血濡れの銭と呪いの眠り
泥と雨に濡れた街道を、トラン・フォンは黙々と歩き続けた。昨日村を救った(そして追い出された)代償として、彼の胃袋は依然として空っぽだ。茶屋で使えなかった勾玉を、彼は握りしめていた。
「おい、フォン。本当に何も残っていないのか?」黒舌の声が、いつにも増して機嫌が悪い。「たった50貫の首飾りを身に付けているくせに、一杯の酒も飲めないとは、情けない」
「俺の首を売る前に腹を満たさないと、誰にも斬りかかれず餓死するだけだ」フォンはそっけない。彼は遠くに見える、わずかな明かりに目を向けた。「見ろ、宿屋だ。今夜の寝床を確保するぞ」
たどり着いた宿屋は、「たぬき」という安直な名を冠した、潰れかけそうな建物だった。戸を開けると、土埃と腐った味噌のような臭いが鼻を突く。受付にいた女将は、フォンの見るからに怪しい風体と、背中に負った黒い剣を見て、露骨に顔を顰めた。
「あんた…旅人かい?うちは金がない客はお断りだよ。」
フォンは懐を探ったが、やはり一銭もない。彼はため息をつくと、昨夜手に入れた勾玉を差し出した。
「これでどうだ。安物だが、縁起物だそうだ。一晩の寝床と、水を張った粥を一杯でいい」
女将は勾玉を受け取り、怪訝そうに光にかざした。その瞬間、フォンは再び**「悲感」**に襲われた。激しい頭痛とともに、視界に血まみれの記憶がフラッシュバックする。
「息子を…守ってくれ…」
それは昨夜斬り伏せた化け屍の、死に際の悲痛な叫びだった。勾玉には、死者の魂の叫びが染み付いている。
「わかったよ、この部屋だ」女将は渋々鍵を渡した。
「相変わらず呪われたものを持ち歩いているな。その勾玉を食料に替えるとは、いよいよ落ちぶれたものだ」黒舌は嫌味を言う。
フォンは与えられた粗末な木造の部屋に入り、濡れた蓑衣を脱いだ。粥をすすっても、腹の足しにはならない。疲労困憊した体は、すぐに眠りにつこうとした。
夜が更ける。
フォンは浅い眠りの中にいた。その時、再び「悲感」の波が襲いかかる。
だが、今回は違った。過去の記憶ではない。それは…今、ここに存在する、純粋な恐怖と、言いようのない絶望感だった。
「やめ…て…」
それはか細い女の悲鳴。フォンは激しく目覚めた。全身に冷や汗が噴き出している。
血の気が肌の上でチリチリと燃え始めた。
「どうした、フォン?今度は何に怯えている?」黒舌が尋ねたが、その声にも緊張が混じっている。
フォンは剣の柄を握りしめ、喉の奥から絞り出すように言った。「悲感だ。だが、過去じゃない。今、この宿屋にいる誰かが…何かに食われている」
壁一枚隔てた隣の部屋から、微かな「スースー」という、何かを吸い上げる音が聞こえてきた。
フォンは飛び起きた。窓の外は濃い霧に包まれている。
彼は即座に血の気を全身に集中させ、剣を抜き放った。剣の刃が赤く鈍く光る。
「…今夜は、寝かせてくれそうにないな」
隣の部屋の扉に、鋭い黒い影が突き立てられた。フォンが**斬月**の型で壁を叩き割ったのだ。
崩れた壁の向こう側。
そこには、全身から黒い瘴気を噴き出し、眠る女の口から魂を吸い上げている、おぞましい**夢魔**の姿があった。
「よう、化け物」フォンは冷酷な笑みを浮かべた。「俺は腹ペコで機嫌が悪い。…朝まで生きられると思うなよ」
血の気の炎が、宿屋の闇を照らし出した。




