第二十一話「保護者じゃない。友達でも、まだ足りない」
『佐伯くん、白石さんの保護者みたい』
榊原の声は、翌朝になっても耳の奥に残っていた。
嫌味だ。
そう切って捨てれば、それで終わる。
実際、あいつは俺が気にするように言ったのだろうし、気にした時点で少し負けた気もする。
ただ、言葉の中身が全部外れているかと言われると、そこが面倒だった。
俺は白石のことを心配している。
教室での立ち位置も、榊原の視線も、周りがどう受け取るかも気にしている。
何かあれば、たぶん真っ先に動く。
それは友達として当然だ、と言えなくもない。
でも、俺の中身は三十二歳だ。
十四歳のクラスメイト同士の距離感として、それが本当に自然なのか。
朝の教室で席に着いた時、そんなことを考えてしまっていた。
考えるなと言っても、頭が勝手にやる。
こういう時だけ、大人の脳みそは余計に働く。
「おはよう、佐伯くん」
白石がいつもの声で言った。
昨日、榊原に真正面から言い返した翌朝だ。
少しぎこちないかと思ったが、白石はちゃんと教室に来て、自分の席に鞄を置いていた。
「おはよう」
返事が少し遅れた。
白石が小さく首を傾げる。
「眠い?」
「いや、普通」
「そっか」
それだけの会話だった。
ただ、いつもなら俺はもう少し何か言っていた気がする。
昨日大丈夫だったか、とか。
小野に見せるノートはあるか、とか。
田端が提出物を忘れていないか見張ろう、とか。
今日は言葉が喉の手前で止まった。
保護者みたい。
その一言が、余計なところで足を引っかけてくる。
白石は不思議そうにしていたが、それ以上は聞かなかった。
自分の席に座り、ノートを開く。
その横顔を見て、また声をかけたくなる。
俺は机の中から教科書を出した。
乱暴に出したつもりはなかったが、角が机に当たって少し音が鳴った。
田端が前の席から振り返る。
「悠真、朝から機嫌悪い?」
「悪くない」
「そういう返事の時は、だいたい悪い」
「お前は朝から元気だな」
「俺は提出物を出した男だから」
「その肩書き、いつまで使うんだ」
「卒業まで」
長い。
白石が少し笑った。
俺もつられて笑いそうになって、途中でやめた。
やめる必要があったのかは、分からない。
◇ ◇ ◇
昼休み、小野が白石の席に来た。
「白石さん、昨日の理科のやつ、もう一回見てもらってもいい?」
「うん」
白石はすぐにノートを開いた。
その動きは、前より少しだけ自然だった。
俺は自分の弁当箱を開けながら、そこへ口を挟まないようにした。
小野が白石に頼んでいる。
白石が答える。
俺が間に入る必要はない。
それは分かっている。
分かっているのだが、白石が少し考え込むたびに、つい助け舟を出したくなる。
「ここ、全部同じ分類でいいのかな」
「えっと……これは」
白石の声が少し止まる。
俺は箸を持ったまま、答えを考えてしまった。
そこは用語じゃなくて読み違いだ。
問題文の「適切でないもの」を見落としている。
言うな。
俺は卵焼きを口に入れた。
味は分かったような、分からないような感じだった。
「これは、問題文かな。聞かれていることを逆に読んでるから」
「あ、本当だ。私これ多いな」
「私もよくやる」
白石が自分で説明した。
小野が納得して、プリントに書き込む。
それでいい。
俺が入らなくても、ちゃんと進む。
白石はふとこちらを見た。
俺と目が合う。
いつもなら小さくうなずくくらいはしたかもしれない。
今日は、俺は少しだけ視線を外した。
外してから、まずかったと思った。
白石の表情がほんの少し変わったからだ。
大きな変化ではない。たぶん、小野も田端も気づかない。
でも、俺には分かった。
しまった。
そう思ったが、そこで慌てて笑うのも不自然だった。
俺は弁当箱の端に残った米粒を、箸でつつくふりをした。
何をやっているんだ、俺は。
白石を守りすぎないようにする。
それは分かる。
でも、急に視線を外すのは違うだろう。
保護者みたい、と言われて、保護者ではないことを証明しようとしている。
それ自体がもう、だいぶ情けない。
「悠真」
田端が低い声で呼んだ。
「何だ」
「卵焼き、ずっとつついてる」
「考え事だ」
「卵焼きで?」
「……卵焼きで」
田端は納得していない顔をした。
当たり前だ。
俺も納得していない。
◇ ◇ ◇
放課後の勉強会で、俺はいつもより少し離れた席に座った。
白石の隣には小野。
向かいに田端。
俺は杉浦の答案を見るという理由で、机一つ分だけ横にずれた。
理由としては自然だと思った。
杉浦は数学の直しがまだ終わっていないし、白石は小野の理科を見る。
役割分担としては悪くない。
ただ、白石が一瞬こちらを見た。
その目を見た時点で、自然ではなかったのかもしれない。
「佐伯、これまた数字入れ替わった」
杉浦が答案を差し出してくる。
「またか」
「なんでだろうな」
「途中式を書く時に、ひとつ前の行を見てないからだろ」
「見てるつもりなんだけど」
「つもりは点にならないぞ」
「きつい」
杉浦は本気でへこんだ顔をした。
俺は説明を続ける。
横では、白石が小野に図の描き方を話している。
声は聞こえる。
でも、距離がある。
たった机一つ分。
それだけなのに、妙に遠く感じた。
「悠真」
田端が英単語カードを持ったまま、俺を見る。
「今日、なんか変じゃね?」
直球だった。
杉浦が「え、そうなの?」と俺を見る。
小野も顔を上げる。
白石は、ノートへ視線を落としたまま手を止めていた。
「別に普通だろ」
「いや、普通って言うやつほど普通じゃない」
「お前はいつからそんな観察眼を身につけた」
「悠真に鍛えられた」
嫌な返し方を覚えたな。
田端はカードを机に置いて、少しだけ声を落とした。
「なんか、白石さん避けてるみたいに見える」
空気が止まる。
田端。
お前は時々、本当に余計なところまで踏み込む。
ただ、今回は的外れではなかった。
白石が顔を上げた。
俺を見る。
胸の奥が、嫌な沈み方をした。
「避けてるわけじゃない」
俺は言った。
その言い方が、もう言い訳っぽかった。
「杉浦の数学を見るから、こっちに座っただけだ」
「ふうん」
田端は納得していない。
杉浦は自分の答案を見て、「俺のせい?」と小声で言った。
「違う」
「違うならよかった」
杉浦は少し安心したようだった。
今はそこを気にするのか。
いや、杉浦は悪くない。
白石は小さく「そっか」と言った。
それだけだった。
その「そっか」が、妙に薄く聞こえた。
俺は何か言うべきだった。
でも、何を言えばいいのか分からない。
距離を間違えたくないから少し離れた。
そう言ったところで、白石に何を背負わせることになるのか。
勉強会は、そのまま続いた。
白石は小野にちゃんと説明した。
田端は途中からいつもの調子に戻った。
杉浦は数字を一回だけ入れ替えずに済んだ。
表面上は、何も問題なかった。
それが余計に、俺の失敗を目立たせていた。
◇ ◇ ◇
勉強会が終わった後、杉浦は部活へ走っていき、小野も先に教室を出た。
田端は机を戻しながら、俺の横に来る。
「なあ」
「何だ」
「俺、さっき余計なこと言った?」
「言ったな」
「そっか……ごめん」
あまりに素直に謝られて、俺は少し返事に詰まった。
「いや、完全に間違ってたわけでもない」
「じゃあ、やっぱ変だったんじゃん」
「そこを嬉しそうにするな」
「嬉しくはないけど」
田端は机を戻しながら、白石のほうをちらっと見た。
白石は鞄にノートをしまっている。
いつもより少し動きが遅い。
「白石さん、不安そうだったぞ」
田端が言った。
俺は机の端を持ったまま、動きを止めた。
「分かってる」
「ならいいけど」
「よくはない」
「だよな」
田端は変に茶化さなかった。
それが少しありがたくて、少し困った。
「悠真ってさ」
「何だ」
「たまに考えすぎて、逆に変なことするよな」
「自覚はある」
「あるんだ」
「ある」
ある。
ありすぎるくらいある。
大人だから冷静に動ける、なんて都合のいい話ではない。
三十二歳分の記憶は、時々ただの荷物になる。
中学生同士なら、もっと雑に近づいたり、喧嘩したり、謝ったりできるのかもしれない。
俺はその一つ一つに、余計な注釈をつけてしまう。
田端は最後の机を戻し終えると、鞄を肩にかけた。
「じゃ、俺ちょっと職員室行ってくる」
「何で」
「提出物、追加で出せって言われてたの忘れてた」
「お前、昨日の成長はどこに行った」
「職員室に取りに行く」
田端は逃げるように教室を出ていった。
いや、実際に提出物を取りに行くのなら逃げてはいない。
進歩なのか後退なのか、判断に困る。
教室には、俺と白石が残った。
窓の外から、運動部の掛け声が聞こえる。
黒板の端には、誰かが書いたまま消し忘れた英単語が残っていた。
夕方の教室は、昼間より広く感じる。
机一つ分の距離も、さっきより広く見えた。
白石が鞄を持つ。
俺も鞄を持った。
そのまま一緒に教室を出る流れになった。
◇ ◇ ◇
廊下に出ても、白石はすぐには話さなかった。
階段へ向かう途中、部活帰りの生徒が何人かすれ違う。
誰かの笑い声がして、遠くで先生が注意する声がした。
いつもの学校だ。
けれど、隣の白石はいつもより静かだった。
昇降口の手前で、白石が足を止めた。
「佐伯くん」
俺も止まる。
「私、迷惑だった?」
声は大きくなかった。
責める声でもなかった。
だからこそ、胸の真ん中に来た。
「違う」
反射で答えた。
それだけは、考える必要もなかった。
「白石が迷惑とか、そういう話じゃない」
「じゃあ、私、何かした?」
「してない」
白石は、少し困ったように眉を下げた。
「じゃあ、なんで少し遠かったの?」
言葉が出なかった。
少し遠かった。
白石はそう感じていた。
俺が机一つ分の距離でごまかしたつもりだったものは、ちゃんと届いてしまっていた。
俺は昇降口の窓を見る。
外はまだ明るい。
靴箱のあたりに、砂の匂いが少し混ざっている。
どうでもいいことばかり目に入る時は、だいたい言いにくいことから逃げている。
「距離を、間違えたくなかった」
ようやく言えたのは、それだけだった。
白石は黙っている。
「昨日、榊原に言われただろ。保護者みたいって」
「やっぱり、また言われてたんだ」
「ああ。……あれが全部正しいとは思ってない。でも、俺が白石の前に立ちすぎると、またそういうふうに見られるかもしれない」
言いながら、自分でも苦しい言い訳だと思った。
「白石が自分で言えるようになってるのに、俺が全部先に言ったら、邪魔になる。だから、少し離れたほうがいいのかと思った」
白石は、俺の言葉をゆっくり聞いていた。
完全に分かっている顔ではない。
そりゃそうだ。
自分でも整理しきれていないものを、人に分かれというほうが無理だ。
「でも、急に離れたら、不安にさせるだけだった」
そこは、はっきり言えた。
「ごめん」
白石は少し驚いた顔をした。
「佐伯くんが謝るの?」
「謝るだろ。俺が勝手に考えて、勝手に変な距離を取った」
「でも、私のこと考えてくれたんだよね」
「考えた結果、失敗した」
白石は少しだけ口元を緩めた。
笑っていいのか迷っているような顔だった。
「佐伯くんでも、失敗するんだ」
「かなりする」
「そうは見えない」
「見栄を張ってるだけだ」
白石はそこで、小さく息を吐いた。
安心したようにも、まだ迷っているようにも見える。
「私、守ってもらってるだけなのは嫌」
白石が言った。
「うん」
「でも、助けてもらったことが嫌なわけじゃない」
「うん」
白石は言葉を探すように、視線を少し落とした。
靴箱の横に置かれた傘立てを見ているのか、何も見ていないのか分からない。
「佐伯くんが前にいてくれたから、学校に来られた日もあると思う」
その言葉は、重かった。
嬉しいだけでは受け取れない。
俺が変えたものの重さが、急に足元へ置かれたような感じがした。
「でも、ずっと後ろにいるのは嫌」
白石は顔を上げた。
「私も、佐伯くんに助けられるだけじゃなくて、隣にいたい」
廊下の音が少し遠くなった。
告白ではない。
たぶん、そういう言葉として受け取ってはいけない。
少なくとも今は。
それでも、軽い言葉ではなかった。
白石が、自分で選んだ距離の言葉だ。
隣。
守る側と守られる側ではなく。
先生と生徒でもなく。
保護者でもない。
友達、と言えば簡単だった。
でも、白石の言葉はたぶん、それだけより少しだけ熱を持っていた。
俺はその熱に、すぐ名前をつけるのが怖かった。
「……分かった」
結局、それしか言えなかった。
白石は不満そうにはしなかった。
ただ、少しだけ目を細める。
「本当に?」
「本当に」
「また、勝手に遠くならない?」
痛いところを突かれた。
「努力する」
「約束じゃないんだ」
「約束って言うと、たぶん格好つけるから」
白石は少しだけ笑った。
さっきより、ちゃんと笑っていた。
「じゃあ、努力でいい」
その言い方が妙に優しくて、俺はまた返事に困った。
白石は靴箱へ向かって歩き出す。
俺もその横に並んだ。
半歩前でも、半歩後ろでもなく、だいたい同じくらいの位置。
それだけのことを意識して歩く自分が、少し情けない。
でも、今はそれくらいでいいのかもしれない。
白石は靴を履き替えながら、ぽつりと言った。
「明日も、勉強会するよね?」
「する。少なくとも、田端が提出物を出し切るまでは」
「それ……長くなりそうだね」
「否定できない」
白石が笑った。
昇降口の外に出ると、夕方の風が少しだけ涼しかった。
グラウンドのほうから、杉浦らしき声が聞こえる。
田端はまだ職員室から戻っていない。
白石は校門のほうへ歩きながら、俺の隣にいた。
俺はその距離を、変に測りすぎないように歩いた。
たぶん、まだ何度も間違える。
大人だから正しくできるわけではない。
むしろ大人の記憶があるぶん、変に臆病になる。
それでも、白石が隣にいたいと言った。
俺は分かったと答えた。
今日のところは、その返事を忘れないようにするしかなかった。
甘酸っぺぇ!
コーヒー飲みながら書き始めて、書き終わることにはコーヒー無くなってました




