束の間の休息と血脈の手がかり
トラン・フォンは百貫の銭を、まず何よりも生きるために使った。
「馬鹿げている!その大金を風呂と粥に使うとは!」黒舌が叫ぶ。
フォンは安宿で久しぶりに熱い湯に浸かり、垢を流した。新しい、安物だが清潔な綿の服に着替えた後、彼は食堂へ向かい、牛肉麺を五杯注文した。山盛りのネギと、湯気の立つ肉。彼の胃袋は、この数週間、夢にも見なかった光景だ。
「この銭は汚れている。だが、血の気が満たされるのだけは、悪くない」
フォンは麺を啜り、腹の底から温まる感覚を味わった。黒舌の言う通り、百貫の銭は光悦卿の血と、哀れな愛妾の怨嗟で染まっていた。しかし、フォンにとって、それは生き残るための、現実的な勝利の証でもあった。
「腹が満たされたら、次は情報だ。光悦卿の背後にある闇を調べる」
フォンは都の裏社会に潜り込み、古文書や禁忌の知識を扱う学者崩れの男を探し当てた。その男、学屋は、金を積めば死者の過去さえ掘り起こすと言われる、危険な情報屋だった。
「光悦卿の汚職?それは簡単だ、兄さん。だが、君が追っているのは、その裏にあるもっと古い血の呪いだろう?」
学屋はフォンの目の奥にある血の気の残滓を一目で見抜いた。フォンは驚きを隠せなかった。
「話が早い。俺の持つ力——血の気の源流を知りたい。そして、光悦卿がその愛妾を殺すに至った、真の理由だ」フォンは更に二十貫の銭を差し出した。
学屋は銭を数え上げ、満足そうに頷いた。彼は古びた羊皮紙の巻物をフォンの前に広げた。
「怨霊が愛妾だったのは事実だが、主が恐れていたのは、彼女が身ごもっていた子供だ。その子には、貴様と同じ、あるいはそれ以上の異能の血が流れる可能性があった。光悦卿は、代々、異能の血を持つ者を根絶やしにしてきた一族の末裔だ。彼らは、古の時代から存在する、**『蒼血の氏族』**を恐れている」
蒼血の氏族——その言葉を聞いた瞬間、フォンは再び激しい**悲感**に襲われた。
——火だ!村が燃えている!そして、鎖に繋がれた、幼い自分…
それは、彼の過去。彼自身の血脈に関する、決定的な記憶の断片だった。フォンは巻物に手を触れたまま、荒い息を吐き出した。
「どうした、兄さん?」
「この蒼血の氏族というのは…どこに拠点を置いていた?」
「古い記録によると、彼らの本拠地は、都の北東に位置する**『忘却の伽藍』**だ。数百年前に廃墟となった古寺だが、かつては血の異能を持つ者たちの聖地だったという。そして今も、光悦卿のような者が、秘密裏にそこで何かを探っているという噂だ」
全てが繋がった。光悦卿は、ただの汚職貴族ではない。彼は、フォン自身の血脈を断ち切ろうとする、古の敵だったのだ。愛妾の事件は、その巨大な氷山の一角に過ぎない。
フォンは残りの銭を懐にしまい、立ち上がった。
「クロベロ、次の目的地が決まったぞ」
「なに?風呂と飯で満足したのではないのか?もう少し都の女でも口説いたらどうだ?」
「無駄だ。俺の血は、俺自身が思っていたよりも、深くこの都の闇に根差しているようだ。忘却の伽藍へ行く。そこで、俺の力の源流と…光悦卿の真の目的を暴く」
フォンは再び黒い剣を背負い、都の裏路地を抜けた。彼の顔には、もう迷いはない。飢えも満たされた。今、彼を駆り立てるのは、己の血脈にかけられた呪いと、その黒幕を断ち切るという、戦士の熱情だった。




