夜鬼の日常と京の怪異
トラン・フォンは、都の闇の中に溶け込んでいた。かつての憎悪や狂気の影はなく、彼の**血脈の調和**は、夜の静寂そのものと共鳴している。彼は、草司に別れを告げたあの日から、自ら選んだ道——都の影の守護者として生きていた。
日中は日傘の結界の必要もなくなり、フォンは市井の人間として生活し、夜になると、その姿は夜鬼へと変わる。紫紺色の血の気は、周囲の闇を感知する鋭いセンサーとなり、都の片隅に潜む些細な悪事や、**邪気**の気配を逃さなかった。
フォンは、路地の喧嘩を静かに治め、無力な者たちから金品を奪おうとするごろつきを、黒舌を使わずに、制御した血の気による一瞬の気絶で無力化した。その全てが、音もなく、誰も気づかぬうちに終わる。
「…狂気がなくなると、貴様はただの静かな職人になったな」黒舌は時折、その退屈さを訴えた。
「それが、俺の選んだ平和だ」フォンは答えた。
しかし、その穏やかな均衡は、ある夜、突然破られた。
都の北部に位置する、千年の歴史を持つ廃寺から、フォンがこれまで感じたことのない、極めて精製された邪気の波動が噴き上がったのだ。その邪気は、黒縄会のそれとは質が違う。より古く、より研ぎ澄まされた、異国の術式を思わせるものだった。
「これは…!」フォンは一瞬で、それが単なる怨霊や悪党の仕業ではないことを悟った。
フォンは即座に廃寺へと急いだ。修行で鍛えられた彼の身体能力は、今や都の屋根を渡る風そのものだ。
廃寺の敷地内は、深い闇に包まれていた。本堂の祭壇は破壊され、祭られていたはずの**「千年の霊石」**が消えていた。霊石は、都の気の流れを鎮めるための重要な古代の遺物だ。
フォンが祭壇の瓦礫に目を凝らした瞬間、背後の闇から、鋭い金属音が響いた。
彼は反射的に黒舌を抜き、背後からの攻撃を弾いた。それは、この国では見慣れない、細身で湾曲した**双刃**だった。
「見つかったか」
そこに立っていたのは、全身を黒い革で覆い、顔を仮面で隠した、華奢な体躯の女だった。彼女の纏う邪気は、廃寺から噴き出したものと完全に一致する。
女は言葉を発さず、流れるような異国の剣技でフォンに襲いかかった。彼女の動きは驚異的に速く、影そのものだ。
フォンは、制御した**血剣の型・清浄**で迎え撃つ。精度の高い斬撃が、女の動きの軌跡を正確に捉える。二人の戦いは、静かな闇の中で、金属が擦れる甲高い音だけを響かせた。
数合の攻防の後、フォンは女の足元を狙い、牽制の一撃を放った。女は霊石を抱えたまま、瓦礫の上に飛び退いた。
「貴様ら、一体何者だ」フォンは低い声で尋ねた。
女は答えず、霊石をしっかりと抱きしめると、祭壇の裏に開いた隠し通路へと姿を消した。しかし、彼女が去る間際、黒い革手袋に縫い付けられていた銀色の羽根の飾りが、フォンが放った斬撃の風圧で千切れ、石床に落ちた。
フォンは隠し通路を追うことをせず、羽根を拾い上げた。その羽根は、都の歴史や、黒縄会のような陰陽道の組織が使う紋様とは、全く異なるものだった。異国の、遠い場所の紋章。
「クロベロ。奴らは、俺たちの敵とは別だ。奴らは、力そのものを狙っている」
「ああ。厄介なことになったな。都の闇は、まだ続くようだぞ、夜鬼殿」
フォンは、霊石が失われた廃寺を見上げ、深く息を吐いた。彼の夜鬼としての新たな使命は、始まったばかりだ。都を狙う新たな闇の影は、彼が思っていたよりも、遥かに広く、深い世界へと繋がっていることを示唆していた。




