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三十代社畜の俺、中二に戻って人生無双を始める 〜なお宝くじの番号は覚えていない〜  作者: らいお


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29/51

閑話「白石澪は、名前のない気持ちをしまう」

 白石澪(しらいしみお)は、家に帰ってからもしばらく鞄を開けられなかった。


 宿題が入っている。

 図書館で使ったノートも入っている。

 小野さんの読書感想文のメモを写した紙も入っている。


 それだけなら、いつも通りだった。

 机に出して、順番に片づければいい。

 読書感想文の書き出しをもう少し整理して、数学のワークを少し進めて、夕飯までに英語の単語を見直す。


 そうすればいいだけなのに、鞄の持ち手を握ったまま、私は少しぼんやりしていた。


 図書館は涼しかった。

 外の暑さが嘘みたいで、紙をめくる音がよく聞こえて、声を出す時は自然に小さくなる。

 学校の教室とは違う場所。

 でも、一人ではなかった。


 小野さんがいて、田端くんがいて、杉浦くんがいて。

 ——佐伯くんがいた。


 その順番で思い出したはずなのに、最後の名前だけ、胸の中で少し長く残った。


 私は鞄を机に置き、ファスナーを開けた。

 中からノートを出す。

 表紙の端に、図書館の机でついたのか、少しだけ白い跡があった。

 指でこすってみると、すぐに消えた。


 今日の図書館で、私は小野さんのメモを見た。

 小野さんは、選んだ本のあらすじを丁寧に書こうとしていた。

 でも、あらすじを書きすぎると感想文ではなくなってしまう。

 そう言うと、小野さんは「そこが分からなくなるんだよね」と笑った。


 私は少しだけ、うれしかった。

 分からないことを、分からないと言ってくれたから。


 前の私は、分からないことを聞かれると怖かった。

 うまく答えられなかったらどうしよう。

 偉そうだと思われたらどうしよう。

 間違っていたら、あとで笑われるかもしれない。


 そんなことばかり考えていた。


 でも今日は、小野さんのメモを見て、ここに一行足すと書きやすいかも、と言えた。

 小野さんは「助かる」と言ってくれた。

 それだけで、胸の中が少し明るくなった。


 私は机にノートを置き、図書館で書いたメモを開いた。


 印象に残った場面。

 その時に思ったこと。

 どうしてそう思ったか。


 自分で書いた文字を見ながら、佐伯くんのノートを思い出す。


 佐伯くんの字は、やっぱり少し急いでいた。

 考えていることに、手が追いついていないみたいな字だった。

 線が少し斜めになって、単語と単語の間が詰まっていて、でも不思議と何を考えているのかは分かる。


 参考書。

 数学。

 英語。

 パソコンでやりたいこと。


 そこまでは、普通だった。

 少し真面目すぎるくらいで、でも佐伯くんならそういうことも考えそうだと思った。


 けれど、その先が少し違った。


 調べ物。

 タイピング。

 レポート作成。

 表計算。

 英語。

 自由研究。


 並んでいる言葉は普通なのに、佐伯くんの顔は普通ではなかった。

 難しい顔。

 田端くんが英語のワークを見ている時と似ている、と言ったら、佐伯くんは少し困ったように笑った。

 その笑い方を思い出して、私は少しだけ口元を緩めた。


 でも、すぐに笑えなくなる。


 佐伯くんは、たぶん何かを隠している。


 怖い隠し事、という感じではなかった。

 誰かを困らせるためのものでもないと思う。

 でも、参考書だけではない。

 学校の宿題だけでもない。

 もっと先のことを見ているような目だった。


 ずっと前から考えてたみたいだった。


 そう言った時、佐伯くんは少しだけ固まった。

 ほんの少し。

 他の人なら気づかなかったかもしれない。

 でも、私は見てしまった。


 見てしまった、という言い方は変かもしれない。

 見たかったのかもしれない。


 佐伯くんのことを、もっと知りたいと思っている。

 そう考えた瞬間、指先が止まった。


 私はノートの端を押さえる。

 紙の感触が、少し冷たい。


 知りたい。

 でも、聞いていいのか分からない。


 助けてもらったから、何でも聞いていいわけではない。

 一緒に勉強しているから、全部を話してもらえるわけでもない。

 佐伯くんには、佐伯くんの中にしまっているものがある。


 それを無理に開けようとしたら、たぶん違う。


 でも、何も知らないまま離れているのも、少し嫌だった。


 嫌だった。

 そう思ってから、私はまた少し驚いた。


 私は、自分の気持ちに名前をつけるのが苦手だ。

 怖い、なら分かる。

 安心する、も分かる。

 うれしい、も少しずつ分かるようになってきた。


 でも、今日のこれは少し違う。


 図書館の入口で佐伯くんを見つけた時、ほっとした。

 佐伯くんが先に来ていて、掲示板の前に立っていて、私に気づいて歩調を緩めた。

 それだけで、来てよかったと思った。


 学校ではない場所で会うのは、少し緊張した。

 私服を見られるのも、変ではないか気になった。

 鞄はこれでよかったかな、とか、髪は跳ねていないかな、とか、図書館へ行くだけなのに朝から何度も鏡を見た。


 そのことを思い出して、顔が熱くなる。


 何をしているのだろう。

 私はただ、図書館に行っただけだ。

 みんなで宿題をしただけだ。

 佐伯くんと二人きりだったわけでもない。


 それなのに、図書館の入口で「おはよう」と言った時の声が、まだ耳の奥に残っている。


 私は机に額をつけそうになって、慌ててやめた。

 宿題をしないといけない。

 そう思ってノートを開いたのに、全然進んでいない。


 深呼吸を一つする。


 鞄から、今日使った小さな紙を取り出した。

 佐伯くんのノートの端に書いた言葉を、私は自分のメモにも写していた。


 お父さんが心配しそうなこと。


 自分で書いた文字なのに、見ると少し落ち着かなくなる。


 佐伯くんは、あの言葉を見て少し驚いていた。

 その後、ちゃんと「ありがとう」と言ってくれた。

 役に立てたなら、よかった。

 本当にそう思う。


 でも、役に立てたことがうれしいのは、どうしてだろう。


 誰かの役に立つのは、うれしい。

 小野さんの感想文メモを手伝えたのも、うれしかった。

 田端くんが補習を回避できた時も、よかったと思った。


 でも、佐伯くんに「助かる」と言われた時は、少し違った。

 胸の奥が、変なふうに跳ねた。

 その後で、何も言えなくなった。


 助けてもらったから、返したい。

 それだけなら、分かりやすい。


 でも、たぶん、それだけではない。


 私はシャーペンを持った。

 メモの余白に、何かを書こうとして、何も書けなかった。


 好き。


 その言葉が頭の端をかすめて、私は慌ててシャーペンを置いた。


 違う。

 違う、と思う。

 そういうのではない。

 たぶん。

 まだ、分からない。


 佐伯くんは、優しい。

 でも、ただ優しいだけではない。

 時々すごく遠くを見ている。

 私たちと同じ教室にいるのに、同じ時間だけを見ていないみたいな顔をする。


 その顔を見ると、少し不安になる。

 どこかへ行ってしまいそうで。

 私だけが置いていかれる、というより、佐伯くん自身が何かに急いでいるようで。


 だから、手伝えるところがあったら言って、と言った。


 言ってから、少し後悔した。

 踏み込みすぎたかもしれない。

 佐伯くんが困ったらどうしよう。


 でも、佐伯くんは「ありがとう」と言った。

 その返事が、ちゃんと私の方に向いていた。


 それを思い出すと、また胸の奥が落ち着かなくなる。


 私はメモを半分に折った。

 一度、机の引き出しにしまおうとして、やめる。

 しまってしまうと、何か大事なものまで閉じ込めてしまう気がした。


 でも、机の上に置いたままにするのも恥ずかしい。


 少し迷ってから、私は国語のノートを開いた。

 最後のページと表紙の間に、そっとメモを挟む。


 お父さんが心配しそうなこと。


 それは佐伯くんのために書いた言葉だ。

 でも、今は私の中にも残っている。


 何が心配なのか、何を知りたいのか。

 それから、聞かずに待つというのはどういうことなのか。

 そんなことを少しずつ考えるための言葉みたいだった。


 階下から、母の声がした。


「澪、麦茶飲む?」


 私は少し慌てて顔を上げた。


「う、うん。飲む」


 返事をしてから、机の上を整える。

 ノートを閉じて、シャーペンを筆箱に戻す。


 鏡を見ると、頬が少し赤い気がした。

 暑いからだと思うことにした。

 今日は外が暑かったし、図書館から出た時の熱気もすごかった。

 だから、たぶん、そのせい。


 そう決めて、私は部屋を出ようとした。


 ドアノブに手をかけたところで、ふと振り返る。

 机の上には、閉じた国語のノートがある。

 その中に、折ったメモが挟まっている。


 名前のつかない気持ちも、一緒に挟んでしまったような気がした。


 でも、完全にしまえたわけではない。

 たぶん、また開く。

 明日か、明後日か、次に佐伯くんと話した時か。


 その時、自分が何を思うのかは分からない。


 分からないまま、私は部屋のドアを開けた。


甘い!

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― 新着の感想 ―
マスター!コーヒーをブラックで。 シロップならもうある
甘酸っぱいねぇ。お相手が特殊事例だから中学生の内にその花は咲かないかもしれないけれど、じっくり育ててほしいところ
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