Another story ~ 1-5
俺の家に合格通知が届いた時、両親は顎が外れるんじゃないかというくらい、口をぽかんと開けて驚いた。何かの詐欺だと思って、埼玉高校に確認の電話までしたくらいだった。それで確認が終わった次の瞬間大爆笑だった。
俺はもう、喜ぶとか、それ以前に、テストの日に出会った、あの少年の事を考えていた。
マジで合格していた……
てことは、あいつもまず合格だろう。
あいつ、俺のこと覚えてるのかな。人を人とも見ないような冷たい目をしてたけど。
何であんな冷たい目に惹かれたんだろう。
あの「受け取ってみろよ」とでも言うようなパスを出すストイックさだろうか。だけどあのパスには、俺が受け取りやすいような細工もしてあった。冷たさと暖かさが共存したようなパスだった。
――そんな事を考えていたけれど。
両親はその日、赤飯まで炊いて祝賀会をやった。今更カンニングで入ったとは言えないようなノリである。これは墓の下まで持っていかなければ……
だけど、この日から、ナミとの連絡が途絶えた。
別れを切り出されたのは、その3日後だった。
夕方に呼び出され、いつもの公園で……
ナミは泣いていた。
「あなたが埼玉高校に受かって、私が落ちた。その嫉妬であなたに嫌なところを見せるのが恐い。嫌われるのが恐い」
彼女はそう言った。
「……」
何も言ってやれなかった。
俺は彼女が好きだ。
この俺が、半年以上も一人の人と、こうして仲良くやってくれたことなんてなかった。受験中、お互い励ましあった日々、どれだけ心強かったか。
だからこそ……
彼女の求めた高校の合格を、カンニングという行為で掴んだ俺の醜さが耐え切れなくて。
俺も彼女とのこの先の未来に限界を感じてしまった。
そして、俺達の道は完全に途切れた。
この先、彼女以上の女性は現れるだろうか。そんな諦めも抱きつつ。
もう一つ結論を出さなければならなかった。
この時点で俺のサッカー推薦は、高校が43校、ユースチームが11チームとなっていた。
「まさかお前が埼玉高校に受かるなんて、思っていなかったけれど……」
「ホント、喜んでいる場合じゃなかったわね」
「……」
両親も浮かれ気分から冷めて、真剣に将来を話し合う段階に入った。
「お前は埼玉高校に入ったんだ。どの道を選ぼうと後悔はないと思う。お前の考えを俺達は尊重するから。何でも言ってくれ」
オヤジはこう言った。本当、俺は親には恵まれていると思う。
「……」
不思議だな。もっと悩むものかと思っていた。
「俺、埼玉高校に行ってみたい」
そう告げた。
理由は二つだけ。
一つは、あの少年の存在だ。
まるでホステスにはまったかのようだが、少年の、あの冷たいような、温かいような瞳が、どうしても忘れられなかった。
あの少年と一度話してみたい。何を考えているか、知りたいと思った。
サッカーじゃなくてもいい。俺はあいつから、パスをもらえるようになりたい。
あの少年が俺にくれたパスが、忘れられなかったんだ。
だけど……
あいつの事を考えているうちに、自分に足りないものがわかった。
「俺、わかったんだよ。もっと人付き合いとか、仲間を作るとか、そういう事をもっと勉強してからじゃないと、サッカーをやっていても、いつかダメになる。埼玉高校には、友達になりたいって思わせる奴がほんのちょっとだけど、いたんだ。俺、今まで男友達を進んで作ろうと思ったこと、なかった。だけど今回はマジなんだ。俺が今ぶつからなきゃいけないのは、サッカーよりも、人なんだって、思ったんだ」
そう、今ならわかる。
俺はあいつからパスをもらえるようになりたい。そう思ったのは初めてだ。
だけど――今の自分では無理だ、ということもわかった。
俺は今まで、人をわかる努力をしていなかった。
パスをもらう努力をしたことがない。
それはサッカー選手として――人間としての俺の、最大で致命的な弱点だとわかった。
友達になりたい、と思う奴がいても、今の俺じゃ、友達にはなれない。
きっと俺も、あいつと同じ、サッカーをやる時に、味方を味方と思わないような、虚脱な目をしていたんだと思う。
そんな目が、初めて自分に向けられた時、初めて俺を見る周りの目が、わかった気がする。
あぁ、パスをやる気もないって目を受けるのは、こんなにも辛いものなんだな。
中学の時、みんなが俺に萎縮して出してくれたパスだって、ありがたいものだったんじゃないか。
このままじゃ俺、やがてあんなパスさえ出してもらえなくなる。
そしたら、俺は――ひとりだ。
俺の生きる意味だと思った、サッカーさえも奪われる。
あの少年の、がらんどうのガラス細工みたいな目は、俺にそれを見せてくれた。
俺はあいつに「味方」だと思われたい。
あいつにもう二度と、あんな目を向けさせてやるもんか。
そんな負けん気が沸いてきたんだ。
あいつが気まぐれで一度出したパスは、偶然だったかもしれないけれど、俺の価値観も一気に変えてしまった。
まるで激しい恋のようだったんだ。
そして、もう一つの理由は、別れてくれたナミに報いるため。
彼女がいなければ、俺はこんな思いを知らなかった。
彼女は俺に、逃げない事を教えてくれた人だ。そして、チャンスをくれた人だ。
だから、ナミがくれたチャンスを、埼玉高校で形にしてみたい。
それが、惚れた女に対する唯一の報いだと思ったんだ。
そして俺は、埼玉高校の入学式に来ている。
あの少年の姿は見えない。まだどこにいるかわからない。
もしかしたら、あの少年のことだ。もっといい学校に行っているのかも知れない。
もしそうだとしたら、俺は今世紀最大の大馬鹿者だけど……
そんな事を考えていた。
「……」
この学校には、もうナミも、誰もいない。
俺は、一人で道を切り開くしかないんだ。
信頼し合い、俺にパスをくれる「仲間」を探すために。
「――新入生挨拶。新入生代表、マツオカ・シオリ」
「――はい」
入学式はお決まりの手順で進んだ。
新入生代表は女の名前だ。こういうの、入試トップがやるんだろう。俺はてっきり、天才を絵に描いたような、あの少年だと思っていた。カンニングで俺が受かったくらいだ。あの少年は、全科目満点だっておかしくないんだ。
だけど……
壇上に上がる少女に、会場中が嘆息した。
「え――ナミ?」
だけど俺の驚きは、まったく別のところにあった。
壇上で挨拶をする少女は、儚げだが、底光りする美しさが、凛とした気品さえ漂わせ、会場中を甘く爽やかな香りで包み込むような、そんな慈愛に満ちた少女だった。
その雰囲気が、ナミの持つ空気に似ていて――
小柄で華奢な感じも良く似ていて、一瞬見間違うほどだった。
だけど……
次の瞬間、俺の思いは、会場を包み込む嘆息の感情へと変質する。
ナミも美しい少女だったが、彼女の、その更に上をいく美しさに、心を奪われた。
誰も知っている人のいないこの高校に、希望を見出すには、最高の滑り出しだった。
この学校に、ナミと同じ空気を持った人は絶対にいる。それがわかっただけで、俺は希望が沸いてきたんだ。
そして、この感情は、この会場にいる俺だけじゃないだろう。
会場にいる多くの男が――彼女にこの時一目惚れしてしまったんだ。
次の日、入学式後、新入生の親睦を深めるためと言って、千葉の勝浦へオリエンテーション旅行があった。
旅行用の荷物を持って、体育館に集合……
バスに乗る前に、担任の点呼とか、煩わしいものがいっぱいあった。
おまけに、ここでも違和感……
周りの連中を見渡すと、受験の時に感じた違和感が蘇ってくる。
どいつもこいつも小柄でひょろひょろで、今までの人生、勉強しかしていません、といったような雰囲気の奴ばかりだった。とてもサッカーの話を出来そうな雰囲気などなく、皆、3年後の大学受験に早くも照準絞ってます、と言いたげな視線だった。
そして、俺の所属する1年E組は、担任を囲んで座った。
初めてクラスの連中の顔をしっかりと見たが……
やはりあの少年はいない。
はぁ、確かにクラスが一緒になるなんて、そんなことあったら奇跡だとは思うけどね。
だけど……
それとは別に、嬉しいことが。
新入生代表で、挨拶をしていた、あの美少女――名前はもう覚えている。マツオカ・シオリが同じクラスにいた。
彼女はクラスの女子に、代表を務めた事をいろいろ突っ込まれていて、いわゆるガールズトークに巻き込まれていた。控えめそうな顔のとおり、色々おだてられて、少し気恥ずかしそうに構えている様が、とても愛らしかった。
まあ、今のところ、同性の相手で手一杯で、ナンパとかがある気配はなさそうだな。
「――以上がこれからの予定だ。何か質問はあるか?」
「センセセンセー」
俺の隣で、間の抜けた声がした。
手を上げたのは、俺と同じくらいの大柄な男だった。
笑う度に八重歯を見せる、どんぐり眼に茶髪の髪をワックスできっちりセットして、もう顔が元々笑顔の形に出来上がっているかのように、自然な笑顔を見せる男だった。
「俺、このとおり体でかいんで、バスとか足がつかえて困るんですよ。何で、一番後ろに座らせてくれませんか?」
そう言った。
まあ、理由としては通っている。俺もそうだが、大柄な男にとっては、バスほど窮屈なものはない。座席に座っても、足がつかえて上手く座れない。血行が鈍ってエコノミー症候群に似た症状を併発させることもあるし、何より酔いも早く、眠れない。
「あぁ、まあそうだろうな。許可してやろう」
中学の時は、一番後ろの席を取ることで「え~」とか言う奴がいたが、この学校では一人もいなかった。そんなクラスの人気者タイプは、見渡す限り、あの大柄の男以外、誰もいなかったし、この旅行自体にも、あまり興味はなさそうだったから。
「へへっ、ラッキー」
その少年は、そう呟いた。
そして、俺の方を向いて、にかっと笑った。
「お前もその体じゃ、そんなクチだろ? 一緒に座ろうぜ」
「え……」
俺は困惑した。
今まで俺に、こんなフランクに話しかけてくるような男はいなかった。体もでかく、女の子に囲まれがちなせいで、男との交流自体、部活引退後、初めてだったのかもしれない。
「何だ何だ。旅は道連れ、ってやつだよ。どうせ参加するなら、こういうきっかけで仲良くなってもいいと思わないか?」
本当にフランクな奴だった。
「あぁ、まだ名乗ってなかったな」
その少年は一人で会話を進めた。
「俺はエンドウ・ジュンイチ。よろしくな、ヒラヤマ」
そう言って、座ったまま俺に会釈した。
「……」
――あれ? 何でこいつ、俺の名前を知ってるんだ?