時計台の天女
早乙女饋堂という作家がいる。
筆名以外は男女の別も明かさない、いわゆる覆面作家。もちろん公にされていないだけで住所や連絡先、性別や本名などは内々に把握している。そうでなければ、打ち合わせや原稿のやり取り、原稿料の振り込みなどに困ってしまう。
東京都M市内に宝來書房という出版社がある。数ある零細企業の一つに過ぎないが、なぜか早乙女饋堂は宝來書房としか仕事をしない。まれに宝來書房を通して他社と仕事をすることもあるが、五十年近い筆歴を通じても片手で数えられるほどしか例がない。僕は、このごく小さな出版社に勤め、奇妙な作家先生を担当する、編集者だった。
早乙女饋堂は奇想の作家だ。主にSFや怪奇、ホラーや幻想などのジャンルに当てはまる小説を書くのだが、〝奇想〟という言葉が最もふさわしいだろうと僕は思う。書かないものがあるとすれば、官能や恋愛小説か。要素として盛り込むことはあっても、主題として取り組んだものは一作もなかった。単に好みの問題だろう。先生ほどの筆力であれば、どんなジャンルでも奇想天外な物語を読ませてくれるはずだから。しかし、興味本位で性に合わない企画を依頼しても、良い結果になるとはまったく思えない。
宝來書房の出版企画はそもそも、神崎社長兼編集長の趣味趣向でほぼ決まるのだが、早乙女饋堂の仕事に限ってはなんの注文もつけなかった。早乙女先生には自由に書いて頂き、それを取りまとめるだけで本にしている。上がってきた原稿を校正・校閲するにしても、赤入れされたゲラをほとんど目にしたことがない。それでも、まったくハズレが無いのだ。出版すれば必ず売れるし、読者は増えても、離れることがなかった。だから僕など担当編集者などとは名ばかりで、ただの連絡係に過ぎないのだ。しかし、不満はない。何しろあの早乙女饋堂と電話越しとはいえ話ができる立場を得ているのだ。最初に作品を読めるという、一読者として最高の幸せにも預かれるのだから、不満など持ちようはずもない。
そんな先生に、僕は初めて直接お会いする機会を、突然に得た。梅雨であるのに東京よりも東北や北海道で雨が多いという、夏至の日が近い六月中旬のことだ。
「久しぶりに長編小説を書き下ろしたいと早乙女さんが言うのでね。冴島君、ちょいと北海道まで飛んでくれないか」
書類とゲラが積まれた編集机の谷間から、神崎編集長が僕に出張を命じたのだ。
「先生のご自宅に、直接お伺いするということですか……僕が?」
急な出張命令ではなく、早乙女饋堂に会える機会を唐突に得たことに戸惑った。
「君しかおらんだろう、担当編集なんだぞ」
「いえ、違うんです。驚いてしまって……あの、お土産とか、何か持参したほうがいいですよね?」
僕の質問に、編集長は僕の顔をしばらく見ることで答えた。値踏みでもしているようだった。やがておもむろに、こう言った。
「仕事道具だけで構わん。君のような美青年に逢えれば、それで喜んでくれるさ」
「はあ……」
僕の生返事には取り合わず、編集長は「あとは任せた」と出張の日程だけを告げて仕事に戻ってしまった。土産代わりに僕がいればそれで喜ぶ……なんだか妙に引っかかる。どういう意味なのだろう? まさか早乙女先生は男色なのか――いや、僕は異性愛者だ。いくら敬愛する早乙女饋堂が相手とはいえ、零細企業の業績向上のために人身御供になるのはさすがに御免なのだが……。
とにかく、このようないきさつで、僕は早乙女先生が居を構える北海道S市の郊外まで、東京から足を延ばしていた。今日は今年の夏至の日、六月二一日。数日来の雨は止み、薄曇りの空の下にはときおり寒気すら感じる風が吹いていた。
S市で借りたレンタカーを朝から転がして辿り着いた場所は、良く言って野中の一軒家、正直に言えばちょっとした秘境のような土地だった。だだ広い緑の平野に忽然と森が存在し、その際に教会に似た奇妙な家屋が建っていた。早乙女饋堂先生のご自宅である。
本人のみでなく先生の住まいも風変わりであるとは聞いていたが、目の当たりにしては納得するほかない。先生の家は、時計台なのだ。正しくは、時計台を備えた小さな元教会を住まいにしていた。明治期に建てられたお雇い外国人向けのカトリック教会が戦後の昭和まで残っていて、しかし信徒はとうに絶えていたから、物好きな金持ちが一帯の土地を買い取り、教会を改築して別荘にしたという。それをさらに、改築主本人と知人であった早乙女先生が譲り受けた……との謂れを聞いた。
時計台はどうやら、時を告げることを止めてだいぶ長いらしい。あと一分で正午を示すあたりで長針が止まっていた。丁度今は昼前であるから、この時計台は生きているのではないかと勘違いしそうになるが、一分待っても針は止まったままだ。人を寄せ付けない先生のことだから、時計の調整や修理をする職人などを頼まないのかもしれない。木造の白い壁は塗装があちこち剥げており、塗り直したにしてもだいぶ年月を経ているようで、蔦も壁面によく茂っていた。建物の周りには生垣の囲いがあるものの、見える範囲には庭らしい庭も造られておらず、雑草や夏草が伸び放題になっている。
「こんなところで、よく年寄りが独りで暮らしていけるものだな……」と思わず口に出てしまう。今どきは通販で配達かもな――などと思いながら呼び鈴を探してみたが、それらしきものは見当たらない。ならば直接入って声をかけようかと思案し、しばらく教会然とした家の影を眺めていると、錆びた金属が擦れる音が頭上で鳴った。丸い大時計の下に据えられた小窓が開き、誰かが声を掛けてきた。
「君かね。正面から入って、ここまで上がってきたまえ」
皴枯れた老人のものには違いないが、まだ壮健であることを感じさせる声音だ。電話で聞く早乙女先生の声で間違いない。すぐに閉まった小窓には一瞬だけ顔らしきものが見えたが、暗くて目ばかりが目立っていた。なぜか、夜中に獲物を求めて彷徨う野良犬にでも出くわしたような気分になり、背筋に冷たいものが一筋流れた。
元教会の正面扉は両開きで、見かけによらず思いのほか軽い。一階は広い聖堂であったろうが、改築によって幾つかの部屋に間仕切りしてあるらしい。先代の家主が改築した際に床を上げたのだろう。こじんまりとした玄関には三和土がある。先生のものらしき履物が何足か置かれ、上り框のそばにはスリッパが一足だけ揃えてあった。玄関の先は木製の扉と壁で仕切られ、扉の奥はおそらく応接室か何かだ。ならば、そこで仕事の打ち合わせをすればよいのではないのか。しかし先生は「上がってきたまえ」と言ったのだ。
スリッパに履き替えながら階段はどこだろうかと辺りを見渡すと、左右に通路があるのが見てとれた。足を進めて角から覗き込んだ先は、二階への階段となっている。右側しか確認しなかったが、おそらく左側も同じ左右対称の作りだろう。薄暗く、一段一段が深い階段は、勾配がきつく奥行きも狭い。手すりがあるにもかかわらず、酷く不安定で歩きにくかった。一歩登るごとに、腐りかけた床板を踏み抜くのではないかと肝が冷える。湿った軋みが響くのは、ホラー映画さながらだ。
二階は昔、一階からの吹き抜けであったようだが、ここも間仕切りの壁と扉が据えられていた。一階の天井になるよう床が張られて、全て塞がれているのだろう。先ほど先生が声を掛けてきたのは時計台の下あたりだから、今の僕は正面玄関とはちょうど反対の位置にいることになる。おそらく目の前にある扉の向こうが、先生の書斎か何かになっているはずだ。ならば、僕が立つ足元あたりの一階は、かつて祭壇があった場所ではないのか。足の下に祈りの場と信仰のシンボルがある……そう思うと、妙に罰当たりな気分になってくる。気づかないうちに踏み絵を強いられていたような心持ちだ。胸のあたりがすっと縮まり、そこだけ体温が下がるように感じられた。
「失礼します……」と声を掛け、扉を開けた。我ながら情けなくなるほど、か細い声が洩れていた。扉の向こうで先生が独り書斎の安楽椅子に背を預け、僕を待ち構えていると想像しただけで、なぜか緊張が込みあげる。憧れの作家に対面できる高揚感だけではない。触れてはいけない秘密に近づいているような、無知なままに冒涜を犯しつつある予感――そんな感覚が、胸を冷たく縛るようだった。
扉の向うはしかし、広々とした書斎ではなかった。目の前に現れたのは、峨々たる蔵書の壁だった。天井までそびえる書棚は層を成して左右に連なり、床には様々な書物が積み重なって奇岩石柱のように林立し、通路の隙間を埋めている。うっかり触れると蔵書が雪崩を打って崩れ、僕の体を押し潰すのではないかと不安になるほど圧倒された。そんな気持ちを、高窓から差し込む陽光が救ってくれる。蔵書部屋は、教会建築当時のステンドグラスを活かしたと見える内装で、とりどりに輝く色彩豊かな光が室内を照らしていた。書物の山々を照らす幻想の光は、早乙女饋堂の作品世界そのものを象徴するかのようでもある。
それにしても二階がこの様子では、一階も書物で溢れているのではなかろうか。先生の小説が醸す博覧強記ぶりは、この豊富な本の数々が支えているのではないかと思えてくる。客をもてなす部屋など、どこにもないのかもしれない。人を呼ぶにも書斎が唯一で、先生の人となりを想像すればそれが自然だろうと、僕は考えを改めた。
この本棚の隙間をどう進めばよいものかとしばし思案をしていると、またしても僕に歩みを促す先生の声が、蔵書の奥から聞こえてきた。
「待ちかねているのだがね。君、老い先の短い年寄りを待たせるもんじゃあない」
冗談めかした口調だが、言葉の陰に有無を言わせぬ重みがある。電話で話すときにも感じる重みだ。受話器の向こうから耳を掴んでくるような、奇妙なプレッシャーが先生の声にはあった。
書棚同士の隙間は通路と呼ぶにはあまりに狭く、前を向いたまま歩くのは難しい。岩の割れ目に身体をねじ込むようなつもりで、本棚を舐めるみたいにしながら横向きで声が聞こえたほうへと進んでゆく。それにしてもこの書棚では、いざ資料として本を探そうにも体の動かしようが無いのではないかと不思議に思える。それとも蔵書の内容など、すべて頭に入っているのだろうか。
降り積もった埃で咳き込みそうになるのを我慢し続ける窮屈な洞窟探検行にも、ようやく終わりが訪れた。とはいえ、新鮮な空気にありつくというにはほど遠い。転げるように出でたのは、今度こそ書斎と思しき小空間だ。窓の閉め切られた六畳に欠ける程度の小部屋で、目の先には先生の仕事机があった。執筆用と思われるパソコンやキーボードなどの機材類が置かれ、乱雑に重ねてメモなどが広げられている。机の奥では背を向けた背高の椅子が揺れていた。先ほど先生が顔を出したらしい小窓も見える。時計台があるのは、さらにこの上だろう。左手にはどこか別の部屋へ通じるらしい小さな片開きの扉がある。時計台の機械室に通じる扉かもしれない。壁際にも小さな書棚がいくつか備えてある。そして最後に目にしたものが――不可思議だった。
白いリネンを掛けられたシングルベッドがあるのだ。仮眠用のものかと思われたが、ベッドの上は誰か人が寝ているかのように白布が細長く盛り上がっている。緩やかに隆起し、くびれてへこみ、またふくよかな丸みを描く布の影は、そこに女性の身体が存在するかのように主張する。だが、命あるモノの気配がまったく感じられない。等身大の人形でも寝かせているのだろうか。もしや先生、何か特殊な趣味でもお持ちなのか……独り身であることは存じ上げているが――
「私の書斎の検分は、済んだかね?」
ふいに声が掛かる。背高の椅子が音もなく回った。背後の小窓から差し込む光の中に、椅子に背を預けた人影が浮かび上がる。単衣姿の老男性。部屋の明暗に目が慣れてきて、老人の姿がはっきりと目に見えてきた。肩より伸びた白髪はざんばらで、瘦せこけた頬の上には落ち窪んだ眼孔が穿たれている。「狂人」との言葉が脳裏に浮かぶ。闇の最奥で光る野犬のような目が僕の姿を見据えているのが分かった。僕はついに、早乙女饋堂その人と対面し……畏敬の念が、畏怖に変わるのを感じていた。
知らぬ間に震えていた手を上衣の内ポケットに突っ込み、名刺入れを取り出す。革のケースを開ける手は、すっかり汗ばんでいた。
「お初にお目にかかります。宝來書房の冴島――」と名刺を渡そうとしたところを、先生に手を振られて遮られた。「座って……楽にしたまえ」と言われ、仕事机の傍らに在るアンティークの木製椅子へ促される。有無を言わせない空気に気圧されて、黙って言われたとおりにし、椅子に腰かけた。
僕は仕事で来ただけだ、さっさと打ち合わせを済ませて辞去しよう……出張前は直接の対面に高揚していたというのに、今の心は東京への飛行機に乗り込むことを切望していた。何か良くないことが起きるような気がしてならない。しかし、なぜだ――僕は早乙女先生の声に縛られている。僕の意思は、身体ごと固く抑え込まれてしまったらしい。
「君に来てもらったのはね、どうしても見せたい……会ってもらいたい人がいてね」
杖を頼りに早乙女先生は立ち上がり、部屋の片隅にあるベッドへと歩きながら僕に言う。仕事の話なぞどうでもよい、もっと大切なことがある――そんな含みのある重さを言葉の陰に感じた。
「見たまえ、彼女を。君に引き合わせたい、私の大切な人だ」
そう言って先生は、枯れ枝のような手でベッドの白いリネンを引き剥がしていく。衣擦れの音を伴い白布が床に落ちる。やはり寝床に横たわるのは、生きた人間ではないらしい。等身大の人物像だろうか。現れたのは、ふくよかなシルエットを持った女性の裸身、ブロンズの裸像――のように見えるのだが……。
「どうだね、美しかろう。彼女こそがこの教会の本尊なのだよ。教会であった頃には聖堂に祀っていたのだが、今は私と共にここにあるのだ」
愛おし気に、先生の指先が女性像の裸体の起伏を舐めてゆく。気のせいか、青銅色の肌に触れる指先が、柔らかい肉を押すように僅かに沈んで見えた。
「あの、ここはもともとカトリックの教会と聞いていますが、でもこれは――」
いったいなんだ? 聖母マリア像とは断じて異なる。シルエットは人間の女性に似てはいるが――額に浮く四対のコブは蜘蛛が複数持つ単眼のようだし、背中まで伸びていそうな頭髪らしきものは、髪の束というより触手と呼ぶのが相応しい。
「〝これ〟ではない。彼女は天女だ。私がお雇い外国人として米国から北海道に招かれた際に連れ立ったのだ。私の大切な女性でね。離れるわけにはいかなかった」
いや、待ってくれ。先生が連れてきた? お雇い外国人? いったい、どういう意味だ……目の前にいるこの老人は、日本人にしか見えない。朝鮮半島や中国出身の可能性もあるが、いずれにしろ極東アジアの黄色人種で間違いないだろう。しかも明治期に来日したのなら、優に百五十歳は超えているはず。なのに……やはり見て感じた通りに、先生は狂っているのだろうか――
「意味が分からないといった顔だな。皆そうだ。早乙女饋堂もそうだった」
遠い過去でも懐かしむようなそぶりをして、早乙女先生は自分のことを他人のように話している。そんなことは取るに足らない当たり前のことだと言いたげに何の説明もせず、先生は横たわる女性像について熱心に語り始めた。
「彼女はね、かつていづくかの天より舞い降りた、人とは違う異界の女だ。いつもはこうして眠っていて、まるで像のようだが、生きている。半世紀ほど時が過ぎると目覚めようとしてね。目覚めの刻が近づくほどに、身体はふくよかな丸みを帯びるのだ。新たな精気を宿して娘のように若返った玉の肌も魅惑的だが、目覚めを迎える直前の姿がたまらなく愛おしくてねえ――」
たしかに、ふくよかだ。丸みも帯びてはいる。正直、恵体と言うには度を越しているが、こうした体形を好む男性がいることを否定はしない。だが、あの肌の色はなんだ? 布をめくられたときはブロンズのように硬く見えたが、今は滑りを帯びて湿った艶を放っている。全身のところどころに、繁殖した黒カビのようなまだら模様が浮かび上がり、薄い皮膚の下で原生生物の群体の如くに蠢いていた。〝異界の女〟という点についてだけは、僕も先生に同意できる。こんなもの、地球の生物であるはずがない――不審を募らせる僕のことなど気にも留めず、先生は語り続けた。
「彼女と同衾するとね、さまざまな夢を見せてくれるのだよ。闇の彼方、宇宙の深淵、未だ人が到達叶わぬ異界の風景、そこに生きる名状しがたき形ある者たち……それらすべてが私の、インスピレーションの源泉なのだ」
同衾……こんな、化け物と、同衾?……おい、なんだ? 今この女、動かなかったか? 指先が痙攣したみたいに……なんて長い指なんだ。爪も黒々としてやけに太い。黒曜石を嵌め込んだみたいな、まるで蹄だ。おまけに指の関節がふたつは多いぞ……。
「しかし……」と、早乙女先生の言葉が詰まる。高揚した声色は幾分か落ち着きを取り戻したが、饒舌なことに変わりは無い。
「その夢がそろそろ、尽きようとしている。また、終わりの刻がくるのだ――」
老人は皴と骨を継ぎはぎしたような掌で天女の額を愛し気に撫でた。彼女の瞼が薄く開き始めたのが分かる。隙間からのぞく瞳に、暗い光が宿って見えた。瞼の隆起が筋肉の収縮を伴うように脈を打つ。額の四対八つの瘤も微細に震え、切れ込みのような隙間がうっすらと開く。やはりあれは、すべて眼なのだ。僕の姿をじっと見ている。見られている――いったい、何のために?
「君も時計台を見ただろう。動かぬように見える大時計を。ここの時計は特別でね。四八年かけて十二時間分を一巡する。長針が一目盛り進むのに、二四日かかる計算だ――感じるかね? 機械室から伝わる歯車の軋みを。今日がちょうど目覚めまでの最後の一日、あと少しで……四八年ぶりの鐘が鳴る……」
早乙女先生はベッドの傍らから離れ、自分の椅子に腰かけた。皴の深い目を閉じて、大きく垂れ下がった耳たぶを持つ耳をそばだてる仕草をする。音を待っているのだ。目覚めの音を。鐘が鳴るのを。
書斎の空気が張りつめる。ベッドからは、眠りの浅い者が漏らす呻きに似た音が断続的に聞こえてくる。あれは天女の声なのか。それとも、肉の震えか。頭上からキリキリと何かを絞るような音が聞こえてきた。歯車が噛み合って擦れる音、教会鐘に繋がる縄を引く音――静まり返った書斎の中では、どんな些細な音も明瞭に響く。僕の、鼓動も含めて。
ただ座っているだけなのに心拍が上がった。胸の内側から肋骨を叩かれた。逃げなくちゃいけない、今すぐにここから立ち去るべきだ……都会暮らしの自分に残されたなけなしの本能が告げていた。そうと分かっているのに、体を動かすことがまったくできない。気持ちだけが逸り、冷たい汗が全身から噴き出してきた。
早乙女先生の息づかいも荒い。だが、その緊張は僕の抱く未知の危険へのそれとは違う。あれは歓喜だ。新たな快楽と夢見る官能の予感に打ち震えているのだ。だが、いったいどうやって? 先生は八十歳をとうに超えている。これから半世紀近く、いったいどうやって――いや、まさか……。
自分に訪れるかもしれない結末に思いを巡らせ、どうにかこの場を逃れようと、言うことを聞かない体を叱咤しようとした、そのとき。留め金が外れるような、重たい打音がひとつ聞こえた。そして――
鐘が、鳴った。
天女の体が、大きく震える。
鐘が、鳴った。
天女の膝がわなないた。
鐘が鳴った。
腕に力をこめ上体を起こし始めた。
鐘が鳴った。
体を捻り、天女はベッドから脚をおろしながら、僕を見据えた。
鐘が――
立ち上がった天女が、僕に向って歩いてくる……くそっ、何が天女だ。女の形をしているというだけの、汚濁した肉塊ではないか。
だが、どうしたことだろう。白目のない瞳に射竦められ、僕は指先ひとつ思うように動かせない。それどころか、気がつけば椅子から身を乗り出し、喉を逸らして、彼女を迎え入れようとしていたのだ。違う、そうじゃない。今すぐ背を向けて、僕は逃げ出すべきなのだ。なのに全身が痺れて強張り、ただ彼女を待つことしか出来ないでいる。
老人の声だけが、僕の耳に意味のある音として届けられる。天女の口らしき部分は十字に裂け、その深い空洞から発せられるのは、およそ人の発声器官では発音不可能な、奇怪で悍ましく冒涜的な何かだった。歓びに震える声で、早乙女饋堂が僕に語りかけてくる。
「さあ、食事の時間だ。四八年ぶりのね。神崎君はなかなか目が効く男だ。君の魂なら、きっと天女も満足してくれる。また、豊かな夢をたくさん私に見せてくれる」
もう、天女の肌が目の前にあった。視界が青黒く染まっていく。冷たい女の皮膚が僕の肌を包みこむ。抱かれているのだ。異界の女に、僕は抱きしめられている。なんて心地よいのだろう。今まで情を交わした女の数など覚えていないが、これほど甘美な肉体の感触を、僕は初めて味わっている。抵抗して、今すぐここから逃げ出す? 馬鹿な、そんな馬鹿げた話があるものか。これ以上の至福が一体、この世のどこにあるというのだ――
「腹を満たすと再び彼女は眠りにつく。また、四八年の時を眠る。君の、君の魂はそのための、贄なのだよ……と、おや? もう私の言葉など届かんか――」
§
いつしか、時計台の鐘の音は鳴り止んでいた。大時計はふたたび、四八年先までの刻を数え始めていた。アンティークの木製椅子には、先ほどまで冴島と呼ばれていた青年の肉体が、座った形で置かれたままになっている。白いベッドの上には、透きとおるほどに白い肌をした幼げな少女がひとり、生まれたままの姿で横たわっていた。生気に満ちた少女の首筋はほんのりと朱を帯びており、仰向けになってなお張りを保った乳房は椀を伏せたように上を向き、突端には桜色の蕾が膨らんでいる。背中まで伸びる髪は黒く艶めき、静かに眠る少女の吐息は甘く、あえかな花園の奥からは生娘の甘酸っぱい香りが立ち昇っていた。まさに天女の名にふさわしい姿であった。
「おやすみ、私の愛しい人よ……」
そう呟いて早乙女饋堂は天女にリネンをやさしく掛けてやり、満足げにしてベッドに背を向けた。笑うように震える膝にどうにか力を込めて、亀の歩みほどにゆっくりと、椅子に置かれた冴島青年の元まで歩み寄った。力の抜けた青年の腕をひじ掛けからどかし、自分はひじ掛けに手をついて自らの体を支えて腰を落とす。老人は青年の唇に、乾いてささくれた己の唇を近づけ、重ねた。そうして愛おし気に唇を吸ううちに、老人の体はふいに力を失い、肩から床に崩れ落ちて動かなくなった。
かわりに、冴島青年が体を起こす。しっかりと両眼を開き、力強く椅子から立ち上がると、痩せた肉の塊と化した早乙女饋堂を見下ろし、じっと眺めた。生気に溢れるその眼差しは、野犬に似て獰猛であった。しばらくして青年は、両手を上げて手のひらを顔の前にかざした。指先を開いて閉じるを繰り返す。固く拳を握るなどして、若い力を確かめた。
「よし、だいぶ馴染んできたな」そう呟く青年の声は若者のものに違いないのに、長い年月を生き抜いてきた老獪な陰を潜ませる響きを持ち合わせていた。
「ほう……なかなか面白い記憶を持った男だね。けっこうなジゴロぶりじゃあないか。なら次は、官能小説でも書いてみようか。しかし、ジゴロ……ジゴロ、いや、言葉が古いか。もっと今どきの青年らしく……」
やがて満足げにして冴島青年は、早乙女饋堂であったものを肩に担ぎ、部屋の隅にある小さな扉を開けて、書斎から出て行った。
〈了〉