怨霊の慟哭と血の剣の葛藤
「貴様だけは…許さない!」
愛妾の怨霊の叫びは、物理的な音というより、魂を直接凍らせるような波動だった。辺りの空気が急激に冷え込み、フォンが纏う血の気の炎さえもが、一瞬、弱まったように感じられた。
怨霊は真っ白な両腕を広げ、氷のような黒い瘴気を放出しながら、光悦卿に向かってまっすぐ飛来した。
「助けろ!トラン・フォン!貴様は百貫で私の命を買ったのだぞ!」光悦卿は醜く顔を歪ませ、フォンの後ろに隠れようと必死に足掻いた。
フォンは動けなかった。**悲感**によって追体験した怨霊の苦痛、そして光悦卿の卑劣さが、彼の理性を麻痺させた。
「やめろ、フォン!貴様の仕事はあのクソ貴族を殺すことじゃない!金を稼ぐことだ!」黒舌の罵声が、彼の意識を現実に引き戻す。
「分かってる…!」フォンはギリリと歯を食いしばった。
彼は一歩踏み出し、怨霊と光悦卿の間に割って入った。怨霊の放つ冷気が肌を突き刺す。
「血剣よ、なぜ邪魔をする!貴様も奴の腐った欲望の片棒を担ぐのか!」怨霊の瞳から、血のような涙が溢れ出した。
フォンは悲しみを押し殺した。彼はこの怨霊に深い同情を感じている。彼女こそが被害者だ。しかし、彼は今、トラン・フォンという名の、金で動く鬼狩りなのだ。感情に流され、光悦卿を斬ってしまえば、彼は一文無しになり、都で生きる術を失う。そして、彼の力は怨念を晴らすのではなく、さらなる死と罪を生むだろう。
「俺は、依頼を完遂するまでだ」フォンは冷たい声で言い放ち、剣を構えた。
怨霊は理解を拒否し、怒りを増幅させた。その黒い怨嗟のエネルギーが、空間を軋ませる。
「黒舌、どうすればいい。こいつは殺していい相手じゃない」
「怨念は強大だが、脆い。憎悪は魂を縛り付けている鎖だ。その鎖を切断しろ。貴様の力は、単なる殺戮ではないはずだ」黒舌は珍しく真剣な声で助言した。
フォンは目を閉じた。彼の全身の血の気が凝縮し、剣に集中する。それは、怨霊の怒りと同じくらい熱く、純粋な、生のエネルギーだった。
血剣の型・捌:浄滅!
フォンは剣を一閃させた。それは、対象の肉体ではなく、魂を切り離すための、救済の一撃だ。赤い剣閃は、怨霊の体ではなく、その胸の中心に凝縮された怨嗟の核を貫いた。
「ああ…」
怨霊はもはや悲鳴ではなかった。それは、解放された者の、深く、寂しい**慟哭**だった。黒い霧は急速に晴れ、怨霊の姿は、最後に微笑んだかのように穏やかな表情を見せ、光の粒となって消滅した。
フォンは全身の力を使い果たし、荒い息をついた。
「終わったぞ、光悦卿」
光悦卿は、恐怖で腰を抜かしたまま、震えながらフォンの前に銭袋を投げつけた。
「とっとと、失せろ!貴様のような血なまぐさい男は二度と敷居を跨ぐな!」
フォンは百貫の銭を受け取った。その重さは、命の重さというより、汚泥の塊のようだった。
「ご心配なく。貴様のようなクソ野郎とは二度と会いたくない」
フォンは血の剣を鞘に納めた。この屋敷で感じた悲感は、単なる愛妾の怨念では終わらない。彼女の死の裏には、光悦卿が関わる、さらに巨大で、都を覆う腐敗の影があることを、フォンは知ってしまった。
金は手に入った。しかし、彼は、百貫という血塗られた報酬と、さらなる深淵な闇への入り口を手に入れたのだ。
フォンは都の夜の闇へ、再び姿を消した。彼の血剣の旅は、ここから本格的に始まる。




