第二話 (五)
(五)
必要な挨拶を終えると、アイリスはそっと家族の輪から離れ、壁際へと身を寄せた。
煌びやかなシャンデリアの光が、艶やかなドレスを照らしている。
会場は華やぎと期待に満ちていた。
今宵は第一王子の王太子就任と、その婚約者のお披露目もある。
それに、未婚の令息令嬢が一堂に会するこの場は、事実上、王家主催のお見合い会場でもある。
令嬢たちの視線は鋭く、だけど笑顔は完璧だ。
ドレスの裾を翻しながら歩く姿は、まるで戦場に赴く騎士のように勇ましい。
視線を巡らせれば、早くもリリアーヌが数人の令息に囲まれている。
先ほどの騒ぎなどなかったかのように、鈴のような笑い声を弾ませていた。
アイリスは背が高い。
ヒールを履けば、多くの令息と目線が変わらないどころか、見下ろしてしまうことさえある。
そのせいか、ダンスの誘いはない。
慣れているはずなのに、胸の奥がわずかに冷える。
やがて楽団の音が静まり、国王陛下の入場が告げられた。
続いて王太子とその婚約者が姿を現す。形式通りの挨拶が終わると、割れんばかりの拍手が湧き上がった。
厳かな旋律が流れ出す、未来ある二人のためのファーストダンス。
中央に立つ二人は、まるで物語の一場面のように優雅だ。誰もが息を詰めて見守る。
主役のダンスが終わると、次々とカップルがフロアに広がった。
音楽、笑い声、グラスの触れ合う音。
会場の熱は次第に高まっていく。
ウェイターが運んできたオルジェーを手に取り、ひと口含む。
ほんのりと甘い香りが広がるが、胸の内の冷たさは変わらない。
(この中からキャスを見つけるのは難しいかもしれないわ)
政治や仕事の話に夢中の父親世代の男たち、令嬢たちは互いの装いを褒め合いながら牽制し、年配の婦人たちは品定めするように若者たちを眺めている。
同じ空間にいるはずなのに、どれもアイリスには遠い世界のように思える。
確かにここにいるのに、自分は存在していないかのような感覚になり、左手で右腕を掴む。
通りがかったウェイターの盆にグラスを戻し、会場を出る。
確か、隣に休憩室が設けられていたはず。
数少ない夜会の記憶を頼りに、広い廊下を進む。
広い回廊には、壁際に小卓と椅子が並び、ひそやかに語り合う男女の姿がある。廊下でありながら、そこもまた一つの社交空間のようだった。
反対側は、扉を開ければ屋外の庭園へと出られる造りになっている。
喧噪から遠ざかり、ようやく胸が楽になる。
女性用の休憩室の扉の前には護衛の騎士が立っていた。
中は、舞踏会の熱気から切り離された静かな空間だ。すでに数人の令嬢が席を占め、控えめな声で談笑している。
知り合いのいないアイリスは、目立たぬよう隅の椅子に腰を下ろした。
しばらくやり過ごすうちに数名が入れ替わり、十代半ばほどの令嬢たちが興奮した面持ちで中央の椅子へ集まる。
どうやら令息評定会が始まったらしい。
「あの方、笑うとえくぼが素敵で……」
「でも家格がね」
かしましい声が飛び交う。
眩しい。
けれど嫌いではない。
(ああいう時間を、羨ましいと思ったこともあったわね)
アイリスは懐かしむように令嬢たちのドレスを見つめていた。
「やっと見つけたわ、アイリス」
声に反応して顔を上げると、キャスがアイリスに向かって手を振っていた。胸の奥がほっと緩んだ。
「こんばんは、キャス。素敵なドレスね」
「ありがとう。あなたこそ、私の見立て通りね。とても似合ってるわ」
真正面からの賛辞に、思わず頬が熱くなる。
キャスは普段からストレートに褒めてくれるからいつものことなのに、このドレスの入手経路を知ってしまった今、それでも知らないふりをしてくれる気遣いに胸がぎゅっとなった。
キャスに腕を引かれ、二人は休憩室を後にした。
エリオットは仕事仲間と話があるらしく、席を外しているという。
回廊を抜け、庭園へと進む。夜気が頬を撫でる。
幾何学模様に刈り込まれ整えられた植栽、白い彫像、そして中央には静かに水を落とす大きな噴水が見える。
月光に照らされた庭園は、別世界のようだ。
二人はベンチに並んで腰を下ろした。
「そういえば、辺境伯閣下もいらしているそうよ」
「ええ、今夜は王家主催だものね」
「どんなお方なのかしら。エリオットも詳しくは知らないっていうのよ」
「新聞で功績を見るくらいのお方だもの」
「北部の毛織物、ラヴェンデルでも取り扱わせてもらえないかしら。あ、お店に置くならやっぱりガラス細工のほうがいいかしらね」
「キャスったら、閣下にお会いしたらいきなり商談を始める気?」
「だってこんな機会はめったにないんだもの。姿を見ることすら難関な方なのよ。直談判できるならエリオットを盾にしてでもやってみせるわ」
キャスは楽しそうに笑う。戦闘狂という噂を知らないはずがないのに、商魂は逞しい。その強さが、頼もしい。
アイリスもつられて笑顔になった。
「一度あちらの刺繍や工芸品を見てみたいわ」
「魔獣の森は危険だというし、なかなかアイゼンガルドまで行くのは難しいものね」
むむ、と真顔になるキャスに、アイリスは小さく咳払いをした。
ヴァレンシュタイン家で起きたことを話したいのに、喉の奥で言葉が絡まる。
クラリス嬢はビジネスパートナーでもある。家の恥ずかしい部分はすでに全部知られているし、隠す理由も、取り繕う必要もない。
それにリリアーヌが嫁ぐ相手かもしれないのだ。閣下の噂話に花を咲かせている場合ではなかった。
「実はね、キャス」
アイリスは素直に打ち明けることにした。
ギルバートが賭博で借金を作ったことも、昔の誓約書を盾にアイゼンガルド家に恥知らずな頼みをしただろうことも、それを止められなかった無念さも。
「あの無能、ついに理性まで手放したのね」
話を聞き終えたキャスは低く、冷えた声で言った。先ほどまでの軽やかさはない。
当然ながら、キャスのギルバートに対する評価はマイナスに振り切っている。
「借金の穴埋めに辺境伯家を巻き込むなんて、正気の沙汰じゃないわ」
アイリスは小さく笑う。
もう父を悪しざまに言われても庇う気持ちが湧いてこなかったのだ。
「でも、正直に言うわ。あなたの妹に辺境の女主人が務まるとは思えない」
「……キャス」
「見た目の愛らしさだけで務まる場所ではないでしょう?」
その通りだと分かっているから、なんとも答えが見つからない。
「ねえ、今日初めてお会いするのよね。もし閣下がアイリスを望まれたらどうする?」
突拍子もない質問に面食らう。
だけどどうだろう。もし私を望まれたら?
望まれるのだとしたら、それはおそらく、アイゼンガルド家にとって役に立つかどうか、といった点かもしれない。
辺境伯家が支払う額に見合う働きができる人間をと言うなら、精一杯働きたいという気持ちは少なからずある。
だけどそんなことはありえないと、すぐにその思考を打ち切る。
アイリスとリリアーヌが並び、アイリスが選ばれる。これまで一度も、そんな場面はなかったのだから。
「それはないわよ。結婚をするなら望まれるのはきっとリリだわ」
「私だったらアイリス一択だけど」
真面目な顔で宣言され、アイリスは目をむいた。
「ありがとう、キャス。でもリリは可愛らしい子だし、閣下は気に入ってくださると思うわ。多少、家政が苦手かもしれないけど」
「多少、ね」
含みを持たせた声音で、キャスがわざとらしくため息を吐く。
多少どころか、リリアーヌは家政についてはきっと一度も勉強をしたことがない。領地の運営などは言わずもがなだ。帳簿を読むことすらできないのはアイリスも分かっていた。
だが、ギルバートがリリアーヌを嫁がせるつもりであることは一目瞭然だし、カサンドラも乗り気だ。
「でもあなたが辺境へ行ってしまうのは、ああだめよ、お店にも私個人にも大損失だわ」
ありもしない仮定の話でくるくると変わる表情を見ながら、キャスの手を握る。
どんなときでもアイリスを肯定してくれるキャスの気持ちが嬉しい。
「いっそアイリスがお嫁に行くほうがあちらのためにもなるって私も分かってるわよ」
「え?」
呟いた声が聞き取れず、キャスの目を見る。翡翠のような瞳が揺らめいた。
「……閣下に見る目があることを祈るわ」
鼻息荒く拳を握ると、キャスは勢いよく立ち上がる。
「そろそろ戻りましょうか」
手を引かれ、アイリスは半ば引きずられるように歩き出す。
夜の庭園から灯り溢れる会場へ向かう回廊。 艶やかな赤毛を留める宝石が、燭台の光を受けてきらきらと瞬いた。
「せっかくのドレス、宣伝しなくちゃね」
振り返ったキャスの笑顔は、宝石と同じくらいに輝いていた。




