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第1章 世界は騒々しい

最初にカエリス・ウォードが認識したのは、音だった。

耳鳴りや動悸のような劇的なものではない。幾層にも重なった雑音。重なり合う声。石床に金属が触れる乾いた音。一定のリズムを拒む足音。


呼吸は自然だった。

それだけで、移行が完了していることが分かる。


カエリスは目を開けた。


頭上には石。

荒く削られたままの天井は、装飾性よりも実用性を優先した造りで、威圧感を与えないぎりぎりの高さを保っている。壁も同様に灰色で、傷はあるが破壊の痕跡ではない。時間による摩耗だ。


待つための空間。

そう定義するのが最も正確だった。


カエリスは急ぐことなく上体を起こす。身体は即座に応じた。眩暈も、違和感も、慣らしの時間もない。


――約束通り、完成している。


周囲では人が動いていた。

使い古した革鎧の男が、鉄帯で補強されたカウンター越しに受付と口論している。掲示板の前では二人の冒険者が武器を比べ、奥の方では理由もなく大声で笑う声が響いた。


冒険者ギルド。

結論は、考えるまでもなく降りてきた。


カエリスが目覚めたことに気づく者はいない。

驚きも、中断もない。彼の存在は、空間の注意を引き寄せなかった。


それでいい。


「……もう目覚めたのね」


声は私的に届いた。周囲の騒音を乱すことなく、意識の内側へ滑り込んでくる。


ルネッサは姿を現さない。

彼女は、気が向いた時しかそうしなかった。


「遅延は?」

カエリスは内側で問いかける。


「ほとんどなし。着地は綺麗よ。偏差もない」


わずかな満足を含んだ声音。それが彼女なりの仕事への評価だった。


二人の冒険者が、つい先ほどまでカエリスがいた空間を通り抜ける。彼らは何も反応しない。一人は書類に不満を漏らし、もう一人は魔物について愚痴をこぼしていた。


どちらも騒がしい。

どちらも重要ではない。


「ここは?」

カエリスが尋ねる。


「アウレリス王国。地方都市のギルドホール。人通りは中程度。政治的に安定。感情効率は悪い」


納得できる評価だ。


「避けるべきことは?」


一拍の間。


「英雄行為。宣言。公の場での問題解決」

端的だった。


「そのつもりはない」


「知ってる」


沈黙が戻る。

観測のための、快適な沈黙。


カエリスは掲示板に近づいた。読むためではない。密度を確認するためだ。

行方不明の荷。護衛依頼。討伐要請。失敗の上に新しい紙が重ね貼りされている。


放置すれば問題は増大する、という文化。

誤っているが、一貫している。


カウンターの向こうで、受付がようやく彼に気づいた。

異常としてではなく、帳簿に空いている一行として。


「名前は?」

羽ペンが構えられる。


「カエリス・ウォード」


ペン先が止まったのは、綴りを確認する一瞬だけ。


反応なし。

共鳴なし。

システムの介入もない。


――上出来だ。


「目的は?」


カエリスは考える。

生きる、で十分だが。


「一時登録。階級なし」


受付は興味を失ったように頷く。

「銀貨五枚」


次の瞬間、カエリスの掌に硬貨があった。

召喚でも生成でもない。ただ、そこにあるべきものが在っただけだ。


手続きは完了し、騒音が再び流れ込む。


カエリスはカウンターを離れる。

世界の記録上に、目立たず、脅威でもない存在として登録された。


どこかで問題が芽吹いている。

彼は、そちらを見ない。


――まだ、だ。


ギルドホールを出ると、街は息を吐いた。

音は減らない。ただ質が変わる。石に抑えられていた混沌が、露出した雑多へと移行する。


商人の呼び声。抗議する荷馬車。磨耗しきった石畳を削る鉄靴。


街は機能している。

それが重要だった。


アウレリスの地方都市は、脅威下にあるようには見えない。建物が寄り添うのは恐怖ではなく効率のため。色褪せた旗が区画を示すが、元の意味は忘れられている。


人々は無意識に互いを避け、止まらない。

急がず、固まらない。


世界は、自分が安定していると信じている。


カエリスは荷車を避けるため進路を微調整する。御者は二度見もせず礼を言った。子どもが大声で笑いながら駆け抜け、追いかける女は怒っているふりをしている。


正常性は、自己主張が激しい。


「……よく溶け込んでるわね」

ルネッサが言う。


「特筆することか?」

カエリスは問う。


「あなたにしては、ね。異物は到着しただけで確率を歪めるものよ」


「到着しに来たわけじゃない」

「存在しに来ただけだ」


わずかな間。

軽い評価。


街路が自然に彼を導く。人通り重視の区画。軋む看板。売れると信じられている商品で埋まった窓。


石壁に直接打ち付けられた張り紙の前で足を止めた。


貸し部屋。

食事応相談。

冒険者パーティ不可。


実用的で、防御的。生活の匂いがある文言だ。


場所を記憶し、通り過ぎる。


その時、何かがかすめた。

慌ただしい女。茶色の髪を雑に束ね、腕に余る箱を抱えている。一つが傾いた。


カエリスは歩調を変えずに支えた。

最小限で、正確で、気づかれない動作。


「あ……ありがとう」

息を切らし、彼が既に隣にいることに驚いたように瞬く。


「どういたしまして」


彼女は半拍長く彼を見る。疑念ではなく、計算。重量、時間、労力に慣れた目。


「新顔ね」

問いではない。


「ええ」


「雇われ剣士?」

期待していない響き。


「違う」


それで十分だったらしい。


「よかった。この通りは多すぎるから」


箱を抱え直し、少し迷ってから言う。

「仕事探しなら、東の井戸近くの物資管理所。人手不足よ。支払いは……だいたい時間通り」


「覚えておく」


彼女は一度だけ頷き、すでに次の予定に思考を移して去っていった。


ルネッサは黙って見ていた。


「……あの子、面白いわね」


「効率的だ」

カエリスは答える。


「そして無自覚。生き残る確率は高い」


街は続く。

自分の計算に含まれていないものと、交差したことを知らぬまま。


カエリスは再び歩き出す。

目的はないが、迷ってはいない。


音は続く。

今は、それでいい。


人が減ったところで、足を止めた。

交易が薄れ、声が減り、空間が広がる。街が演じる必要のない区画。


浅い井戸広場。石のベンチ。磨耗した滑車。

旗も、警備もない。


重要でない場所は、長く残る。


カエリスは腰を下ろす。


人は通り過ぎる。水を汲み、籠を置き、何も変えない。

誰も進路を変えない。


これも、有用だ。


「……もう定着してるわね」


「一時的な配置だ」

「定着する気はない」


「いつもそう」


沈黙。

空白ではない、評価を伴わない観測。


カエリスは細部ではなく、街の律動を見る。

自動修正。些細な不具合の自己解消。誰かが可視化しない限り、問題が問題にならない仕組み。


世界は、証人を欲しがる。

彼は名乗り出ない。


遠くで声が上がる。口論。危険ではない。

頂点を越え、平坦になり、消える。


他者による解決。

許容範囲。


カエリスは立ち上がる。焦りではなく、整合としての決断。

宿も、仕事も、時間も、任意。努力なく解決可能。


今は、存在するだけで足りる。


街は騒がしいままだ。

彼は応じない。


日が傾き、通りが柔らぐ頃、カエリスは「いない場所」を選び終えていた。

大通り、次に準大通りを避け、残るのは習慣で形作られた道。近道。裏道。理由を考えずに使われる場所。


張り紙の前に戻る。


貸し部屋。

食事応相談。

冒険者パーティ不可。


一度のノックで扉は開いた。


先ほどの女が、名を問うことなく脇に退く。


「長居しない歩き方ね」


「問題は起こさない」


「それは懸念じゃないわ」

背を向けながら言う。

「でも、それでいい」


部屋は清潔で、簡素で、機能的。

ベッド、机、重要でない景色を映す窓。


荷を置く。痕跡を残さない程度に。


外では街が続く。

音は石と木を通して和らぎ、許容できる形になる。


「……配置は完了ね」


「今のところは」


「上出来」

「この世界に、それ以上の労力は不要よ」


カエリスは横になり、目を閉じた。

眠るためではない。刺激を認識しないためだ。


街は気づかない。

システムは異常を記録しない。

世界は騒がしいままだ。


そして到着して以来、初めて――

カエリス・ウォードは、それを他人の問題として扱うことを許した。

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