表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/9

第二話 (二)

(二)


 宿屋の部屋は、アルフレッドには少し狭い。ベッドも足がはみ出るほどだ。

 湯浴みをして髭を剃り、昨日傷口に巻かれたハンカチも手ずから洗う。まだ少し血の染みが残っているが、あまり力を入れると生地が傷んでしまうかもしれない。

 大きな手でちまちまと洗い物をしている姿は誰にも見られたくないが、彼女がくれたものを誰かに洗わせるのも嫌だった。

 角のほうに刺繍されているのは、ヒョウのようだ。

 令嬢が刺すのなら花や鳥の柄とばかり思っていたが、動物の意匠とは珍しい。

 繊細で美しく、しなやかさも見事に表現されている。まるで生きているような表情は今にも動き出しそうだ。


「すばらしい」


 窓辺のロープにハンカチを干しながら、うっとりと呟く。


 次々に集まる資料をテーブルに広げて目を通していく。

 ヴァレンシュタイン家の現状と家族構成や交友関係、使用人の行動記録、その日のメニューや財政状況に至るまで、セダムに調べられないことはない。


 黙々と資料を読んでいるアルフレッドのこめかみには青筋が何本も浮いている。今にも紙が散り散りになりそうだ。

 ユリウスは離れたところで──といっても狭い部屋では手が届く範囲と言えるが──その様子を静観している。


 ・・・


 ヴァレンシュタイン家の跡取りだったアイリスの母セリーヌはほかに兄弟姉妹もおらず、子爵家三男だったギルバートが婿入りする形で政略結婚をした。

 早くに当主が亡くなった場合は、その配偶者が代理を務める。代理とはいえ、実質的には当主の扱いだ。そして子どもが成人を迎えるとともに、当主が譲渡する形で継承できるようになる。

 男女の区別なく長子が爵位を継承するのが慣例とはいえ、成人後すぐに当主の座を受け継ぐ子は少ない。

 しばらくは当主である親から実践的に仕事を学びながら少しずつ覚えていくものだが、ギルバートは婿入り以前の子爵令息時代から、厳しい教育に耐えられずまともに授業を受けなかった。

 せっかく格上の伯爵家に婿入りしたのに、義両親を支えることも、婚家の役に立つこともない。

 当然のごとく娘に教えることもできなかったし、家督を継がない次男以下が通常歩むルートの軍人や聖職者としての資質も、まして商売や投資の才能もなかった。


 アイリスはギルバートではなく、厳しくも優しい祖父母から、伯爵家や領地にまつわるあらゆることを学んだ。

 祖父母が存命中はまだ何とか生活も成り立っていたが、長い闘病の末にセリーヌが亡くなり、その二年後に祖父母が相次いで流行り病に倒れてからは坂道を転がるように財政が悪化した。


 領地の経営は当主であるギルバートの仕事だが、「どうせおまえの仕事だ」と、十五歳から現在に至るまで、執務のほとんどをアイリスが担っている。

 それでも足りない部分は家令兼執事のチャールズと、侍女長のマーサがアイリスを支えた。

 アイリスの祖父が当主だったころからヴァレンシュタイン家に仕えている重鎮である。

 二人のおかげで何とか踏みとどまることができていたが、この数年は不作の影響も重なって、ヴァレンシュタイン家の財政はかなり厳しい状況だ。

 数人を残して使用人にも暇を出し、茶会なども開けない状態だというのに、一向に改善しない。それどころか悪化の一途を辿っている。


 ギルバートは貴族の義務は果たしたと言わんばかりに、第一子であるアイリスが生まれてからはほとんど家に寄り付かなくなった。

 セリーヌは体が弱く、長い間病床に伏していたが一度も見舞いに来たことはなかった。さらには結婚以前から関係のある女性と一緒に暮らし、子どもまで儲けていた。

 ギルバートは、祖父母の葬儀が終わったその足で長年の愛人であったカサンドラと娘のリリアーヌを伯爵家に連れてきた。ギルバートと同じ金髪の美しい子どもだった。

 アイリスが両親のどちらとも似ていない黒髪だったせいで、母の不貞が疑われた。ギルバートだけでなく、カサンドラまでが、不貞を棚に上げて故人であるセリーヌを非難した。


 後妻のカサンドラは平民上がりで貴族の教育を受けたことはなく、社交界には支援を頼めるような人脈もなかった。

 自分たちが伯爵家の財産を好きに使えるようになるためには、彼女にとってアイリスはいなくならなければいけない存在だ。

 彼女は、前妻の子どもを可愛いと思える人間性ではない。

 身分の違いから二番手に甘んじるしかなかった境遇を、カサンドラは到底容認できなかった。

 貴族の子どもを産んでも平民のまま。それらはすべてアイリスの母親のせいであると恨みを持っていた。苦汁をなめた分、そんな目に遭わせた相手を落ちるところまで落としたいとさえ考える醜悪な一面を持ち、それを隠すことさえしない質だった。

 結婚前からカサンドラに傾倒していたギルバートはカサンドラの言うがまま、というのは想像に難くない。

 ギルバートもカサンドラに倣うように、目に見えて娘二人を区別した。仕事が終わらなければ食事を抜いたり、躾と称して鞭を打つなども当然のように行われてきた。

 ギルバートの愛情は、カサンドラとリリアーヌにだけ注がれていた。



 ・・・


「父親は殺そう」

「真顔で何を言っているのです、閣下」

「荷馬車の事故にでも見せかければいい」

「馬がかわいそうです」


 アイリスと再会する前に起きた、荷馬車の事故も情報として入ってきている。

 アイリスの異母妹が花屋の店先で数人の令嬢と揉めたことが発端のようだ。


「とある令嬢の恋人がリリアーヌ嬢に懸想し、花束を贈っているところを偶然見られてしまった。怒った彼女がリリアーヌ嬢に詰め寄ったところ、驚いた拍子に花束を放り投げて、たまたま納品に来ていたその荷馬車の馬にぶつかった……そんなことがあるのか」

「調査に不備があるとでも?」

「いや、恋人以外に懸想する、というところだ」

「……ああ。リリアーヌ嬢は見目麗しい可憐な女性だそうですから」


 ユリウスの言葉に、まったくピンとこないアルフレッドは、次の資料へと目を移す。

 そこに書かれていたのは、ギルバートの今夜の行き先と結果だった。



 ・・・



 ギルバートは王都のとある場所に立っていた。


 限られた人しか入れないとある酒場の奥。知人のツテを頼ってやっと招待状を手に入れた。少し怪しげな空気を放つ鉄の扉を開く。

 薄暗い部屋の中、足を踏み入れると葉巻の煙と酒の匂い、何人もの香水が混じって鼻をつく。

 カードが配られる音、ウィールの上を転がるボールの乾いた音、回収されるチップに手を出そうとして止められる男の怒声や嘲笑の声。ここには熱狂する人の欲が充満している。


「金がないなら増やせばいい。数倍に増やせば穴埋めなんてすぐできる」


 ひとりごちたギルバートの目は貪欲に光っている。


 カサンドラとリリアーヌには苦労させてきた。その分、好きなものや欲しいものは何でも買ってやりたい。

 金がないなどとしみったれた言葉でがっかりさせたくない。

 アイリス、あいつがしつこく買い物を控えろなどと生意気を言うから可愛いリリアーヌが傷ついている。

 ここで勝てば、口うるさいあいつも文句を言ってこなくなるだろう。


「ようこそ、伯爵」


 揉み手で近寄ってきた細い目の男。仕立てのいいスーツを身にまとい、総髪をうなじの辺りで一つに結っている。


「ああ、今日は楽しみだ」


 初めての賭場に少し高揚しているが、逸る心を抑えてテーブルにつく。

 愛する妻と娘のために、やるしかない。

 ギルバートが生唾を飲み込んでベッティングエリアにチップを置く。それを合図のように、ディーラーがウィールを回した。

 立て続けに、面白いように予想が当たる。


(神は私の味方だ!)


 みるみる膨らむ手元の金にギルバートの興奮は最高潮に達する。

 気が大きくなり、賭ける金も増えていく。酒を片手に、我を忘れたように賭け事に興じる。

 だが、その酒瓶の中身が半分になるころには、雲行きが怪しくなってくる。次第に負けがこみ、元手が心もとなくなっていく。


「おや伯爵、今夜はその辺にしておかれたほうが」


 細目の男が嫌な笑みを浮かべて話しかけてくる。ギルバートは脂汗を浮かべながらも、今さら下りることはできないとそれを拒絶した。


「でもお手元にはもう」

「用意してくれ」

「……よろしいのですか」


 細い目がギラリと光る。だがギルバートはそれに気づかない。乱暴に「いいから用意しろ」と小声で怒鳴りつけた。テーブルに乗せた拳がぶるぶると震えている。


 ギルバートはついに、手を出してはいけない場所で最悪の手を選んでしまった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ