第一話 (二)
(二)
「朝からどこをほっつき歩いていたんだ。仕事はどうした」
料理長のジーンにバスケットを託したあと急いで着替えてダイニングルームへ入ると、遅い朝食を終えたらしい父ギルバートが紅茶を片手に忌々しげに吐き捨てる。
いつもより帰るのが遅くなり、鉢合わせてしまった。朝食にしたかったが、諦めるしかなさそうだ。
アイリスは気まずさをおくびにも出さず挨拶を返す。
「申し訳ありません、すぐに取り掛かります」
ヴァレンシュタイン家はリンドヴァルド領の領主でもある。
アイリスは十五歳から父に代わって領地の運営をやってきた。
アステリア王国は原則として爵位は長子継承だ。
その原則に基づくと、ヴァレンシュタイン家ではアイリスが正当な爵位継承者である。
だがこの国では、継承者であっても未成年の領地経営は違法とされている。
国王へ代理人の申請をし、許可を得ることができれば別だが、後継者本人の能力はもちろん、両親もしくは成人済みの親族がいる状態でその許可を得られることは皆無に等しい。
そもそもギルバートはその法律を知らないのだろうが、もう五年ほど、押し付けられるようにして父の代わりを務めている。
小さな領地に査察が入ることはほとんどないので、家のため、そして領民のためにとアイリスは必死に取り組んできた。
帳簿に走らせていたペン先のインクが掠れる。
慣れた動作で使い込んだインク壺へペン先を浸すが、紙には微かなインクがついただけで、流れるような字の跡だけがうっすらと残っている。
アイリスは動きを止め、インク壺の中身を覗く。瓶を傾けると端の方にわずかな液体が溜まるが、この残量では今日、これ以上は書けそうになかった。
「はぁ……」
目を閉じて上を向き、両腕を思いっきり伸ばす。執務でこわばった体が、ボキボキと音を鳴らす。
窓の外では夕焼けと宵の闇が入れ替わるように溶け込んでいる。空と稜線の境目に目をやりながら立ち上がり、窓辺へと向かう。
今日も赤字だらけの帳簿とにらみ合っていたが、収入以上の支出を止める術を、残念ながらアイリスは持ち合わせていなかった。
いや、せめて家族の誰かしらが同じように危機感を抱いてくれたらもしかして、と思えるのだが。
「アイリスお姉さま!」
激しい足音が響き、金切り声とともにドアが開く。
揺らめく金色の髪とエメラルドのような緑の瞳、そこを縁取る長い睫毛に少しツンと上向いた愛らしい鼻と艶やかな唇。まるで天使と見紛う容姿は、この子がそんな荒い声を出すはずがないと思わせる。
「……リリアーヌ」
ノックをしてほしいと言っても彼女がしてくれたことはない。ただ足音が響くので来訪は分かる。それだけマシかもしれない。
残念ながら継母のカサンドラはリリアーヌにマナー教育さえ施せていないようだ。
「今度、王城で夜会が開かれますよね。リリ、そこに着ていくドレスが欲しいんです」
「ドレス……」
「お父さまはもちろん買ってくださると約束してくれたわ。だからお姉さまはお父さまに余計なことを言わないでくださいね」
またか、と思う。
テーブルランプに使うガスも蝋燭も、できれば節約したい伯爵家の懐事情を、この可憐な異母妹は毛筋ほども理解していない。そしてその両親も。
「リリはこの前素敵なドレスを買ったところじゃなかった」
「王城の夜会なのに、また同じドレスを着ろっていうの? お姉さまは地味で背も高いし痩せすぎだから似合うドレスも少ないし、いつもので構わないかもしれないけど」
ドレスも靴も、アクセサリーも、衣装タンスがあふれんばかりになっているのに、まだ欲しいという。そのお金はすべて借金だという自覚はなく、たとえそうだと分かったとしても、自分には関係のないことと一笑に付されるだけだ。
彼女は自分が尽くされて当然、愛されて当然という価値観のもと生きている。
「新しいドレスなら、リリが素敵な人に巡り合えるかもしれないでしょ」
言葉尻は上がって疑問形だが、アイリスに答えを求めているわけではない。リリアーヌはいつものように言いたいことだけ言って出て行ってしまった。
つまりまた、この家の借金が増えるということだ。
激しく閉められた扉の音が響く。あの小柄な体のどこにそんな力があるというのか。
この調子ならきっと、「お姉さまがリリをいじめる」「ドレスなんてどれも同じって怒る」そんなことをあの父親に吹き込むのだろう。そして父はそれを何の疑いもなく信じるのだろう。
今日何度目かのため息が漏れた。
王城の夜会。
それは二週間後に開かれる、全貴族出席必須の王家主催の大イベントである。
第一王子が王太子となることが正式に決まり、それを記念して開かれる。
おめでたいことではあるが、正直なところ貧乏に拍車のかかる伯爵家には痛い出費だ。
王家主催となればよほどの理由がなければ欠席はできないし、さすがに継母のカサンドラも長子であるアイリスだけを不参加にさせることはできないだろう。
後妻と愛人の娘と陰で笑われていることを、カサンドラが知らないはずはない。
「長女は妹の美貌に嫉妬してリリアーヌをいじめている」
「使用人へ当たり散らしている」
「止めようとすると暴れて手が付けられない」
そうやって実際はリリアーヌがやっていることをアイリスの罪として評判を貶める噂や陰口を彼女たちが広めていることは、過去の夜会で知ったのだ。
きっとまたドレスが貧相だ、華がないと人前で嘲笑されるだけだ。
別に参加したいわけではないのに、疎まれながらも出席しなければならないのは、胃が痛い。
アイリスの衣装タンスは、母が若いころに着ていたドレスを修繕したりリメイクしたものが数着あるだけだ。
幼いころから手先が器用で、普段着るものは自分で仕立てている。男装用のズボンもその一つだ。
アイリスが平均よりも頭一つ分背が高く、既製品が合わないというのももちろん理由ではあるのだが、夜会用のドレスを仕立てるにはお金が足りない。見合う生地を買う余裕はない。
継母のカサンドラには、「その見た目では夜会に参加すると悪目立ちするから止めておきなさい」「その大きな体で可愛いリリアーヌを隠して邪魔をするつもり」と罵られ、過去には勝手に参加しないようにと使用人を使って部屋に閉じ込められることもあった。
アイリスが自分から参加したいと言ったことなど一度もないというのに、決まって先手を打たれてしまうのだ。
壁一面を埋める書棚から、黒い帳簿を取り出す。
表紙にラヴェンデル商会と書かれている。
アイリスが、友人であるキャス──クラリス・エバンス伯爵令嬢──と共同で経営している商会だ。
アイリスが商会に関わっていることは、家族には絶対の秘密となっている。
知っているのは、ヴァレンシュタイン家の執事チャールズ・バートンと侍女長のマーサ・コックス夫人、専属侍女のアンナだけだ。
チャールズは祖父の代からヴァレンシュタイン家に仕えてくれている老執事で、引退してもおかしくない年齢だが、「お嬢様が爵位を継ぐか、どこかに嫁入りするのを見届けるまでは」と留まってくれている。
これまでのヴァレンシュタイン家を見てきたのだから、ギルバートとカサンドラには任せられないと思っているのが、アイリスには理解できてしまう。それでも嫁入りの選択肢がチャールズにあることに、内心は驚きと嬉しさがない交ぜに渦巻く。
持参金を用意できない令嬢に嫁入りのあてがないのは彼も分かっているはずなのに。
決して商会の売り上げは悪くないが、浪費家三人の出費を賄うには厳しい。だがこれ以上、領民に課す税を上げるわけにはいかない。
アイリスに丸投げしているくせに、ギルバートは気まぐれに手を出しては不当な税を課してきた。
表立ってアイリスが領地の運営をしていることを知られてはいけないため、撤回することができなかった。
民の生活が立ち行かなくなれば、いつ反乱が起こってもおかしくはない。
アイリスは自分の恐ろしい想像に一瞬身を震わせ、頭を振ってそれを打ち消す。
そうならないよう、手を尽くすしかない。キャスの頼もしい笑顔を思い浮かべる。
エバンス伯爵家の商才は、王都でも一目置かれている。
貴族が商売など、と一部には目の敵にされているが、その勢いに乗りたい新興貴族は引きも切らない。
キャスはアイリスほど身長は高くないが、豊かな胸と燃えるような赤毛が印象的な、パワフルで快活な美女だ。深い緑色の瞳は翡翠のようで引き込まれる。
人脈も広く、王都の社交界に太いパイプを持つクリスティン・フォン・アデラート侯爵令嬢とも仲が良い。クリスティン嬢の母は王族にも顔が効くという噂もある。
実際に店頭に立つのはキャスの雇う女性で、キャスはアイリスの作るドレスや小物を身にまとい、茶会や夜会に出ている。商会の歩く広告塔ともいえる。
婚約者のエリオット・リンゼイ・ハミルトンとまもなく結婚する予定だが、結婚後も商会の仕事は絶対に続けると力強く約束してくれた。
エリオットは伯爵家の令息で、キャスとは幼馴染で仕事にもとても理解があるという。
絶対的な味方がいるという心強さは、母と祖父母という家族以外では、キャスが初めて与えてくれた。
また窓の外に目を向ける。
夕日は沈んで、すっかり濃紺色となった空に小さく星が瞬いている。
アイリスの部屋から見えるのは街に多数流れる川のひとつ、カルモ川だ。
橋の多さは他領の倍とも言われている。
街の中心地に近いところはアーチ橋が、少し離れたところには桁橋が多く採用されている。
精霊の祝福があるおかげか氾濫することはほとんどないが、橋や道路の老朽化は少しずつ進んでいる。
リンデンという名前の通り、街のシンボルとして菩提樹が多く植栽されていて、川沿いの並木道は名物にもなっている。
恋人たちが川沿いの土手に座って愛を語らう風景も、名所の一つとされている。
この地では花や葉、木材は余すことなく利用されている。
アイリスの部屋にある執務机もリンデンの木材を使用しているもので、祖父から受け継いだ。
アイリスとキャスの商会であるラヴェンデルも商店が多い一角、二番街にある。
店の名前はスピカ。
スピカでは、ドレスや小さな魔石を使ったアクセサリー、ヘッドドレス、服飾小物や髪飾りなどを主に扱い、リラックス効果のあるハーブティーなども専用の棚を使って置いてある。
仕立物はほぼアイリスの手によるものだ。
万が一伯爵家が取りつぶしになっても、アイリスは仕立ての腕で生きていける。
本当は家門の取りつぶしなど避けられるのが一番だが、このままではどうなるかは分からない。
持ち直したとしても、家族に疎んじられるアイリスが持参金を用意してもらえる可能性はないに等しい。
このまま家で使いつぶされるか、修道院へ入れられるか。そんな未来しか描けない。
だからこそ技術を磨き、自立できるようそこまでの技量を身につけてきた。
病気の母のそばでできるのが手芸だった。それが、アイリスを助けている。
帳簿を眺めていたものの、集中力は切れてしまった。
大げさに息を吐いて帳簿を閉じる。そこへ、侍女のアンナがお茶を持ってきてくれた。
「お嬢様、少し休憩されませんか」
「ありがとうアンナ。今日はもう店じまいよ」
肩をすくめて見せると、アンナはほっとしたように笑った。一日中部屋に閉じこもって仕事をしていたアイリスを心配してくれていたようだ。
カサンドラとリリアーヌは連日のように茶会や夜会に出かけ、特にカサンドラは平民という出自について周囲に侮られないようにと何とか社交界での居場所を作っているようだ。
最近ではギルバートも家を留守にすることが多い。
よからぬ場に出かけていないことを願うばかりだが、止めて言うことを聞いてくれる相手ではない。
あの三人を相手に一緒に戦ってくれる男が婿入りしてくれる可能性はゼロに等しい。
必要最低限の社交しかしていないアイリスに、そんな結婚をしてくれと頼める相手がいるわけもない。
そして、たとえそんな人物がいたとしても、アイリスはそう頼める性格ではなかった。
スープだけの簡単な夕食を終え、寝床へ入る。
隔世遺伝の黒髪が寝具へと流れ、さらさらと音が鳴る。
絹糸のようだった髪は栄養状態のせいで艶がなく、食事を抜くのが常態化してしまい、体は痩せている。近頃は気力も湧きにくくなっているが、領民のためだと食いしばっている。
アンナも世話のしがいがないだろうに、辛抱強く仕えてくれているのがありがたいのに申し訳ない気持ちが次から次へと湧いてくる。
「あの方、もしかしてお店に来たかしら」
森で助けてくれた冒険者風の大男。シャツを繕うと自分から言い出したのに、今日は執務に追われて店に顔を出すことができなかった。
来る気はなさそうに見えたが、自分が嘘を吐いたような気になって胸が苦しい。
後ろ向きな思考を振り切るように、薄い寝具を頭から被った。




