第四話 (四)
(四)
療養生活も三週間が過ぎ、アイリスの体は見違えるように回復してきた。
その理由は主に三つある。
一つは食事内容の大幅な改善があったこと。
伯爵家にいたころでは考えられないほど多種多様な料理や菓子が提供される。すべてを食べ切ることはできないが、それでも栄養面の変化は如実に表れた。
顔や体には少しずつ肉が付き始め、触り心地に変化が出てきた。
髪や肌に艶が出てきたことをアンナは自分のことのように喜んでくれている。
もう一つは睡眠時間の増加にある。
朝早く目覚める習慣は変わらないが、祈祷を終えたアイリスを、アルフレッドが再びベッドへ連れ戻すからだ。
アイリスはこの年になって初めて二度寝というものを経験した。
あまりの気持ちよさと背徳感に自堕落になりそうで、何とか自分を戒めている。
三つ目の理由は血流の改善というのがハインツ医師の見立てだ。
シュヴァルツ城には雪見露天風呂というものがある。
主寝室にある専用の回廊で繋がっている、崖にせり出す離れのような場所に作られた湯殿だ。
三方は壁で、正面だけが外に向かって開かれている。上部には庇もあるので雨の吹き込みや直射日光はある程度防げるようになっている。
眼下には広大な針葉樹林が広がり、巨大な石をくり抜いた浴槽に浸かればその風景を眺めながら体を温められる。
城内のほかの窓には飛行魔獣対策として鉄枠がはめられているが、ここは有事の際に結界魔法が発動するように設定されているらしい。
城内の仕事はまだ許可されていないものの、何とか頼み込んでアイゼンガルド家のしきたりや成り立ち、領地の産業や歴史などを勉強させてもらえることになった。
教師はサイモンかユリウスのどちらかで、彼らの手が空いているときにマーサとともに教わっている。
それ以外の時間は刺繍をしたり図書室で読書をしたりして過ごしている。
アルフレッドがちょくちょく部屋に訪ねてきては、一緒にお茶をしたりバルガスの新作のお菓子の試食を頼まれたりする。
執務で忙しいはずなのに、時間を割いてくれるのを純粋に嬉しく思う。
「アイリス」
アンナやマーサとともに図書室から部屋へ戻る廊下で、アルフレッドが追いかけてきた。
手には小さな包みを持っていて、今日もお菓子を渡しに来てくれたらしい。
「閣下、おはようございます」
「今日は昨日より顔色がいいな」
アイリスの頬に触れながら、アルフレッドも機嫌がよさそうだ。
「おかげさまで、ずいぶんと元気になりました」
自分はやわじゃないと思っていた。だけどそれは無理をして自分を奮い立たせていただけだったと、この三週間で気づかされた。
ゆっくり眠ることも、しっかりと食事を摂ることも、生きる上でとても大切なのだ。
枯渇寸前だった魔力も、徐々にではあるが戻ってきているようだった。
礼拝室でお祈りをしてもめまいを覚えなくなったのは、そのためだろう。
毎朝一緒に起きては見守ってくれているアルフレッドによれば、体を包む光の強さが変わってきたという。
「今日のは木の実のパイだ」
餌付けされるように、アルフレッドが直接口へパイを運んでくれる。立ったままで行儀が悪いが、一口サイズに作られているので難なく食べられる。
サクサクとした生地と甘く味付けされた木の実のカリッとした食感が口の中で合わさる。
「美味しいです」
自然と笑顔になっていた。素直に伝えると、アルフレッドも口角を上げた。
「このあとの予定は」
「ハインツ先生の診察を受ける予定です」
「では俺も行こう」
アルフレッドは左腕を差し出す。アイリスは右手をそっと添えて彼に続く。
エスコートされることにも少しずつ慣れてきた。
夜会へ出席したときすら、パートナーがいたことはなかった。
昼間の家──と言っても立派な城塞なのだが──で夫にエスコートされている。そう考えるとアイリスにとって大きな進歩と言える。
自分のために仕立てられたウールのデイドレス。
マイヤー夫人はアイリスの体に合うスタイルをいくつか提案して仕立ててくれた。今日のドレスは首元までしっかりと覆われて温かいのも気に入っている。
お腹の辺りに作った隠しポケットには保温魔法のかかった魔石を入れていて、防寒対策はばっちりだ。
窓の外の景色は、つい先日まで山頂付近に積もっていた雪が中腹まで広がってきている。城下の街もすっかり雪景色が日常となっている。
廊下を曲がった先のほうから、若いメイドたちの声が聞こえてきた。
「ねえ、掃除係の子に聞いたんだけど、奥様はほとんどドレスを持っていないらしいわ」
「そうなの? たしか、伯爵家のお嬢様じゃなかった?」
「それが、わざと持ってこなくて、新しいのを買ってもらおうとしたんじゃないかって噂よ」
「じゃあ最近大量に仕立てたドレスがそうってこと?」
石造りのためか、声が響いている。
アンナが「奥様……ッ」と小声で詰め寄ってくるのを手で制し、アイリスは足を止めて続きを聞いてみることにした。
アルフレッドが振り返って自分を見下ろしているのが分かったが、そちらに顔を向けることはできなかった。
「旦那様は今や帝国一のお金持ちって噂だものねえ。ドレスくらい、痛くもかゆくもないんだわ、きっと」
「その旦那様とはまだ初夜がお済みじゃないっていうのは本当なの?」
「そりゃあ、あれだけ細いと男はその気にならないんじゃないの」
声の様子から、三人ほどがそこにいるようだ。
最後の言葉に足元の地面が抜けるような不安を掻き立てられる。
「そんなの人によるじゃない」
「にしたって奥様は痩せすぎよ」
「そういうあんたはもうちょっと痩せたらどうなの」
「アタシは胸が大きいだけで太ってないの。それに、けっこう好評なのよ」
「はあ、そういえばあんた、昨夜も部屋にいなかったわよね」
「あ、やだ、変な誤解はやめてよ。違うからね? 旦那様に呼ばれたとかじゃないから」
アルフレッドの腕に添えた自分の指先がすうっと冷えていくのを感じ、背中に嫌な汗が走る。
その刹那。
轟音とともに廊下や壁が凍りついていく。
アンナは思わず「ヒッ」と声をあげてマーサに抱きついた。アイリスも、声はかろうじて耐えたが体がビクリと震えあがった。
曲がった廊下の先では三人の悲鳴が響いている。
「か、……閣下」
アルフレッドを見上げ、その表情から彼の怒りが爆発したのだと悟る。
両家顔合わせがあった夜会のあの日も似たようなことがあった。
床は白む程度だったが、今は完全に氷が辺りを覆っている。あのときは、アルフレッドは怒りを抑えていたのだ。
「急襲か!?」
執務室の隣にある副官の部屋からフロックコート姿のユリウスが飛び出してきた。三人のメイドたちが涙声で助けを求めているのが聞こえてくる。
アイリスが廊下を曲がって顔を見せると、メイドたちの声は音にならず、腰を抜かしてその場に崩れ落ちた。そして怯えた様子でガタガタと震え始めた。
アイリスの隣にいるアルフレッドのせいだろう。
「その者たちは俺の妻を侮辱した」
「ア、アルフレッド様、お怒りはごもっともですが、城内ですからせめて力を加減してください」
ユリウスがなだめるように声をかけるが、アルフレッドの怒りは収まらない。氷が覆う範囲がどんどんと広がっている。
「閣下、どうかお願いします」
アイリスは見上げて言いながら、固く握られたアルフレッドの拳に手を添えた。言い募る二人の声に、アルフレッドは不承不承に周囲の氷を消してくれた。内心で胸をなでおろす。
「いったい何をしたんです」
改めてユリウスが眼鏡を押し上げながら口にする。メイドたちは恐怖におびえ、弁明できる状態ではなさそうだ。アイリスはぐっと唇を噛み、それからメイドへ向けて口を開いた。
「あなたの発言は閣下の名誉を貶めるもののように聞こえますが」
「奥様……」
ユリウスがメイドたちに視線をやると、土下座をするようにひれ伏している。
「ち、違うんです、奥様。アタシはそんなつもりでは」
三人のうち、金髪のメイドが震えながらも訴えてくる。声からして「旦那様に呼ばれた」と吹聴した女だ。
エプロンの下に着ているドレスのボタンを二つ目まで開けていて、肉感を強調するように腰紐はきつく結ばれている。
──殿方というものは、自分より小さくて守ってあげたくなるような柔らかな曲線を好むものよ
彼女を見て、嫌な言葉を思い出してしまった。眉間にしわが寄ってしまう。
「ではどういうつもりで閣下の部屋に呼ばれたなどと?」
アイリスは冷静に問いかけた。なるべく威厳が出るよう、低めの声を意識する。
内心はドキドキしているが、それを顔に出さないようにぎゅっと手を握った。
アイリスの言葉に、ユリウスが眉根を寄せてメイドを見下ろした。
「そ、それは……あの……、えっと、あっ、あの」
このメイドにあったのはアイリスへの嫉妬とアルフレッドに対する浅はかな動機だけで、弁明などできるはずもなかった。
廊下にはほかにも数人のメイドや従僕たちが通りかかり、何ごとかと成り行きを見守っている。
「アイゼンガルド家のメイドが、このような振る舞いがこの家にふさわしくないと理解できないとは言わせません」
沈黙が支配する廊下に、アイリスの声が静かに響く。
「お渡しできる推薦状はないものと思いなさい」
アイリスが無表情で告げると、三人はすすり泣くようにして崩れ落ちた。推薦状がなければ、次にまともな職に就くことは難しい。
厳しすぎただろうか。一瞬の迷いが生じる。だが女主人の立場として、アイゼンガルドの品位を穢す者を許すことはできない。
「奥様のご判断に従い、ただちに手配いたします」
ユリウスの言葉にうなずくと、アルフレッドはアイリスの腰を抱いて歩き出した。
後ろに視線をやるとユリウスは最敬礼の姿勢を取っていた。
メイド長のニーナがアイリスの書斎にやってきたのは、それからすぐのことだった。
青白い顔は、ユリウスから事の顛末を聞かされたからだろう。
アルフレッドはアイリスの後ろで、壁にもたれて立っている。
「奥様、今回のことは私の監督不行き届きです。申し訳ございません」
「……私に対する噂話だけなら穏便に済ませることもできましたが、閣下との関係を仄めかすような話は放ってはおけませんでした。雇い入れた経緯は私には分かりませんが、情報工作の可能性も捨てきれないと判じました」
ニーナは黙ったまま、だけど真剣な顔でアイリスの話を受け止めている。
「私の考えすぎかもしれませんし、その件に関してはユリウス卿に一任しています。すぐに結論が出るでしょうから心配はいりません」
アイリスは立ち上がり、机の前に出た。
ニーナと向かい合うと、見下ろす格好になる。
「メイド長はずっとこの城に貢献してくれている方と閣下から聞いています。若い子たちからの信頼も厚いでしょう。私もずいぶんお世話をかけています」
ニーナは眉根を寄せて首を横に振る。
「今回のことであなたの能力を疑うつもりはないし、他意がないことは分かっていただきたいのだけど」
「はい、あの……それは」
困惑顔を見せるニーナに、アイリスは一つ息を吸う。
「マーサに家政婦長を任せることに決めました」
「え?」
「ニーナ。あなたが家政婦長の役割までこなしていると聞きました。慣れているとはいえ負担であることに変わりないでしょう。あなたにはメイド長としてより一層、若い人たちの教育に力を入れて欲しいの。その分、ほかの仕事に関してはマーサにお願いします」
「奥様」
「だけど私たちはまだまだこの城のことで分からないことも多いです。だからあなたの力が必要よ。協力してもらえるかしら」
ニーナの目がアルフレッドとアイリスを交互に見ている。少し潤んだように見えるが、すぐに強い意志を宿したような目つきに変わった。
「もちろんでございます、奥様。全力でお支えいたします!」
「よかったわ」
ニーナの力強い返事に、アイリスは緊張が解けたようにふにゃりと笑った。




