第二部序章 Radio
「はあ、はあ、はあ……」
鼓動が早い。生ぬるい風が、ひどくべとついた体にまとわりついて、体温は上昇している。
3月の夜はまだ寒いが、この上昇した体温を冷ますのには丁度よかった。地元川越は、夜になると人通りがめっきり少なくなる街だ。走りやすいように人気の少ない道を選んでいる。静かな住宅地を抜けて、橋を渡り、川に沿うようにして走っている。
もう7キロは走っただろうか。普段なら7キロくらい、適度な負荷をかける程度の走り込みだが、今は手足には各5キロの負荷をかけるパワーリスト、アンクルが付けられている。さっきからこの負荷が効き始めている。体が勝手に、足をすり足状に運んで、楽をしたがっているのがわかる。
おまけにここ一週間、ろくに運動しなかった分のツケは、確実に体に残っている。
『韓国の右サイド、イ・ミンス。今日日本は、この選手に右サイドを大きく侵略されています。さあ、仕掛けた! ディフェンダー、抜かれた! センタリング! おっと! ここに戻っていました、背番号6番のボランチ、エンドウ! ペナルティエリアでフォワードを背にして仕事をさせません! キーパーがクロスボールをキャッチ! さあここから日本のカウンターだ!』
耳に突っ込んだイヤホンから、サッカーの実況中継が聞こえている。
野球帽を被り直し、腕時計を見る。走りはじめてから40分が経っていた。横断歩道を渡り、左手に目標地点の公園が、川の対岸に見えていた。
僕は公園につながる橋を渡り、足を引きずるように公園に入る。幼稚園児用のジャングルジムや、ころっと丸い、パンダや熊のオブジェのある、小さな公園だった。
僕はその遊具のひとつのブランコに腰を下ろした。
荒い息を整えつつ、僕は首に巻いていたスポーツタオルで汗を拭く。腕時計のタイマーを作動。サッカーのハーフタイムと同じ15分で体力を回復させる。
『あっと、ここでもいいディフェンスを見せますボランチのエンドウ! センターサークル付近でボールを取られましたが、ファールを覚悟してのスライディングでペナルティエリアギリギリで韓国の攻撃を防ぎました! 起き上がってすぐに自ら仕掛けて、おっとロングボール! あっとフォワードの11番ヒラヤマが走り出している! いいトラップだ! オフサイドはない! ディフェンダーが体を入れてくるが、高速ドリブル、シュートッ! ――あぁ、キーパーのファインセーブに阻まれました。依然試合は2‐2、ヒラヤマの2ゴールも、日本は韓国に苦戦を強いられています』
ブランコに深く腰掛け、ラジオを聴いていた。
ふと、頬の横に冷たい感覚が走った。
僕は顔を上げる。
野球帽のひさしの先に、黒い髪に、優しげな二重の瞳、小柄で華奢な体。
マツオカ・シオリが立っていた。
僕の頬に、持っているスポーツドリンクのペットボトルを当てたのだった。
僕はふっと息をついて顔をしかめる。
「ずっと追いかけてきたのか?」
そう言って、スポーツドリンクを手に取り、口に流し込んだ。美味かった。
彼女は僕の横のブランコに腰を下ろした。
「きっとテレビで見ていたら、あなたはきっと、じっとしていられないと思って」
「……」
「まさかこの試合中に、あなたが家を出るとは思わなかったんでしょうね。あなたを追ってくる人、誰もいなかったわ」
わかっている。彼女は、僕の立場も、自分の立場も。
「――君をあまり夜道に出したくないんだけどな。ご両親に心配をかけるだろ」
「試合、今どうなってる?」
彼女は自分の耳を指差す。
「……」
僕は黙って自分のジャージのポケットに入っていたポケットラジオから、イヤホンを抜いた。音が夜の公園に漏れる。
『しかし今日は、6番のエンドウが積極的な守備が、攻撃の起点となっていますね』
『そうですねぇ。だけどエンドウくんは基本ボールを前に運ぶ選手ではないですからねぇ。せっかくヒラヤマくんといういいフォワードがいるのに、中盤がそれを生かしきれていませんねぇ。中盤であれだけボールを取っているのに、攻めに回れませんねぇ』
『確かに今までの日本の得点は、ほとんどヒラヤマの個人技でしたが、やはり、『あの選手』がいないことが大きいでしょうか』
『そうですねぇ、そう考えると、『あの選手』は二人の力をより引き出していたんでしょうねぇ。彼のパスはヒラヤマくんを最大限に生かすし、彼の守備はエンドウくんの負担を軽くして、攻撃力も引き出していたと評価せざるを得ませんね。何より彼のドリブルは、それだけでチームを攻撃的に勢いづけますから』
「……」
「ふふ、いきなり言われてるね」
シオリは皮肉っぽくはにかんだ。
「――この大会が始まってから、針の筵とはこのことだよ。まったく……」
『とにかく、現在日本は、ヒラヤマ、エンドウの高校生コンビが奮闘しています。既に韓国と日本は、ここまで勝ち点10で並び、決勝リーグ出場を両国ともに決めております。今日は絶対に負けられない、首位攻防戦!』
「試合はこのまま進みそうだな。ジュンイチも頑張っているが、この試合は普段の高校サッカーより、試合時間が10分長い。もう体力的に限界だろう。向こうは気温35度、湿度80%らしいからな」
「でもいい試合だよね。ヒラヤマくんも2ゴールも決めてるし」
「ああ、もしかしたらこの活躍で、ユータの海外進出が早まるかもしれないな」
「……」
ユータとジュンイチは今、サウジアラビアにいる。
3ヶ月前、僕達埼玉高校サッカー部は、正月の高校サッカーの全国大会で準優勝し、二人は大会ベストイレブン、ユータはそれに加えて得点王にも選ばれ、一大会最多ゴール記録を余裕で更新、そのままU‐20日本代表に招集され、今、その世代の世界大会アジア予選が行われている。いわばこの世代のワールドカップ予選である。
「ケースケくんも行けばよかったのに。二人がいなくて、今ちょっと寂しいんでしょ?」
「……」
僕は視線を落とす。
そして今僕は、日本で渦中の人となっている。
僕は全国大会で8ゴール7アシストを記録、ベストイレブンは勿論、大会最優秀選手に選ばれた。
当然僕のところにも代表の招集がかかったが、僕は学業優先を理由にそれを辞退。
埼玉高校自体が僕達の活躍で、今年早々彗星のように全国で名を知られる学校になった直後の、僕の辞退理由に世間が賛否両論を浴びせている。
そんな僕をよそに、若い日本代表はライバル韓国に苦戦している。このまま負けてしまえば、僕のところにも非難が集中するのはまず確実だ。
「――寂しいかどうかはともかく、あいつらって娯楽がないのは退屈だな」
僕は何気なく冗談めかしてそう言った。
「素直でよろしい」
シオリはそう言って、舌を出す。
「……」
お互いが気丈に振舞っていたけれど……
誰も見ていないことで、感情が静かに爆発する。
自分達の寂しさを、あの二人がいないことにすげかえていたけれど。
それは、僕達がお互い、寂しいと、相手に素直に言うのが照れ臭くて……
そんな、まだ未完成な二人の関係が、気持ちをこじれさせる。
「あと……それに……」
それから僕は、野球帽で視線を隠したまま、少し痰の絡んだ喉に咳払いをした。
「君とも会えなかったから、すごく退屈だったよ」
「……」
シオリは黙って顔を赤らめる。
「あの――素直でよろしい、って、言うところなんだけど……」
「あ、ああ――うん……」
「……」
お互い上がってしまって、会話が続かなくなる。
久しぶりに会う彼女は、とても小さく見えた。
埋めきれない時間や距離が、僕をとてつもなく衝動的にさせた。
僕はブランコから立ち上がる。そして、野球帽を取る。
彼女の許へ歩を進める。
「……」
シオリはまるで、ドキドキを抑えるように、小さな両手を胸に当てている。
僕は彼女の意思も介さずに、強引に、強く抱きしめた。
「……」
シオリの体は、だらりとしていたけれど、体が少し硬直していた。
「――ごめん。汗臭いかな」
まだ汗も乾ききっていないまま、彼女を抱きしめたまま、言った。
「――う、ううん、大丈夫……」
そう言った。
彼女は全ての力を僕に預けたまま、立ち尽くす。
「――少し、痩せた?」
抱きしめたまま、僕は胸の中の彼女に聞く。
「――わからない……何で?」
シオリは胸の中で、僕に聞き返す。
「いや……前、ユータが、「女の子は『痩せた?』って言うと、喜んでくれる」って言ってたから。少しでも、喜んでくれるかな、と、思って」
「……」
「ごめん。こんな急にだったから、何も君にあげられるものがなくて……随分合えなかったから、少しでも喜ばせたくて」
「……もう」
彼女の、少しふてくされるような声が、かすかに聞こえた。
そして、彼女も僕の背中に両腕を回し、僕の体を包み込む。
「――あなたは、また背が伸びたわ」
そう言った。
「こうした時、あなたの心臓の音が、また近くなったから……」
「……」
あとはもう、言葉はいらなかった。
お互いが、お互いの鼓動を聞いて、すぐに心の場所を見つけ出す。
そして、半人前の心を互いに補完する。
それだけを、求めていた。
「――お帰りなさい」
彼女は僕の胸の中で、それだけ言った。
僕も彼女の小さな体を、強く抱きしめる。
「――ただいま」
それだけ言った。
ラジオが、韓国に決勝ゴールを決められた日本の敗戦を伝えていた。