


「ああ、薄汚いネズミさ……」


 田辺は自嘲気味に笑った。


「こんな姿、見せたくないんだ……。だからこのままで頼む……頼むよ……」


「ま、まあ、いいけど……」


 おれは戸惑いながらそう答えた。状況は何一つ呑み込めていなかったが、その声にはそれ以上踏み込むことをためらわせる切実さがあった。


「ありがとう……」


 電柱の向こうからかすかに鼻をすする音が聞こえた。それから田辺は一度小さく咳払いをすると、「最近、どうしてた?」と訊ねてきた。声の調子は軽かったが、無理をして取り繕っているのが伝わってきた。


「まあ、普通に会社で働いているよ」


「そうか……そうだよなあ。家から通っているのか?」


「いや、実家はとっくに出たよ。四連休だから、ちょっと帰ってきただけ」


「ああ、そうか……世間は四連休か……」


「え?」


「いや、ははは……ちょっと曜日の感覚がさ……」


「お、おお……。あ、そういえば、本村先生がさ――」


 おれはなるべく田辺の現状に触れないよう意識して高校時代の話を振った。

 部活、文化祭、教師、他の同級生たちの近況――言葉を選びながら当たり障りのない話題を出していく。田辺は楽しそうに応じ、時折懐かしそうに「ああ……」と感嘆の息を漏らした。

 その反応におれはほっと胸を撫で下ろし、こちらも懐かしい気分に浸って会話を続けた。


「それでさ――」


「優しいな」


 田辺がぽつりと言った。


「え?」


「おれに気を遣ってくれているんだろ」


「え、いや、まあ……」


 おれはこめかみのあたりを掻きながら曖昧に答えた。


「気になるよな。おれがここで何をしているのか」


「それは、まあ……」


「お前になら見せてもいいかもしれないな」


「えっ」


「おれの大事なものをさ……」


 電柱から伸びていた影がわずかに揺れ動いた。その瞬間、おれの背筋を冷たいものが駆け上がった。


「いや、いい、いい。大丈夫だから」


「ちょっとだけ見るか?」


「いや、いいって」


「先っちょだけ」


「いい、いい、ほんと。なんかトラウマになりそうだし……」


 おれはぼそりと言った。


「すまん、ちょっとよく聞こえなかった――あっ」


 田辺が何かを落とした。カンッ、と硬質で軽い音が響き、それは電柱の陰からこちらへコロコロと転がってきた。


「拾ってくれるか……?」


「あ、ああ……」


 おれは電柱から視線を外さずにしゃがみ込み、それを拾い上げた。細長い缶のような手触りだった。おそらく催涙スプレーだろう。逃走のときのための。自ら進んで使うはずがない。だって、自分のモノを見せつけたいのだから。

 おれはゆっくりと電柱に近づき、缶を差し出した。田辺は姿を隠したまま手だけをぬっと伸ばしてそれを受け取ると、すぐに引っ込めた。

 一瞬しか見えなかったが、外灯の乏しい光に照らされたその手は妙に黒ずんでいた。


「毛深いよな」


「えっ」


「おれの手。最近、特になあ」


「あ、ああ……そうかな……ちょっとよくわからなかったけど」


「歳のせいかな。体のあちこちがさ。特に下なんかすごくて――」


「ああ、うん。大丈夫、大丈夫だから」


 想像しかけて、おれは慌てて首を横に振り、頭の中から追い出した。


「失敗したなあ」


「えっ?」


「あっち方面に進みたかったんだよ」


「アッチ……」


「でも親に言えなくてさ。どうせ無理だろうって勝手にあきらめて、とりあえず関係のない専門学校に進んだんだ。就職に有利だからって自分に言い聞かせてな。普通に……普通に生きるんだって」


 田辺はそこで一度言葉を切り、黙り込んだ。喉の奥で唾を飲み込むような小さな音がした。


「でも……駄目だった。へへ、へへははは……」


「あ、いや……その……」


 子供のように無邪気な、けれども大人の野太い笑い声だった。その歪な響きに、おれは思わず顔をしかめた。


「みんなもう就職したんだろうなあ。昇進したやつもいるだろう。それなりの立場になってさ、順調に人生を歩いているんだろうな。あ、結婚なんかしたりしてさ! なのに、おれは……」


「ま、まあ、まだ大丈夫だろ……若いしさ……」


「おれはネズミだよ」


 静かな声だった。泥溜まりに投げ込んだ石がゆっくりと沈んでいくような、重くねっとりとした響きだった。


「ドブネズミだ……」


 おれは何も言えなかった。その悲壮感が滲んだ声に、なんと返せばいいのかわからなかったのだ。


「なあ……」


「ん……?」


「見てくれないか。おれのを……」


「えっ」


「お前になら見せてもいい」


「いや、でも、いや……」


「見せたいんだ」


「え……」


「こっちに来てくれよ」


「いや、今日はやめとくよ……」


 おれはようやく言葉を絞り出した。じりっと足元で靴底がアスファルトを擦る音がした。気づけば、無意識に一歩後ずさっていた。


「来てくれ。おれの生きた証を残したいんだよ」


「そ、そこで何をする気だよ……」


「お前の中に残したいんだ」


「嫌だよ!」


 おれは思わず声を張り上げ、さらにじりじりと後ずさった。


「気持ちいいんだ。やっているとさ」


「聞きたくねえよ」


「こんなふうにさ。ナニかに没頭していると落ち着くんだ……」


 その声にはどこか恍惚とした響きが混じっていた。田辺の手が電柱の陰からにゅっと現れた。手を丸めて筒のような形を作り、それをゆっくりと上下に振っている。その動きを目にした瞬間、喉の奥から吐き気が込み上げた。


「あ、一緒にやるか……?」


「やるわけないだろ。も、もう帰るからな」


「待てよ。わかったから……」


 田辺は沈んだ声でそう言った。


「じゃあ、おれがイったあとで、ここに来て見てくれ」


「んなもん見たくねえよ!」


「もうイクから。見てくれよな……頼んだぞ……ああ……」


「田辺……?」


 田辺はしばらく黙り込んだかと思うと、突然勢いよく駆け出した。コートの裾をはためかせながら塀に沿って走り、そのまま角を曲がって姿を消した。

 一瞬だけ見えたその後ろ姿は、丸めた背中のせいだろうか、どこかネズミめいていた。

 しばらくその場に立ち尽くしたあと、おれはおそるおそる田辺が隠れていた電柱に近づいた。心臓はまだ落ち着かず、肌は粟立ち、口の中が妙に粘ついていた。嫌な気配がする――それでも確かめずにはいられなかった。おれはぐっと息を呑み、ゆっくりと電柱の裏側を覗き込んだ。


「ネズミ……」


 そこにあったのは一匹のネズミの絵だった。片手に鞄を提げ、もう片方の手には傘を差して少し上を見上げている。心なしか寂しげで、雨の中に一人でじっと立ち尽くしているように見えた。

 おそらく型紙を切り抜き、その上から黒のスプレーを吹きつけたのだろう。輪郭は鮮明で、この暗がりの中でも電柱の表面にくっきりと浮かび上がり、不思議な存在感を放っていた。


 それからしばらくが経った頃だった。『町に路上芸術家が現れた』と母親から弾んだ声で電話がかかってきた。コンビニの外壁や商店街のシャッター、公園の倉庫の裏など、いつの間にか町のあちこちに絵が描かれているらしい。気味悪がっているのかと思いきや、評判は意外にも悪くなく、むしろ町おこしに利用しようという話まで出ているという。母親はどこか誇らしげにそう話した。

 電話を切ると、おれは視線を落とし、あの夜のことを思い返した。

 電柱に描かれたネズミの絵と、そしてその下のほうにひっそりと残されていたあの妙なシミのことを。


 田辺がやったのかどうかは、結局今も分からないままだ。

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