第一話
(一)
空が白み始める時間、アイリスは黒髪を隠すようにフードをかぶって家を出る。
「アイリスお嬢様、どうかお気をつけて」
侍女のアンナがいつもと同じように、心配顔でバスケットを手渡してくれる。
「ええ、十分に気をつけるわ」
アイリスは痩せた手でバスケットを受け取ると、マントの下のズボン姿を見せながら笑う。
アステリア王国のヴァレンシュタイン伯爵家に長女として生を受けたアイリス・ヴァレンシュタインは、あと半年もすれば二十歳。成人となる。
平均よりも身長が高く、細身の体に色褪せて古びたマントにズボン姿。誰も伯爵家の令嬢だとは気づくまい。
ヴァレンシュタイン家があるリンドヴァルト領は、領地の北側に深い森が広がっている。
リンドの森と呼ばれ古くから精霊が住む湖があるという言い伝えがある。
領地の子供たちはいたずらが過ぎると精霊が怒って魔獣が暴れ、森から帰ってこられないと親から脅されて育つ。そのため子どもたちは森の中にはあまり好んで入らない。湖から伸びる川が枝分かれし、街のいたるところに流れている。その水路や土手で遊ぶ方が楽しいというのが主な理由でもあるが。
自宅の裏から伸びる木製の桁橋を渡って左に折れ、少し進んだ先に見える小屋のある角を右手に曲がった小道の先にあるのがリンドの森だ。その奥深く、といっても歩いてニ十分足らずにある湖を目指す。
太陽の光はすでに辺りをぼんやりと照らし始めていて、手元の灯りはなくとも足取りは確かだ。
吐く息は白く、季節は秋から冬へ移ろうとしている。
鬱蒼とした森は、アイリス以外の家族は誰も近づかない。
政略結婚だった父は母に興味がなく、後妻となった継母と一つ下の異母妹はこの時間に起きることもない。
八歳頃までは母親とともに歩いていた道を、今は毎朝一人で進んでいる。
ふと、視界が開ける。
湖の真ん中には浮島があり、そこに大きな菩提樹が生えている。その姿は母と見ていた頃となにも変わらず神聖な気を放っているように感じる。
周辺の木々が銀色に光る湖畔に膝をつき、母に習った通りに手を合わせる。
母はいつも、誰かのために祈っていた。
自分以外の誰か。家族、そして領地に住む人々の安寧を願っていた。
アイリスは目を閉じ、同じように祈りを捧げる。手の中がじわりと熱を持ち、淡く白い光が体を包む。水面にわずかなさざ波が起きるが、光が収まると同時に辺りは静まる。
ふぅ、と息を吐いて立ち上がる。マントの裾を払い、横に置いたバスケットを持ち直す。
日課である祈りを終えたらその足で採集に出る。朝採れの植物をギルドに買い取ってもらい、食べられる野草を持って屋敷に戻るのがルーティンだ。
街の中央部分はリンデンという名で、広場を中心に放射線状に商店や飲食店などが立ち並んでいる。
リンデンにある建物の多くはハーフティンバー様式で、一番街は飲食店が多く、二番街は服や雑貨を扱う商店、花屋などが並ぶ。
川を挟んで三番街と四番街は冒険者が立ち寄るギルドや武器屋や鍛冶屋、宿屋などが軒を連ねる。夜は酔っ払いが多いので、この辺りだけは治安に少し不安がある。
北側は森だが、中央を囲む後の三方はほとんど農地や水路が占めている。
湖を後にし、馬車が通れるほどの幅がある道に出て十五分ほど森の奥へ進む。
木の根元に生える植物を摘んでいく。珍しい種類であれば素材買い取りの際に少し色をつけてもらえるから、できるだけそういったものを選ぶようにしている。
太陽が完全に顔を出したのか、葉の隙間から差し込む日差しは十分に明るく、暖かい。土の道には葉の影が落ち、あちこちに修繕の跡が見られるマントにも日が当たっている。
採取に精を出すアイリスの後方から、唸り声がした。その声の感じはいかにも獰猛で、大きなもののように思える。
この森で魔獣どころか大きな動物にさえ出くわすことはほとんどないはずなのに。
アイリスの呼吸が浅く、速くなる。木に背中をつけて辺りを見渡すが、姿は確認できない。姿は見えないのに、唸り声はより近くなっている気がする。
(どうしよう)
短剣など、武器になるようなものはなにもない。
攻撃に使えるような魔法も使えない。
アイリスは恐怖を堪えるようにマントの端をぎゅっと握りしめ、息をつめた。
何度か深く息を吐き出し、意を決してその場を離れて走り出す。
ずっと先にある北辺の領地、アイゼンガルドの領地には遺跡やダンジョンがあると聞く。
そこへ向かう馬車の一台、もしくは冒険者の一行に出会えるかもしれない。
獣や魔獣は狩りの対象だから、運が良ければ助けてもらえるかもしれない。
街の方へ逃げてしまえば住民や建物に被害が及んでしまう。それを恐れての行動だった。
荒い息が続く。呼吸が乱れて足が重い。
ここ数か月まともに食事を取れていないせいかと苦しい胸を抑える。
道に這い出した木の根に足を取られ、あっと気づいたときには前方へと倒れこんでいた。痛みに耐えて体を起こすが、すぐ後ろには唸り声が近づいている。考える間もなく、四本足の獣が飛び上がる音がする。
「……っ」
「ギャアァッ」
耳をつんざくのは獣の叫び声。
きつく目を閉じて覚悟を決めたアイリスは、それでも痛みを感じる瞬間がなかなか訪れないことに片方だけ薄眼を開ける。
目の前には大きな黒い塊があった。それが男の背中であることに少しの間気づくことができなかったのは、今まで見た誰よりも大きい体だったからだろう。
大きな男は身なりからして冒険者か旅人のようだ。
「大丈夫か」
男は片手にサーベルを持ち、その刀身は獣の血で濡れていた。
「あ、ありがとうございます」
声が掠れていて、胸の前で握った手が震えているのが自分でも分かった。
男はアイリスを安心させるように、「ただの猪だ。もう大丈夫」と笑顔を見せる。が、アイリスの姿を確認して眉間にしわを寄せた。
「森に入るのに剣も持っていないのか」
「あ……」
継ぎだらけのマントにバスケット。ひょろりと細長いアイリスを見下ろしながら、男は拾った葉っぱで刀身の血を拭っている。
返す言葉がなく黙っているしかないアイリスは、ちらりと男を見やる。逞しい腕を覆う黒いシャツが裂けているのが見えた。
「あ、お怪我を」
アイリスの言葉に、男は自分の腕を見る。シャツが破れて、少し切れているのか出血していた。
「見せてください」
一歩近づいて見上げる。
「ああ、これは今の猪ではない」
気にしなくていいと男は首を振る。アイリスはじっと見上げたまま、目を逸らさない。緊張で鼓動が速いが、何とか平静を装う。
「あの、血を止める程度しかできませんが」
「うん? 聖魔法が使えるのか」
見知らぬ人に魔法について知られるのはできれば避けたかったが、命を助けられたのに何も返さないのはアイリスの矜持が許さない。それに、今アイリスが返せるものは、それしかなかった。
(ごめんなさい、お母さま)
心の裡で言いながら差し出された腕を確認する。目の高さほどに傷口がある。そこに両手をかざし、魔力を注ぐイメージで力をこめる。
ポゥ…とごく淡い光が傷口を照らす。
聖魔法は神官たちが使う神聖な力とされている。
アステリア王国で魔法が使えるのはほとんどが貴族だが、聖魔法を使える割合は全体の一割以下とも言われていて、火や水、風などの自然属性が多くを占めている。
聖属性よりは多いが、土や雷属性の者もいる。
アイリスの魔力属性が聖だと判明したのは六歳だった。母は、絶対にその力を知られてはいけないと幼いアイリスを泣きながら抱きしめた。
聖魔法は特別視され、神殿に幽閉に近い形で一生を捧げることになるからだった。
母の教え通り湖へ祈る以外、この力を使わずに長年隠し続けてきたため、魔法の鍛錬はほとんどできていない。そのせいか、コントロールが難しい。少しの力を使うだけでも、体力が削られて汗が流れる。
それでもやがて血が止まるのが視認できた。
「痛みはどうですか」
「何ほどもない。だが貴重な体験ができた。礼を言おう」
アイリスはホッとして手を下げると、ハンカチを取り出して傷口を覆うように結んだ。鍛えられた腕は太く、アイリスの痩せた腕と比べれば三倍はありそうだ。
「シャツもだめにしてしまって申し訳ありません」
「そなたが謝ることは何もない。顔を上げてくれ」
言われるまま大人しく彼を見上げる。
美しい銀色の髪が朝日に映えている。鼻先まである前髪の分け目から覗く瞳は、淡い黄色だ。
まるでユキヒョウを思わせる造形につい見惚れてしまう。
「もしまだリンデンにいらっしゃるなら、二番街のスピカというお店に来てください。袖を繕うだけならすぐにできるので」
「ああ、分かった」
男は鷹揚に答えた。
淡黄色の瞳が柔らかく細められるのを直視できず、マントを目深にかぶり、目を逸らす。
サッと会釈をして森を抜けて屋敷へ戻った。




