閑話「白石澪は、名前のない気持ちをしまう」
白石澪は、家に帰ってからもしばらく鞄を開けられなかった。
宿題が入っている。
図書館で使ったノートも入っている。
小野さんの読書感想文のメモを写した紙も入っている。
それだけなら、いつも通りだった。
机に出して、順番に片づければいい。
読書感想文の書き出しをもう少し整理して、数学のワークを少し進めて、夕飯までに英語の単語を見直す。
そうすればいいだけなのに、鞄の持ち手を握ったまま、私は少しぼんやりしていた。
図書館は涼しかった。
外の暑さが嘘みたいで、紙をめくる音がよく聞こえて、声を出す時は自然に小さくなる。
学校の教室とは違う場所。
でも、一人ではなかった。
小野さんがいて、田端くんがいて、杉浦くんがいて。
——佐伯くんがいた。
その順番で思い出したはずなのに、最後の名前だけ、胸の中で少し長く残った。
私は鞄を机に置き、ファスナーを開けた。
中からノートを出す。
表紙の端に、図書館の机でついたのか、少しだけ白い跡があった。
指でこすってみると、すぐに消えた。
今日の図書館で、私は小野さんのメモを見た。
小野さんは、選んだ本のあらすじを丁寧に書こうとしていた。
でも、あらすじを書きすぎると感想文ではなくなってしまう。
そう言うと、小野さんは「そこが分からなくなるんだよね」と笑った。
私は少しだけ、うれしかった。
分からないことを、分からないと言ってくれたから。
前の私は、分からないことを聞かれると怖かった。
うまく答えられなかったらどうしよう。
偉そうだと思われたらどうしよう。
間違っていたら、あとで笑われるかもしれない。
そんなことばかり考えていた。
でも今日は、小野さんのメモを見て、ここに一行足すと書きやすいかも、と言えた。
小野さんは「助かる」と言ってくれた。
それだけで、胸の中が少し明るくなった。
私は机にノートを置き、図書館で書いたメモを開いた。
印象に残った場面。
その時に思ったこと。
どうしてそう思ったか。
自分で書いた文字を見ながら、佐伯くんのノートを思い出す。
佐伯くんの字は、やっぱり少し急いでいた。
考えていることに、手が追いついていないみたいな字だった。
線が少し斜めになって、単語と単語の間が詰まっていて、でも不思議と何を考えているのかは分かる。
参考書。
数学。
英語。
パソコンでやりたいこと。
そこまでは、普通だった。
少し真面目すぎるくらいで、でも佐伯くんならそういうことも考えそうだと思った。
けれど、その先が少し違った。
調べ物。
タイピング。
レポート作成。
表計算。
英語。
自由研究。
並んでいる言葉は普通なのに、佐伯くんの顔は普通ではなかった。
難しい顔。
田端くんが英語のワークを見ている時と似ている、と言ったら、佐伯くんは少し困ったように笑った。
その笑い方を思い出して、私は少しだけ口元を緩めた。
でも、すぐに笑えなくなる。
佐伯くんは、たぶん何かを隠している。
怖い隠し事、という感じではなかった。
誰かを困らせるためのものでもないと思う。
でも、参考書だけではない。
学校の宿題だけでもない。
もっと先のことを見ているような目だった。
ずっと前から考えてたみたいだった。
そう言った時、佐伯くんは少しだけ固まった。
ほんの少し。
他の人なら気づかなかったかもしれない。
でも、私は見てしまった。
見てしまった、という言い方は変かもしれない。
見たかったのかもしれない。
佐伯くんのことを、もっと知りたいと思っている。
そう考えた瞬間、指先が止まった。
私はノートの端を押さえる。
紙の感触が、少し冷たい。
知りたい。
でも、聞いていいのか分からない。
助けてもらったから、何でも聞いていいわけではない。
一緒に勉強しているから、全部を話してもらえるわけでもない。
佐伯くんには、佐伯くんの中にしまっているものがある。
それを無理に開けようとしたら、たぶん違う。
でも、何も知らないまま離れているのも、少し嫌だった。
嫌だった。
そう思ってから、私はまた少し驚いた。
私は、自分の気持ちに名前をつけるのが苦手だ。
怖い、なら分かる。
安心する、も分かる。
うれしい、も少しずつ分かるようになってきた。
でも、今日のこれは少し違う。
図書館の入口で佐伯くんを見つけた時、ほっとした。
佐伯くんが先に来ていて、掲示板の前に立っていて、私に気づいて歩調を緩めた。
それだけで、来てよかったと思った。
学校ではない場所で会うのは、少し緊張した。
私服を見られるのも、変ではないか気になった。
鞄はこれでよかったかな、とか、髪は跳ねていないかな、とか、図書館へ行くだけなのに朝から何度も鏡を見た。
そのことを思い出して、顔が熱くなる。
何をしているのだろう。
私はただ、図書館に行っただけだ。
みんなで宿題をしただけだ。
佐伯くんと二人きりだったわけでもない。
それなのに、図書館の入口で「おはよう」と言った時の声が、まだ耳の奥に残っている。
私は机に額をつけそうになって、慌ててやめた。
宿題をしないといけない。
そう思ってノートを開いたのに、全然進んでいない。
深呼吸を一つする。
鞄から、今日使った小さな紙を取り出した。
佐伯くんのノートの端に書いた言葉を、私は自分のメモにも写していた。
お父さんが心配しそうなこと。
自分で書いた文字なのに、見ると少し落ち着かなくなる。
佐伯くんは、あの言葉を見て少し驚いていた。
その後、ちゃんと「ありがとう」と言ってくれた。
役に立てたなら、よかった。
本当にそう思う。
でも、役に立てたことがうれしいのは、どうしてだろう。
誰かの役に立つのは、うれしい。
小野さんの感想文メモを手伝えたのも、うれしかった。
田端くんが補習を回避できた時も、よかったと思った。
でも、佐伯くんに「助かる」と言われた時は、少し違った。
胸の奥が、変なふうに跳ねた。
その後で、何も言えなくなった。
助けてもらったから、返したい。
それだけなら、分かりやすい。
でも、たぶん、それだけではない。
私はシャーペンを持った。
メモの余白に、何かを書こうとして、何も書けなかった。
好き。
その言葉が頭の端をかすめて、私は慌ててシャーペンを置いた。
違う。
違う、と思う。
そういうのではない。
たぶん。
まだ、分からない。
佐伯くんは、優しい。
でも、ただ優しいだけではない。
時々すごく遠くを見ている。
私たちと同じ教室にいるのに、同じ時間だけを見ていないみたいな顔をする。
その顔を見ると、少し不安になる。
どこかへ行ってしまいそうで。
私だけが置いていかれる、というより、佐伯くん自身が何かに急いでいるようで。
だから、手伝えるところがあったら言って、と言った。
言ってから、少し後悔した。
踏み込みすぎたかもしれない。
佐伯くんが困ったらどうしよう。
でも、佐伯くんは「ありがとう」と言った。
その返事が、ちゃんと私の方に向いていた。
それを思い出すと、また胸の奥が落ち着かなくなる。
私はメモを半分に折った。
一度、机の引き出しにしまおうとして、やめる。
しまってしまうと、何か大事なものまで閉じ込めてしまう気がした。
でも、机の上に置いたままにするのも恥ずかしい。
少し迷ってから、私は国語のノートを開いた。
最後のページと表紙の間に、そっとメモを挟む。
お父さんが心配しそうなこと。
それは佐伯くんのために書いた言葉だ。
でも、今は私の中にも残っている。
何が心配なのか、何を知りたいのか。
それから、聞かずに待つというのはどういうことなのか。
そんなことを少しずつ考えるための言葉みたいだった。
階下から、母の声がした。
「澪、麦茶飲む?」
私は少し慌てて顔を上げた。
「う、うん。飲む」
返事をしてから、机の上を整える。
ノートを閉じて、シャーペンを筆箱に戻す。
鏡を見ると、頬が少し赤い気がした。
暑いからだと思うことにした。
今日は外が暑かったし、図書館から出た時の熱気もすごかった。
だから、たぶん、そのせい。
そう決めて、私は部屋を出ようとした。
ドアノブに手をかけたところで、ふと振り返る。
机の上には、閉じた国語のノートがある。
その中に、折ったメモが挟まっている。
名前のつかない気持ちも、一緒に挟んでしまったような気がした。
でも、完全にしまえたわけではない。
たぶん、また開く。
明日か、明後日か、次に佐伯くんと話した時か。
その時、自分が何を思うのかは分からない。
分からないまま、私は部屋のドアを開けた。
甘い!




