第3話 解き放たれた真の実力者
湿った岩肌を背に、俺は一人、暗闇の中を歩き続けていた。
背後からは、微かに勇者レオンたちの悲鳴が聞こえていた気がするが、それも今はもう遠い。あるいは、ただの空耳だったのかもしれない。
松明もランタンも奪われた今の俺にあるのは、壁面に群生する発光苔の頼りない青白い光だけだ。
「……ふぅ」
自然と溜息が漏れる。だが、それは死を覚悟した絶望の吐息ではなかった。
不思議だった。
Sランクダンジョンの最深層、その九十九層に丸腰で放り出されたというのに、恐怖よりも先に「解放感」が胸を満たしているのだ。
一歩、また一歩と足を踏み出すたびに、体の中から澱のような重みが抜けていく感覚がある。
これまで俺の四肢に絡みつき、心臓を締め付け、魔力を根こそぎ吸い上げていた見えない鎖。それが、あの「追放」の言葉と同時に断ち切られたのだ。
『スキル【一蓮托生】のリンク解除を確認』
『共有されていたステータス補正値が、マスター(本体)へ還流されます』
脳裏に無機質なシステム音声が響いた。
その瞬間、ドクンッ! と心臓が早鐘を打った。
「う、ぐっ……!?」
俺は膝をついた。激痛ではない。奔流だ。
血管という血管に、灼熱のマグマが流し込まれたような熱さが全身を駆け巡る。これまでレオン、ソフィア、ベルンの三人に供給し続けていた俺の生命力と魔力、そして彼らが倒した魔物から得ていたはずの経験値が、ダムが決壊したかのように俺一人に向かって逆流してきたのだ。
『経験値の再計算を実行します』
『レベルアップ……レベルアップ……レベルアップ……』
『レベルアップを確認。上限に到達しました』
『限界突破条件を満たしました。覚醒を開始します』
視界の端で、ログが凄まじい勢いで流れていく。まるで滝のようだ。
レベル1だった数値が、瞬きする間に二桁、三桁、四桁へと跳ね上がっていく。
「あ、あぁ……あぁぁぁ……ッ!」
俺は自分の両手を見つめた。
ボロボロだった皮膚が剥がれ落ち、その下から傷一つない、白磁のように滑らかで強靭な肌が再生していく。
空腹で痩せこけていた腕に、しなやかな筋肉が盛り上がる。
視力が劇的に向上し、薄暗い洞窟の輪郭が、真昼のように鮮明に見えるようになった。百メートル先の岩のひび割れ、そこを這う小さな虫の足運びさえも、手に取るように分かる。
『ステータス更新完了』
ピロン、という軽い電子音と共に、目の前にステータスウィンドウが表示された。
俺は震える声で、その数値を読み上げた。
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名前:アレン
職業:荷物持ち(ポーター) → 神域の超越者
Lv:9999(限界突破・測定不能)
HP:999,999,999
MP:∞(測定不能)
攻撃力:SSS+
防御力:SSS+
魔力:SSS+
敏捷:SSS+
スキル:【一蓮托生(解除済)】【森羅万象】【完全再生】【魔力無限】【絶対防御】……(他多数)
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「……なんだこれ」
乾いた笑いが出た。
桁がおかしい。ゲームのバグ画面を見ているようだ。
だが、体の内側に渦巻くこの全能感は、紛れもない現実だった。
「そうか……俺が弱かったんじゃない」
理解した。
【一蓮托生】というスキルは、ただ平均値を上げるだけのものじゃなかった。
俺という「器」が持つ潜在能力を極限まで引き出し、それをパーティメンバー全員に分配・共有するスキルだったのだ。
俺一人の莫大なステータスを四人で割っていたわけではない。俺が本来持っていた「最強の数値」を、彼ら三人に「上書き」していたのだ。
そして、その維持コストとして、俺自身のステータスは「1」に固定され、得られる経験値も全て彼らの成長のために吸い上げられていた。
俺は、彼らのバッテリーだった。
彼らが「天才」だの「勇者」だのと持て囃されていた力は、すべて俺から流れ出ていたものだったのだ。
「はは……滑稽だな」
俺は立ち上がった。体が羽のように軽い。
軽く地面を蹴っただけで、体が天井近くまで浮き上がった。慌てて体勢を整え、着地する。
かつて重すぎて引きずっていたリュックなど、小指一本で持てるだろう。
いや、もうリュックはないんだったな。あいつらが持っていったから。
「返してもらう必要もないか」
あんなゴミ同然の装備や食料など、今の俺には不要だ。
この身一つあれば、このダンジョンのどこへでも行ける。何だって手に入る。
その時だった。
「グルルルゥ……ッ!」
背筋が凍るような殺気が、前方から放たれた。
闇の奥から姿を現したのは、全長五メートルはある巨大な黒い影。
『深淵の魔狼』だ。
深層の生態系における頂点捕食者の一角。漆黒の毛並みはあらゆる魔法を吸収し、その牙はオリハルコンさえも噛み砕くと言われている。かつてAランクパーティが一個小隊、瞬殺されたという記録があるほどの災害級モンスターだ。
「……でかいな」
以前の俺なら、姿を見た瞬間に腰を抜かして失禁していただろう。
だが今は、不思議と恐怖を感じない。むしろ、目の前の巨大な猛獣が、じゃれついてくる子犬のように見えた。
「ガアアアアッ!」
フェンリルが咆哮と共に飛びかかってきた。
速い。
音速を超えているはずだ。
だが、俺の目にはスローモーションのように映っていた。
大きく開かれた顎、並ぶ鋭利な牙、口から滴る粘液。それらがゆっくりと、コマ送りのように迫ってくる。
(あ、ここを避ければいいのか)
思考するよりも先に、体が動いた。
半歩、右へずれる。
それだけで、フェンリルの突進は俺の横を空しく通り過ぎた。
「ッ!?」
フェンリルが驚愕に目を見開いたのが分かった。野生の勘が、目の前の獲物が「異常」であると告げたのだろう。
着地と同時に身を翻し、再び俺に向かって爪を振るう。
風を切る裂帛の音。岩盤をも紙のように切り裂く斬撃だ。
俺は無造作に左手を上げた。
ガキィンッ!!
金属同士がぶつかり合ったような甲高い音が響き、火花が散る。
俺の人差し指一本が、フェンリルの剛爪を受け止めていた。
「嘘だろ……」
自分でも驚いた。
防御スキルを使ったわけでもない。ただ「止めよう」と思って指を出しただけだ。
それなのに、フェンリルの爪は俺の指に傷一つつけられず、逆に衝撃でヒビが入っている。
「グルッ……ガァッ!?」
フェンリルが畏怖の声を上げ、後退ろうとする。
だが、もう遅い。
俺の中に眠っていた、長年の屈辱と鬱憤が、攻撃衝動となって右手に宿る。
「悪いな。ちょっと、力の加減を試させてくれ」
俺は右手を軽く握り、中指と親指を重ねた。
デコピンの形だ。
狙うはフェンリルの眉間。
「弾けろ」
パチンッ!
乾いた音が洞窟に響いた。
次の瞬間、ドォォォォンッ!! という爆音と共に、衝撃波が巻き起こった。
フェンリルの巨体が、まるで砲弾のように吹き飛んだ。
壁に激突し、岩盤を深々と抉り、さらにその奥へとめり込んでいく。
土煙が晴れた後には、首から上が消し飛び、粒子となって消滅していく魔狼の残骸だけが残されていた。
「……マジかよ」
俺は自分の指を見つめた。
デコピン一発だぞ?
魔法もスキルも使っていない。ただの物理攻撃で、深層の主をワンパンしてしまった。
「これが……俺の、本当の力……」
震えが来た。
恐怖ではない。武者震いだ。
これまでずっと、誰かの後ろに隠れ、守られるだけの存在だと思っていた。
「無能」「お荷物」「役立たず」。そう罵られ、自分でもそうだと信じ込んでいた。
だが違った。
俺は強かったのだ。誰よりも。勇者レオンなど足元にも及ばないほどに。
その事実に、胸の奥で何かが熱く燃え上がった。
もう誰にも媚びる必要はない。誰にも頭を下げる必要はない。
俺は、俺の足で生きていける。
ドロップアイテムとして落ちていた『魔狼の牙』と、レオンたちが持っていった聖剣よりも遥かに強力そうな『漆黒の毛皮』をアイテムボックス(いつの間にかスキルで収納できるようになっていた)に放り込み、俺は歩き出した。
目指すは地上ではない。
さらに奥、第百層だ。
このダンジョンの最奥に何があるのか。それを確かめたいという冒険者としての純粋な好奇心が、今の俺にはあった。
しばらく進むと、前方の開けた空間から、激しい剣戟の音と、爆発音が聞こえてきた。
「……誰か戦っているのか?」
九十九層に、俺たち以外の冒険者がいるはずがない。
可能性があるとすれば、転移の罠にかかって深層に飛ばされた不運な遭難者か。
俺は気配を殺し――いや、意識せずとも『隠密EX』が発動し、俺の存在感は空気と同化していた――音のする方へ向かった。
そこは、巨大なドーム状の広場だった。
中央には、禍々しい瘴気を纏った骸骨の騎士、『デス・ロード』が鎮座している。
手には身の丈ほどの巨大な鎌を持ち、周囲には無数の骨の兵士を召喚していた。
そして、そのデス・ロードにたった一人で立ち向かっている女性がいた。
「はぁっ、はぁっ、くっ……!」
銀色の長髪を揺らし、ボロボロになった白銀の鎧を纏った女騎士。
片手剣は折れかけ、盾は砕かれている。左腕からは血が滴り、足元もふらついている。
それでも彼女は、凛とした瞳の光を失っていなかった。
「まだだ……! 私は、まだ負けない! 王家の血筋が、こんな場所で朽ち果てるわけには……!」
彼女の剣技は鋭く、洗練されている。おそらく、地上であれば一流の騎士だろう。
だが、相手が悪すぎる。
デス・ロードは、先ほどのフェンリルと同格か、それ以上の魔物だ。
単独で勝てる相手ではない。
「カカカッ……無駄ダ、人間ヨ。我ガ鎌ノ錆トナレ」
デス・ロードが下顎を鳴らし、嘲笑うような思念を送る。
巨大な鎌が振り上げられた。
女騎士は回避しようとするが、足がもつれて動けない。
「しまっ……!?」
彼女の顔に、死の予感が走る。
鎌が振り下ろされる。
その軌道は、確実に彼女の首を狙っていた。
助ける義理はない。
俺は人間不信に陥っている。人助けなどして、また裏切られるのは御免だ。
見捨てて立ち去るのが、今の俺には相応しい選択だろう。
だが。
「……王家の血筋が、か」
最期まで諦めず、誇り高く戦う彼女の姿が、かつて俺が憧れた「本当の勇者」の姿と重なった。
泥水を啜って命乞いをしていたレオンとは大違いだ。
(……気まぐれだ。ただの、力のテストだ)
そう自分に言い聞かせ、俺は地面を蹴った。
『縮地』。
空間を削り取るような超高速移動。
女騎士が目を閉じ、死を受け入れた瞬間。
ガァァァァァァァァンッ!!!
凄まじい衝撃音が広場を揺るがした。
しかし、彼女に痛みは訪れなかった。
「……え?」
恐る恐る目を開けた彼女の視界に映ったのは、自分と死神の間に割って入った、一人の少年の背中だった。
ボロボロの服を着た、どこにでもいそうな少年。
その彼が、振り下ろされたデス・ロードの巨大な鎌を、素手で――左手の手のひらだけで、受け止めていた。
「な……!?」
女騎士の喉から、声にならない声が漏れる。
「カ、カカッ……!? 何者ダ、貴様……ッ!」
デス・ロードが驚愕し、鎌を引き抜こうとする。だが、少年の手が万力のように刃を掴んで離さない。
「何者、か……」
俺は鎌を掴んだまま、ゆっくりと顔を上げた。
デス・ロードの眼窩に灯る赤い光を見据え、冷たく言い放つ。
「ただの通りすがりだ。……と言いたいところだが、まあ、荷物持ち(ポーター)だよ」
「ポ、ポーター、ダト……!?」
「ああ。お前みたいなのが相手じゃ、荷物を運ぶ手間すら省けるな」
俺は掴んでいた鎌に、指先から魔力を流し込んだ。
ほんの少し。コップ一杯程度の魔力を。
バギバギバギバギッ!
鎌に亀裂が走り、瞬く間に粉々に砕け散った。
デス・ロードが後退る。
俺は一歩踏み込み、その胸骨に右の拳を添えた。
今回はデコピンじゃない。正拳突きだ。
「消えろ」
ドンッ!
拳が骨に触れた瞬間、まばゆい光が炸裂した。
打撃の衝撃と共に、俺の魔力が浄化の光となってデス・ロードの体内を駆け巡る。
「グオオオオオオオオオッ!! 馬鹿ナ、人間ゴトキニ、コノ我ガ……ッ!!」
断末魔を残し、死の王は光に飲まれて霧散した。
周囲にいた骨の兵士たちも、主を失ってガラガラと崩れ落ちていく。
静寂が戻った広場。
俺は拳を振り払い、振り返った。
そこには、腰を抜かし、信じられないものを見るような目で俺を見上げている女騎士がいた。
銀髪の美少女。泥と血で汚れているが、その美貌は隠しきれていない。
透き通るような紫水晶の瞳が、俺を捉えて離さない。
「あ、あの……」
彼女が震える唇を開く。
「怪我はないか?」
俺は努めて平静を装い、短く尋ねた。
彼女はコクコクと何度も頷き、そして涙を浮かべて言った。
「あ、ありがとうございます……! 貴方は、神の使いか何かですか……?」
「いや、人間だ。……今のところはな」
レベル9999の人間がいるかどうかは怪しいが。
「私は、シルヴィア……シルヴィア・ローゼンバーグと申します。こ、この御恩は、一生忘れません……!」
シルヴィア。
その名前に聞き覚えがあった。
この国の第二王女にして、行方不明になっていた「剣姫」その人だ。
まさかこんなところで出会うとは。
「俺はアレン。……ただのアレンだ」
かつては「栄光の剣」のアレンだった。だが、今はもう何者でもない。
ただのアレン。
それが今の俺には、何よりも誇らしく響いた。
俺は手を差し出した。
シルヴィアは一瞬ためらった後、泥だらけの自分の手を気にしながらも、その手を強く握り返してきた。
その手は震えていたが、温かかった。
「立てるか? ここはまだ危険だ。とりあえず、安全な場所まで移動しよう」
「は、はいッ! アレン様!」
アレン様、か。
レオンたちからは「ゴミ」「カス」と呼ばれていた俺が、王女様から様付けで呼ばれるとはな。
皮肉なものだ。
だが、悪くない気分だった。
俺たちは並んで歩き出した。
その背後には、かつての仲間たちが這いつくばる地獄が広がっていることを、俺は知っていた。
だが、振り返ることはしなかった。
俺の冒険は、今ここで、本当の意味で始まったのだから。




