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第四話 (二)

(二)


 暖炉の前で火を眺めていると、ドアがノックされた。「どうぞ」と答えると、入ってきたのは夫であるアルフレッドだった。


「閣下」


 立ち上がって向き合うと、アルフレッドは大股ですぐそばまで寄ってきた。


「午餐まで少し休むか」


 言いながらショールでアイリスをくるむ。

 彼はどうもアイリスを弱々しい存在に思っている節がある。長距離移動のあととはいえ、そこまでやわではない。

 カシミアの肌触りに思わずうっとりしてしまうが、ふるふると顔を振って、ショールの端を掴む。


「いえ、それより閣下。お聞きしたいことがあるのですが」


 ウィングチェアに座ったアルフレッドを、隣の椅子から覗き込む。


「どうした」

「実は、リンドヴァルドでは毎朝湖へお祈りに出ておりました。こちらでもそういった場所があれば教えていただきたくて」


 領地を発ったその日を最後に、日課ができないでいた。

 しなければいけない、というものでもないが、長年の習慣が途切れるのは少し気持ちが落ち着かない。


「外はまだ許可できないが、ちょうどいい場所がある。疲れてなければ案内しよう」


 顎に手を当てていたアルフレッドが、ふっと顔を綻ばせた。暖炉の火が、アルフレッドの頬や銀髪を柔らかくオレンジ色に染めている。


 暖かい恰好に着替えさせられ、アルフレッドに連れられて部屋を出る。

 地面につきそうなほど丈の長いマントは、アルフレッドの外套だ。真っ黒なマントに全身をすっぽり覆われている。生地が多い分、それなりの重さもある。


 廊下の奥に装飾のない厚い木製の扉がひっそりと佇んでいる。鉄製の取っ手は冷たく、素手で触るのはためらわれるほどだ。

 軋む音が静かに響く。

 横幅は狭いが、天井は高くドーム部分に小さな窓がある。十人も入ればいっぱいになりそうなほどの小さな部屋だ。

 正面には細長い窓があり、嵌め込まれたステンドグラスから柔らかい光が差し込んで石造りの祭壇を照らしている。

 壁の一部には優しい色合いのタペストリーがかかっていた。


「ここは……」

「簡易な礼拝室みたいなものだ。ここでよければ自由に使うといい」

「ありがとうございます」


 簡易とは言え祭壇には石像が置いてある。女神と、足元にいるのは狼のようだ。どこかで見たことがあるような、懐かしいような気持ちが湧いてくる。

 さっそく祭壇前に膝をつき、指を組む。いつものように祈りを捧げようと目を閉じる。

 手の中がじわりと熱を持ち、淡い光が微かにアイリスを包んだ。しかし以前よりもその力は弱まっている気がする。


(やっぱり疲れているのかしら)


 少しのめまいを覚えつつ、石像を見つめながら立ち上がる。アルフレッドがさっと手を差し伸べてくれるのが嬉しかった。大きな手に支えられていると、不思議と心が安らぐ。


「温かい茶と菓子でも用意させよう」


 その言葉通り、部屋に戻るとメイドたちがサービングカートにティーセットと三段のケーキスタンドを乗せて運んできた。パイやスコーン、タルトなど軽食や菓子類が皿一杯に並んでいる。

 一番最後に部屋に入ってきたのは、こげ茶色の髪を短く切り揃えた男性だ。がっしりとした体を、黒いコックコートが包んでいる。


「この城の料理長だ」

「バルガスと申します」


 アルフレッドが淡々と告げ、同じく淡々と名前を言ったきり、二人は何もしゃべらない。アイリスの言葉を待っているようだ。


「初めまして、バルガスさん。これはあなたが?」

「はい、お口に合うといいんですが」

「とても美味しそうです。このサンドイッチはサーモンですか」

「はい。奥様は魚がお好きと聞いたもんで。あ、でもこっちのパイは森で獲れた鹿肉を使ってます」


 無骨ながら、丁寧に説明をしてくれる。料理に対する愛情をひしひしと感じ、アイリスは好感を持った。


 すべてを食べ切るのはとても無理だった。

 アルフレッドに手伝ってもらいながら、というよりほとんどを食べてもらいながら、ティータイムを楽しんだ。


 そしてそのあとの午餐を終え、アイリスは今、主寝室のベッドに座らされている。

 傍らではこの城の侍医が淡々と診察を進めていて、アルフレッドはその横で腕を組んで見守っている。


「ふむ……」

「どうなんだ」


 聴診器を外しながら、年老いた白髭の侍医はアイリスに優しい笑みを向け、それからアルフレッドを見上げた。


「まず栄養がまるで足りとらん。体温も低いし慢性的な疲労もありそうじゃ。あとは」

「あとは?」

「深刻なのは、魔力が枯渇寸前だということじゃな」

「は?」


 侍医はアイリスに視線を戻し、にっこりと笑った。


「ま、めったに起こることでもないから本人が気づかんのも無理はない。周りが見て分かるもんでもないしの。回復薬を処方するから食後には必ず飲みなさい」


 祖父と同年代の侍医、ハインツ・フォン・ケスラー。小柄でふっくらとした体つきにたっぷりと口ひげをたくわえている。

 幼いころのアルフレッドやユリウスたちの怪我を診てきたシュヴァルツ城専属の医師で、薬草学の権威でもあり、ポーション作りでは名の知れた薬師でもある。


「なに、ゆっくり体を休めて栄養のあるものを摂ればじきによくなる。わしのポーションがあれば心配いらんよ」

「ありがとうございます、先生。お世話をおかけしました」


 数本の瓶がベッドの脇にあるチェストに置かれていく。不思議な色の液体だが、これがポーションなのだろう。

 アイリスの体調を心配するアルフレッドが、わざわざ侍医を呼びつけた。それだけでも申し訳ないのに、回復薬まで処方され、アイリスは恐縮しきりだった。

 ヴァレンシュタイン家にいたころは医師に診てもらったことなどほとんどなかったからだ。


「フレッド。言わずとも分かっとるじゃろうが、夜伽など論外じゃ」

「……はっ?」

「今は静養第一。奥方様の体が回復するまでは無理は禁物」

「それは、そうだが……」

「おぬしは自分の欲望を優先するような下衆ではないと信じとるぞ」


 二人の会話を聞きながら、アイリスは耳まで熱くなる。そんなアイリスを見て、ハインツはまた優しそうに微笑んだ。


「フレッドなど気にせず、しばらくは食べて寝ておればよい。それが奥方様の仕事じゃ」


 ハインツが立ち上がり、重そうな往診用のバッグを手に部屋を出る。サイモンが見送りのために付き添って一緒に出ていった。

 残されたアルフレッドとアイリスは、じっと閉まった扉を見続けていた。


「……あの、閣下」

「どうした」


 アルフレッドがベッドに腰を下ろしながらアイリスを見つめている。


「到着早々に……申し訳ありません」

「なぜ謝る」


 うつむくアイリスの顔を、アルフレッドの手が包む。見上げた彼は、優しいまなざしでアイリスの言葉の続きを待っている。


「と、……伽もできない体で……」

「今すぐは無理というだけだ。気にすることはない」

「ですが……」

「ハインツの言う通りに食べて寝て、しっかり回復すればいい」


 ふわりと抱きしめられて、喉の辺りがキュッと締まる。

 大きな体に包み込まれる安心感は、アイリスの心をゆっくりと解していく。

 その広い背中に腕を回してみる。ピクリと反応するアルフレッドは、だけどさらに力強く抱きしめてくれる。

 アルフレッドの胸に頬を押し当ててみると、少し速い心臓の音が聞こえてきた。心地いいリズムに目を閉じて聞き入る。

 体の奥がじわりと温かくなるような、もっと触れていたいような、離れがたい気持ちが次々と生まれる。


「ではせめて城内の仕事は、なるべく早くに取り掛かります」

「ひとまず、そなたの今の仕事は食べて寝て健康を取り戻すことだ」

「閣下」

「明日の仕立て屋の対応もだな」


 何もしないなど、できる性分ではない。だけどアルフレッドはアイリスの要望を聞き入れてくれそうにない。

 本当に何もさせてもらえないかもしれない。

 そんな穀潰しのような真似はできない。


「閣下、お願いです。このままでは役立たずと同じです」

「それなら早く健康になることだ」


 アルフレッドは厳しくも優しい声で言い切った。淡黄色の瞳にまっすぐ射抜かれ、アイリスは何も言えなくなる。


「ひとつ訂正しておくが、そなたは役立たずなどではない。あの家で過ごしてきたせいもあるだろうが、甘え方も頼り方も知らないだけだ。まずはそこから覚えるといい」


 夜会の時と同じように、アルフレッドがアイリスの手の甲に口づける。ゆっくりと優しい仕草で唇が離れ、再び抱きしめられる。


「今は俺も城にいる。焦らなくて大丈夫だ」

「……はい」


 そう答えながら、なんだか無性に泣きたくなった。


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