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Satisfy

 別に今日がとびきりひどいわけじゃないけれど、いつだってリアクションが決まっている。僕は母親の肩を後ろから引っ張った。母親は血走った顔を僕に向ける。

「いい加減にしろ」

 僕は怒気を含んで言った。怒鳴ったって止まるわけじゃないことはわかっているから、エネルギー温存のために、静かな口調で。案の定、母はドアを叩く手を止めて、僕を睨む。

「五月蠅いんだよ。二十年も似たような言い合いばかりしやがって」

「ほっといてよ!」

 空いている手で僕の頬を張った。別に痛くはない。だけど、気分が悪くなった。

 この女も、ドアの向こうにいる婆も、自覚がない。だから、この喧嘩は解決に向かうことはない。

 僕がそれに気がついたのは最近だった。それまでは、家族のストレスを取り除くことが大切だと思っていたけれど、答えがそんな根本的なところにあるなんて。

 気がつくのが遅すぎた。今まで素直に話を訊き過ぎていた僕は、既に家族から、話を訊くのは当然、という観念を植え付けてしまったのだろう。それが未来の僕を、家族の掃き溜めに追いやると、幼い僕は気付きもせずに。

 僕は受身に徹しすぎた。怒鳴られても、殴られても耐えていたから、今でも皆、僕には躊躇なく手を出せる。そして僕は、絶望的な暴力を、昔の愚かさを思い知らされるように饗されるのだ。この痛みが、何度も僕に訴える。弱かった昔の自分への後悔を。

「犬かお前らは。20年もギャンギャン吼え続けやがって」

 それでも僕は諭す。せめて自分の論の絶対的な正しさだけは主張しておきたい。

「アンタ、私に指図するの? 一人涼しい顔して、何様のつもり?」

「……」

 僕は黙って母親をにらんでいた。自分の積もり積もった憎しみをぶつけるように。

 母親はそれを見てびびったのか、舌打ちをして、そそくさと退散した。

きっと祖母は、もう今日は部屋から出ないだろうから、母もすぐに部屋に戻った。これで今日、これ以上ひどくなることは当面免れそうだけど、明日になれば、何もかも忘れて、また同じようなことが起こる。

「アンタももう部屋から出るんじゃねえよ! 五月蠅いんだよ!」

 僕はドア越しに、祖母に向かって怒鳴った。恐らく祖母は、僕が止めてくれることを期待して、部屋に閉じこもったんだと思う。きっと、僕の性格を見越して、喧嘩をそのままにしておかないことを知っているから。自分の中で『需要と供給がマッチした』くらい思っているかもしれない。

 冗談じゃない。

 バイトまでのわずかな時間は、疲れた体を休めるつもりが、くだらない喧嘩を止めるだけで終わってしまった。ぶちまけられた消毒液を、雑巾で拭いていると、消毒液の匂いが、鼻を刺した。

 ――腐っていやがる。この『汚点』共のせいで、僕には平穏さえままならない。

 その後、部活帰りだったので、シャワーを浴び、僕は玄関に出る。玄関にあるスペースにある柵に、愛犬のリュートがいる。犬種はシェットランドシープドッグで、御歳3歳を迎える。

 元々この犬は、妹が飼いたいと言い出して、買った犬だった。妹は幼稚園の時から、犬が飼いたい、と言っていたからだ。しかし無責任な妹は、飼ってすぐ、面倒見に飽き、同時にあれだけ五月蠅く主張した、犬への愛情も失せたらしい。保健所に連れて行くのも、寝覚めが悪かったので、今では僕が、全ての面倒を見ている。

 妹はこうやって、色んな物を簡単に捨ててきた。物も、命も、全て塵芥のように。

 何様のつもりだろう? と、初めは思ったが、今ではこいつだけが、僕の家族だ。ユータ達と同様、こいつにも奇縁があったのだろう。

 こいつの世話をいつまでもしているのは、そういう縁を大事にしたいからなんだろう。こういう奇縁なんてのは、本当に貴重で、滅多に出会えるものじゃない。無機質な僕の生活の中で拾ったレアアイテムなのだ。下手な人間の出会いよりも、当たりだったと言える。

「リュート、行こう」

 僕は、リュートの頭を軽く撫で、つないでいる鎖をはずし、リードをはめた。



 バイト先のコンビニは、家から徒歩3分。店長は昔この商店街で酒屋を開いていたが、数年前にコンビニに職変えした。

 だから僕とも顔見知りで、だからこそ無理を言ってお願いして、高校生なのに深夜まで働かせてもらっているのだ。

 30分ほど前に行って、バイト先の控え室で、賞味期限の切れた弁当をもらって食べた。これが僕の晩御飯。あんな家庭なので、夕食は僕の分など用意されてはいない。だから僕はこうして、自分にかかる食費を浮かせている。

「じゃあケースケくん、2時までよろしく頼む」

 店長はそう言って、僕の上がる2時から勤務のために仮眠を取りに、2階の自宅に行ってしまった。

 この商店街は観光地なので、昼間はやたら人通りが多く、このコンビニも平日は4人、土日は6人で回しているが、夜7時を過ぎるとぱったりと人通りがなくなってしまうの特徴で、深夜は僕と店長の二人か、またはどちらか一人だけだ。

 今日も暇だ。

 もう雑誌の並べ替えや、督促品の作成だとか、商品の前出し棚卸しも、お客が大して来ないから、一人でだって一時間もあれば終わってしまう。だって夕方以降この通りは客が少なくなるから、店長だって物を仕入れない。一人でもそういうのを片付けられてしまうんだ。おざなりにポリッシャーで掃除なんかしてたって、時間つぶしは30分が限界。

 こんな楽なバイトは、部活もやっている僕にはおあつらえ向きだ。おまけに弁当はもらえるし、それに他のバイトと違って、ノルマの仕事さえやっておけば、仕事以外のことをしていたって怒られない。ちょくちょくリュートの様子も見に行ける。それでも飯をもらうんだから、暇な時にやる仕事は全部やるけど。

 だから今日も暇つぶし用に、自作の単語帳を持ってきた。今日は簡単な動詞を揃えたものを200個。もう覚えてしまったものが大半だろうが、今の疲労具合を考えると、これを全て頭に入れるくらいがちょうどいいだろう。

 Quote――arrest――suppress――

 Satisfy――

「……」

 Satisfy――満足する、か……

 長年満たされたことのない感情だ。

 やや気もそぞろだったけれど、自動ドアが開いた後に鳴った電子音で、反射的に我に返る。ユニホームのポケットに、とっさに単語帳を隠し、ドアの先を向きながら、機械的に、いらっしゃいませ、と言いかけたが、途中で声が詰まった。

「……」

 そこに立っていたのは、小柄で、とても美しい女の子だった。僕のクラスメイト。そして、僕がテストで学年唯一負けた女の子。

 彼女も面食らったような顔で、入ったところで立ち尽くしていた。

 沈黙。

「マツオカ」

沈黙にじれたように、僕の喉から漏れた。

 すると彼女はくすっとはにかんで、右肩にかけていた鞄を肩にかけなおした、

「今年はじめてかも知れないね。サクライくんが私の名前呼んだの」

「そう――だったっけ」

僕は後頭部に手をやりながら記憶を反芻するが、なるほど、彼女の名前を呼んだ記憶は、ここ最近なかった。

「というか、君以外の女子の名前も、最近呼んだ記憶がないな」

 自分としてはジョークのつもりだったんだけど、彼女はそこでにこやかにはにかんでから「ありがと」と言った。

「……」

 何がありがとうなのかは聞かないでいた。きっとそれに意味はないのだと思ったから。


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