第2話 偽りの英雄、地に堕ちる
「うわあああああッ!? 剣が! 俺の力がぁぁぁッ!!」
重厚な扉の前で、勇者レオンの絶叫が木霊した。それは恐怖とも怒りともつかない、魂の底から絞り出されたような悲鳴だった。
地面に突き刺さった聖剣エクスカリバー。かつて選ばれし者のみが手に出来ると言われたその黄金の刃は、今や持ち主の手を離れ、ただの鉄塊としてそこに鎮座している。
レオンは脂汗を額に滲ませながら、震える手で何度も柄を握り直していた。指の関節が白くなるほど力を込めているのに、剣はまるで大地と一体化したかのように微動だにしない。
「くっ、ぬぐ、ぐぅぅぅ……ッ! 動け、動けよぉッ!」
全身の筋肉が軋み、血管が浮き上がる。だが、結果は変わらない。数分前まで羽のように振り回し、深層の魔物を一撃で葬り去っていた武器が、今はビクともしないのだ。
それどころか、自身の身に纏っている黄金の鎧さえもが、鉛のように重くのしかかってくる。呼吸をするたびに肺が圧迫され、立っているだけで膝がガクガクと笑い始めていた。
「レオン、何をふざけているんだ! 早くその扉を開けろと言っているだろう!」
背後から、魔導師ベルンの怒鳴り声が飛んでくる。だが、その声には以前のような覇気がない。どこか掠れていて、息切れが混じっている。
「う、うるさいッ! ふざけてなどいない! 体が……おかしいんだ! 急に重力が十倍になったみたいに……!」
レオンは赤くなった顔で振り返り、唾を飛ばして反論した。
その時、異変は既にパーティ全体を蝕んでいた。
「きゃっ!」
短い悲鳴と共に、聖女ソフィアがその場に崩れ落ちた。
まるで糸が切れた操り人形のように、膝から崩れ、地面に手をつく。彼女が身につけているのは、最高級の絹で織られた法衣であり、重量など無いに等しいはずだ。しかし、彼女は自分の体重さえ支えきれない様子で、肩で息を繰り返している。
「はぁ、はぁ、はぁ……。な、何ですの、これ……。足に、力が入らない……。視界が、回って……」
ソフィアの顔色は土気色になり、額からは玉のような汗が滴り落ちていた。
ベルンもまた、杖を杖としてではなく、体を支えるための棒として使い、必死に立っている状態だった。
「おい、どうなっている……。俺の魔力が、霧散していく……。体内にあったはずの膨大なマナの海が、干上がって……ただの水溜りになってしまったようだ……」
ベルンは自身の胸元を鷲掴みにし、信じられないものを見る目で虚空を睨んだ。
三人を包む空気は、先ほどまでの「勝利者」のそれとは全く異なっていた。圧倒的な強者の余裕は消え失せ、代わりに得体の知れない不安と混乱が支配し始めている。
「呪いか……? あのボス部屋からの……」
レオンが這いつくばるようにして剣から離れ、扉の方を見た。
先ほど、ボス部屋の扉が少しだけ開いた。そこから漏れ出した瘴気が、自分たちを弱体化させたのではないか。そう考えるのが自然だった。
「そ、そうに決まっていますわ! デバフです! 状態異常ですわ! ベルン、早く解呪を!」
ソフィアがヒステリックに叫ぶ。
ベルンは舌打ちをし、震える手で杖を掲げた。
「わかっている! 黙っていろ! ……『聖なる風よ、穢れを払いたまえ・解呪』!」
詠唱と共に、杖の先端が淡く光る――はずだった。
しかし、現実は無情だ。
プシュッ、という間の抜けた音と共に、杖先から豆電球ほどの頼りない光が一瞬だけ明滅し、すぐに消え失せた。
「……は?」
ベルンが呆けた声を出す。
ソフィアも、レオンも、その光景を理解できずに凝固した。
宮廷魔導師筆頭であるベルンの魔法は、こんな子供の火遊びのようなものではないはずだ。彼が本気を出せば、この洞窟全体を浄化の光で満たすことさえ可能だったはずだ。
「な、なんだ今のは……。不発……? いや、魔力が足りないだと……? この俺が? MP9999を誇るこの俺が、初級魔法すら撃てないというのか!?」
「ベルン、真面目にやってください! 冗談ではありませんわよ!」
「真面目だ! 本気で魔力を込めたんだ! だが、回路が詰まったように出てこない! まるで、蛇口が錆びついたみたいに……ッ!」
パニックが加速する。
その時だった。
巨大な扉の隙間からではなく、彼らが来た道――背後の暗闇から、ペチャリ、ペチャリという湿った音が聞こえてきたのは。
「ひっ……!」
ソフィアが短く息を呑む。
暗闇から姿を現したのは、一匹のスライムだった。
S級ダンジョンの深層には似つかわしくない、ゼリー状の半透明な魔物。通常、この階層には凶悪なドラゴンやキメラが闊歩しているはずだが、稀に魔素溜まりから自然発生する雑魚モンスターだ。
色は薄汚れた緑色。大きさは子供の頭ほど。冒険者になりたての初心者が、最初に木の棒で叩いて倒すような、最弱の存在。
「な、なんだ……スライムか……」
レオンが安堵の息を漏らす。
スライムなど、彼らにとっては路傍の石ころ以下だ。普段なら視界に入ることさえなく踏み潰している。
「脅かすなよ……。おいベルン、焼き払え。目障りだ」
「……ちっ。今の俺の状態でも、スライム相手なら問題ないか」
ベルンは再び杖を構えた。先ほどの大規模な浄化魔法は失敗したが、最下級の攻撃魔法『火弾』ならば、消費魔力も少ない。
彼は杖の先に意識を集中させる。
「燃えろ……『火弾』!」
ボッ。
杖の先から、握り拳ほどの小さな火の玉が飛んでいく。速度は遅く、軌道もふらついている。
それでも、相手はスライムだ。直撃すれば蒸発するはずだった。
火の玉はスライムの体表に当たり――ジュッ、と小さな音を立てて消えた。
「……え?」
スライムは、何事もなかったかのようにぷるぷると震えている。表面が少し焦げた程度で、ダメージを受けている様子はない。
それどころか、攻撃されたことに反応し、敵意を剥き出しにしてこちらへ向かって跳ね始めた。
「ば、馬鹿な!? 魔法が効かないだと!?」
ベルンが後ずさる。
「何をしているのです、ベルン! 魔法耐性持ちの変異種かもしれませんわ! レオン様、お願いします!」
ソフィアに促され、レオンは舌打ちをしながら立ち上がろうとした。
だが、重い鎧がそれを阻む。彼は仕方なく、腰に差していた短剣を抜いた。メインの大剣は重すぎて持ち上がらないため、緊急用のミスリルナイフを使うしかなかった。
「クソッ、雑魚が調子に乗るなよ……!」
レオンは重い足を引きずり、スライムに向かって踏み込んだ。
速度は遅い。全盛期の彼なら音速を超えていた踏み込みが、今は泥酔した老人のように覚束ない。
それでも、腐っても勇者だ。ナイフを逆手に持ち、スライムの核めがけて突き下ろす。
「死ねぇッ!」
ガギンッ!
硬質な音が響き、レオンの手首に強烈な痺れが走った。
ナイフの刃先が、スライムの弾力ある体表に弾かれたのだ。
「は……?」
レオンは目を見開いた。
ミスリルのナイフだぞ? 鉄すらバターのように切り裂く業物が、たかがスライムのぷよぷよした体に防がれた?
「う、嘘だろ……?」
その隙を見逃すほど、野生の魔物は甘くない。
スライムは体を大きく収縮させると、バネのように跳ね上がり、レオンの顔面に体当たりをした。
「ぐわぁッ!?」
単なる体当たり。だが、その衝撃はハンマーで殴られたかのように重かった。
レオンは無様に仰け反り、背中から地面に倒れ込んだ。鎧の重さで受け身も取れず、後頭部を強打する。視界に星が散る。
「レ、レオン様!?」
「い、痛い……! 熱いッ!?」
レオンが顔を押さえて転げ回る。スライムの体液に含まれる微弱な酸が、彼の頬を焼いていたのだ。普段なら「痒い」とも感じない程度の酸が、今の彼には焼け火箸を押し付けられたような激痛となって襲いかかる。
防御力。それが絶望的に低下していた。
かつてはドラゴンのブレスさえ「少し熱いな」で済ませていた肉体が、今や紙切れのように脆くなっている。
「いやぁぁぁ! 来ないで! 来ないでくださいまし!」
スライムは標的を変え、今度はソフィアの方へと這い寄る。
彼女は涙目でベルンの背中に隠れようとするが、ベルンもまた腰を抜かして震えていた。
「くそっ、なんだこの強さは! 深層のモンスターだからか!? 見た目はスライムでも、中身は魔王級なのか!?」
ベルンが錯乱したように叫ぶ。
違う。そうではない。
スライムはあくまでスライムだ。変わったのは彼らの方なのだ。
だが、彼らはまだその残酷な真実を認められずにいた。認めてしまえば、自分たちの存在価値が崩壊してしまうからだ。
「ソフィア! 防御結界だ! 早く張れ!」
「やってます! やってますわよ! でも発動しないんですの! 女神様の加護が……届かない!」
三人は寄り集まり、たった一匹のスライム相手に、世界の終わりかのような絶望的な表情を浮かべていた。
スライムが再び跳ねる。今度はベルンの足に噛み付いた(溶解液で覆いかぶさった)。
「ぎゃあああああッ!! 足が、俺の足がぁぁぁ!!」
ベルンが絶叫する。ズボンの生地が溶け、皮膚がただれていく。
その悲鳴を聞いて、レオンがようやく我に返ったように懐から何かを取り出した。
「ポ、ポーション! 回復薬だ!」
アレンから奪ったリュックの中にあった、最高級のエリクサーだ。どんな傷も一瞬で治す秘薬。
彼はそれをベルンに投げつけるのではなく、震える手で蓋を開け、自分の顔の火傷に振りかけた。
「あ、ああ……痛みが引いていく……」
「レオン様! ベルンにも! ベルンが死んでしまいますわ!」
「う、うるさい! 俺が先だ! 俺が勇者なんだぞ!」
浅ましい本性が露呈する。余裕があった頃の「仲間想いの勇者」の仮面は、窮地に陥った瞬間に剥がれ落ちた。
レオンは残ったポーションをベルンの方へ放り投げたが、瓶は地面に落ちて割れ、貴重な液体が半分以上こぼれてしまった。
「あぁっ! もったいない!」
ソフィアが叫ぶ中、ベルンは這いつくばって、泥と混じったポーションを必死に啜った。
その姿は、かつての栄光ある宮廷魔導師の面影など微塵もない、ただの惨めな敗北者だった。
スライムは、そんな彼らの醜態を嘲笑うかのように、仲間を呼ぶ音波を発した。
奥の暗闇から、そして岩陰から、一匹、また一匹と、新たなスライムたちが現れる。さらには、コウモリ型の魔物や、巨大なネズミのような魔物までが集まり始めた。
どれも、S級ダンジョンにおいては「空気に等しい」雑魚ばかりだ。
しかし、今の彼らにとっては、それは「死神の軍勢」に見えた。
「ひっ、ひぃぃ……。増えた……。囲まれる……」
レオンが後ずさり、背中が冷たい壁に触れた。
もう逃げ場はない。
ボス部屋は開かない。来た道は魔物で塞がれた。
「ステータス……。そうだ、ステータスを確認しろ!」
ベルンが泥だらけの口で叫んだ。
なぜこんなことになったのか。なぜ魔法が効かないのか。なぜスライム如きに殺されそうになっているのか。その答えを求めて、彼は震える指で空中にコマンドを描いた。
『ステータスオープン』
半透明のウィンドウが目の前に浮かび上がる。
そこに表示された数値を見た瞬間、ベルンの目から生気が消えた。
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名前:ベルン・アークライト
職業:魔導師
Lv:1
HP:12/12
MP:5/5
攻撃力:3
防御力:2
魔力:8
敏捷:4
スキル:【火魔法(極小)】【魔力感知(微弱)】
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「……は?」
ベルンの口から、乾いた音が漏れた。
レベル1。
HP12。
魔力8。
見間違いだと思った。何度も瞬きをし、目をこすった。だが、数値は変わらない。
かつて「魔力9999」を誇り、「大賢者」の称号さえ手に届くと言われていた自分のステータスが、初期値――いや、冒険者ギルドに登録したての新人よりも低い数値になっていた。
「う、嘘だ……。バグだ……。こんなの、ありえない……」
隣で同じようにステータス画面を開いたレオンが、膝から崩れ落ちる音が聞こえた。
「こうげきりょく……ご……?」
レオンが呆然と呟く。
攻撃力5。
それは、木の棒を持って戦う農民と大差ない数値だ。だからこそ、スライムに剣が弾かれたのだ。だからこそ、鎧の重さに耐えられなかったのだ。
「いやぁぁぁぁぁッ!! 私の美貌が! 魅力値が『2』になってますわぁぁぁッ!!」
ソフィアが髪を振り乱して叫ぶ。彼女にとって命よりも大事な「魅力」のステータスが、路地裏の浮浪者同然の数値にまで落ちていたことへの絶望。
三人は、その場に立ち尽くし、あるいは座り込み、目の前の現実を受け入れられずにいた。
そして、その脳裏に、ある一人の男の顔が浮かび上がる。
つい先ほど、嘲笑い、罵り、ゴミのように捨てた男。
荷物持ちのアレン。
「まさか……アレン……?」
レオンが震える声でその名を呼んだ。
あいつがいなくなった途端に、これだ。
タイミングが良すぎる。偶然であるはずがない。
「あいつが……俺たちの力を……盗んでいたのか……?」
違う。そうではない。
アレンが「共有」していたのだ。彼自身の持つ、人知を超えた最強のステータスを、無償でお前たちに分け与えていたのだ。お前たちが「自分の才能」だと誇っていたものは、すべてアレンからの借り物だったのだ。
だが、愚かな彼らは、まだその真実にたどり着けない。
「盗まれた」「呪われた」という被害妄想だけが膨れ上がる。
「許さん……許さんぞ、アレン……ッ! 俺の力を返せ! 俺は勇者だぞ! こんなところで、スライムなんかに殺されていい命じゃないんだ!」
レオンは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、虚空に向かって吠えた。
だが、その叫びに応える者はいない。
迫りくるスライムの群れが、彼らをじりじりと包囲していく。
「ぎぃぃぃ!」
「キシャァァ!」
雑魚魔物たちの歓喜の声が上がる。目の前にいるのは、装備だけは立派な、中身スカスカの極上の獲物だ。
食い散らかされる恐怖に、レオンは失禁した。
黄金の鎧の股間部分が、じわりと濡れていく。
「いやだ……死にたくない……! 助けてくれぇぇッ!」
勇者の威厳も、英雄の誇りも、何もかもが泥に塗れた。
彼らの冒険は、ここから本当の意味で始まったのだ。
他人の力を借りず、自分の足で立つことすらできない「レベル1」の弱者としての、地獄のような冒険が。
しかし、彼らがそれに気づき、這い上がる日は永遠に来ないかもしれない。
目の前のスライムが、レオンの顔面に向かって、捕食のための跳躍を開始したからだ。
「うわああああああああああッ!!」
断末魔のような悲鳴が、誰もいない深層の闇に吸い込まれていった。




