血を纏う逃亡者と新たな隠れ家
王城の屋根を伝って逃れたトラン・フォンの体は、限界を超えていた。腹の傷は血を滲ませ、**血合**の反動による倦怠感と激しい頭痛が彼の意識を朦朧とさせる。東の空が白み始め、陽の気が王都に満ちる前に、彼は闇へと深く潜る必要があった。
フォンは、王城から最も遠く、警備の目が届きにくい、城下町の薄汚れた一角にある廃寺に辿り着いた。ここは、貧民や追放された者たちが集まる、都の「忘れられた場所」だ。
「もう動くな、フォン」黒舌は静かに警告した。「体内の血の気が、お前の命を繋ぎとめているが、このままでは本当に暴走する。最低でも三日は、日光を避け、陰の気の中で休養しろ」
フォンは廃寺の埃っぽい奥の間で力尽きたように横になった。王城での死闘、特に光悦卿との対決は、彼の心身を蝕んでいた。彼は血塗られた巻物の断片を懐から取り出し、胸元に抱きしめた。
「光悦卿は倒したが、呪いは残った…」
彼は、己の血脈が光によって狂気に導かれるという事実を、深く理解した。それは、彼が常に暗闇の中で生きる運命にあることを意味していた。
翌日、フォンは激しい発熱に襲われた。自力での治癒は限界だ。彼は、この廃寺の近くで薬草を扱う、盲目の老人、草司という元医師に、大金を積んで助けを求めた。
草司はフォンの傷を見て、驚きもせず、ただ静かに言った。
「これは、人の業ではない。呪いの類だ。お前の血は、普通の病では癒せぬ」
草司はフォンが差し出した銭の半分を受け取り、特別な薬草と、古い薬を調合した。フォンは、草司の目つきと、その落ち着き払った態度から、彼がただの薬屋ではないことを察した。
三日間の静養と草司の治療の結果、フォンの傷は幾分か快方へと向かった。その間、都の噂は光悦卿の「失踪」と「王城の騒動」一色だ。
四日目の夜、フォンは巻物の断片を広げ、草司に尋ねた。
「光悦卿は、なぜこの血脈をこれほど恐れていたのか。そして、この巻物の残りを、他に誰が狙っている?」
草司は煎じ薬を差し出しながら、冷たい目でフォンを見た。「光悦卿は、**黒縄会**の幹部の一人に過ぎん。彼らは、古来より続く、闇の結社だ。王城の儀式を阻止された今、黒縄会は必ず貴様を追う。貴様の持っている巻物には、奴らの野望の根幹が記されているからだ」
「黒縄会…」
草司は続けた。「巻物が不完全だと知れば、奴らは必ず、光悦卿が残した記録、あるいは**『祖の巻物の別の欠片』**を探すだろう。都には、まだ奴らの隠れ家と研究施設が残っている」
フォンは激しい頭痛が再発するのを感じた。光悦卿の死は、一つの戦いの終わりでしかなかった。彼は今、単なる氏族の呪いを背負った鬼狩りではなく、都の闇を支配する巨大な結社に狙われる、唯一の継承者となったのだ。
「奴らの隠れ家はどこだ」
「焦るな。貴様の体は、まだ戦いに耐えられん」草司は静かに言った。「しかし、貴様は私に大金を払った。情報を提供しよう。黒縄会の次なる目標は、光悦卿の私邸に残された、研究資料だ。奴らは、血の制御術に関する巻物の残りの部分を、そこで探すだろう」
フォンは巻物の断片を握りしめた。彼の旅の目的は変わった。もはや防御ではない。氏族の過去と、己の未来を守るために、攻めに転じる時だ。
「草司。世話になった。俺は、王城から逃れたばかりの、血を纏う逃亡者だ。次は、奴らの研究施設へ行く」
フォンは、夜の闇に再び紛れ、光悦卿の残した闇の痕跡を追うため、動き始めた。彼の目には、悲感ではなく、明確な復讐の炎が宿っていた。




