第三章――ノイズは形を得る
三日目、街の様子が微妙におかしかった。
人々が不満を口にするほどではない。
だが、確かにずれている。
荷馬車が必要以上に遠回りをする。
衛兵が同じ通りを二度巡回する。
理由もなく、店が早じまいする。
些細なことだ。
大半の人間は見過ごす類の。
だが、カエリスは違った。
「……来たわね」
ルネッサの声は、かすかに好奇心を帯びていた。
「何かが始まっている」
カエリスはそう返す。
「まだ小さい。まだ静かだが、このままでは終わらない」
彼は人の流れに逆らわず、溶け込むように歩いた。
通りは次第に彼を東側へと引き寄せる。
倉庫と住居の境界が曖昧になる一帯だ。
井戸の広場の近くで、人々が足を止めていた。
群衆というほどではない。
ただ、次に何をすべきか分からず立ち尽くす、緩い集まり。
その中央に、子どもがいた。
幼い。
動かない。
誰かが用意したであろう小さな袋を、両手で抱えている。
「迷子ね」
ルネッサが言う。
「はぐれただけだ」
カエリスは訂正した。
その違いは、重要だった。
反対側の通りからフェラが現れた。
近づく前から状況を把握し、歩みを緩める。
「一人にしておくべきじゃない」
彼女は言った。
「親は?」
答えはない。
人々は互いを見た。
誰かが前に出るのを、全員が待っている。
問題は、そうやって形になる。
カエリスは一歩、距離を詰めた。
目立たない程度に。
空間を与えるだけ。
子どもが彼を見上げる。
まだだ。
彼は黙っていた。
その子は、泣いていなかった。
それが、フェラが最初に気づいた点だった。
多くの迷子は泣く。
注目を集めるために。
だがこの子は違う。
袋を強く握りしめ、視線だけを人から人へ移している。
「どれくらい、ここに?」
フェラが尋ねる。
男が肩をすくめた。
「数分……いや、もっとかもしれない」
「誰か話しかけた?」
また、肩をすくめるだけ。
カエリスは膝を折り、視線の高さを合わせた。
声は低く、落ち着いている。
「名前は?」
「ミラ」
即答だった。
はっきりしている。
怯えてはいない。ただ、不安なだけだ。
「どこへ行くつもりだった?」
彼女は頷いた。
「橋の近くのパン屋」
「地区の反対側ね」
フェラが言う。
「子ども一人じゃ遠すぎる」
ミラは袋を握る力を強めた。
「迷うつもりじゃなかった」
「誰だってそうよ」
フェラは即座に返した。
カエリスは立ち上がる。
周囲の人間が、わずかに身を乗り出す。
助けるためではない。
“どうなるか”を見るために。
「……責任の押し付け合いが始まってる」
ルネッサが言った。
「次に口を開いた者に、だ」
カエリスは答える。
フェラも気づいていた。
彼女は集団へ向き直る。
「この子の家族を知っている人は?」
沈黙。
やがて誰かが言った。
「ギルドに任せればいい」
「こういうのは衛兵の仕事だろ」
問題は、外へ押し出された。
受け渡されていく。
カエリスは、再びミラを見る。
「ここで待っていなさい」
彼女はすぐに頷いた。
カエリスは輪の外へ出る。
急がず、焦らず、ただ意図を持って動く。
ノイズが、彼についてくる。
遠くへは行かない。
通りを渡り、古い掲示が何度も貼られ、剥がされた壁の近くで止まる。
そこから、全体が見える。
ミラも、フェラも。
フェラは子どものそばに残った。
「大丈夫。叱られたりしない」
しゃがんで言う。
「ちゃんと解決するわ」
ミラは頷くが、力は抜けない。
周囲では、人々が見ていないふりをしていた。
歩調を落とし、必要以上に留まる。
待っている。
カエリスは耳を澄ます。
重なり合う声。
曖昧な推測。
「橋の近くで見た」という声。
「いや、粉挽き場の方だ」という声。
一致しない。
「……誰も分かってない」
ルネッサが言う。
「分かろうとしていない」
カエリスは答えた。
言葉ではなく、別のものに意識を向ける。
恐怖でも、意図でもない。
欠落だ。
何かが欠け、その空白が、この場の縁を引き寄せている。
息を切らした女が通りを駆けてくる。
視線は落ち着かず、顔を次々と確認していく。
集団を見て、足を止めた。
「ミラ」
その名前が、ノイズを一刀で断ち切った。
子どもが振り返る。
表情が、即座に変わる。
「ママ」
女はためらいなく人の間を抜け、ミラを抱きしめた。
袋が地面に落ちる。忘れられたように。
「ほんの一瞬、目を離しただけなの」
女の声は震えていた。
フェラは立ち上がり、距離を取る。
群衆が緩む。
静かな、失望とともに。
形は、崩れた。
誰かが“助けた者”を探す前に、カエリスは離れる。
「……あなた、何もしてないわ」
ルネッサが言う。
「そうだな」
「でも、終わった」
「それでいい」
十分だった。
通りは、異様なほど早く平常へ戻る。
人々は動き出し、会話は中断した地点から再開される。
屋台の商人が、何事もなかったかのように店を開く。
街は出来事を吸収し、進み続ける。
フェラは、親子が去っていくのを見届け、ゆっくり息を吐いた。
「もっと悪くなってもおかしくなかった」
「そうだな」
彼女は彼を見る。
「あなた、残らなかった」
「理由がなかった」
フェラは反論しない。
通りへ視線を戻す。
「大抵の人は、誰かが動くのを待つ」
「いつもそうだ」
一度だけ、彼女は頷いた。
「それが、嫌い」
「だから、工夫する」
小さな笑みが浮かぶ。
「誰かがやらないとね」
二人は並んで補給事務所へ戻る。
打ち合わせもなく、歩調は揃っていた。
「……ほんの小さな波紋だったわね」
ルネッサが言う。
「それ以上である必要はない」
街の視点では、何も起きていない。
報告書も、教訓も残らない。
ノイズは、より良い形を求めて去っていく。
カエリスは、それを通過させた。。




