Another story ~ 1-4
実際に女の子だと言われても、誰も疑わなかったと思う。
しかし、その格好は異様だった。
俺も含めて他の受験生が皆学生服なのに対して、彼はジーパンに髑髏付きのスタジャンといういでたちだった。まるで冬場にコンビニにでも行こう、というような格好である。
そんなラフな格好の中、首筋や、服の中に見える足の感じから、無駄がない程そぎ落とされた筋肉が覗けていた。それがなければ、きっと女性だと言われてもわからなかっただろう。白のワンピースを着せたいと思ったくらいだ。
その少年は、右腕に持つ受験票を一瞥して、試験監督の方へ視線を向ける。
「遅刻かね? 時間がないから早く用意しなさい」
試験監督に促され、少年はポケットに手を入れて、俺の隣の席に座る……
――ん?
この少年、鞄を持っていない。
見るとスタジャンのポケットから、シャープペン2本に芯、消しゴムを取り出した。
最後の見直しで、参考書などを一冊も持って来ていなかった。
余裕なのか、馬鹿なのか、明らかに他の受験生とは様子が違っていた。
この学校の試験問題は、明日の新聞の朝刊に載って、それで自己採点をする。だから今日の試験の問題用紙は持って帰れるはずだけど、それもいらないということか。
色々考えたが、すぐにやめた。
せっかく半年頑張ってきたのだから、居場所ではない学校の試験でも、全力を出し切らなければ。後のことはそれから考えればいい。それを教えてくれたナミのためにも頑張りたい。
試験問題が裏返しで自分の前に置かれる。一時間目は英語だ。
開始前の、しばしの沈黙……50人近く人がいるのに、息遣いさえ聞こえない。
そして、チャイムと同時に、皆一斉に問題用紙を開いた。沈黙の間に集中力を高めていたのか、皆まさに怒涛の勢いで、問題に突撃したといった感じ。
しかし……
俺の隣の少年は、腕組みをしたまま、まだ動かない。
腕組みをして、目を閉じて、その姿は落ち着き払っている。
当の俺も問題に突撃した。多分俺の偏差値では、この高校は記念受験にしかならないだろうけれど……
「……」
10分でわからない問題に多数遭遇する。
英語の長文がまったく読めない。見たことのない単語が多過ぎる。訳せない。
声にならない声で、俺は嘆息する。
やっぱり無理だ。俺とはレベルが違う。
この高校に、俺の力では入れない。
頭をかきむしりながら、早くも焦げ付きそうな思考を無理に回す。
その時。
隣の少年の姿を捉えた。
さっきまで目を閉じていた少年は、目を開けて、一番後ろから、教室の他の受験生を見物していた。
「……」
ぞっとするほど、澄んだ目だった。
まるでマウスを観察する科学者みたいに温度がなく、自分の今の行動に一毛の迷いもない。子供がカエルの腹に爆竹を入れる時みたいな、純粋な無邪気さと、その行為の不毛さ、虚しさを共存させたような、深い色の目だった。
体は小さいが、その目を持つ少年には、不思議な凄みがあった。まるで池の中で身を潜める龍の、爆発前の静寂といった迫力があった。
ふと、少年はこちらに目を向ける。俺と目が合った。
「……」
穏やかなのに、まるで射られるような瞳。氷のような冷たさに、ちろちろと種火が燃えている激しさ、世の中の汚い部分を知っているといったような、濁りきったような中に、山河の清流のような爽やかさ、清々しさがあった。
その多くの複雑な感情が絡み合い、相反する多くの事象がせめぎ合い、えも言えぬバランスでギリギリ立っているといった目は、儚げでもあれば、逞しくもあった。そんな不思議な美しさに溢れていた。
「……」
自分より20センチは体の小さいこの少年が、異様に大きく見える。
サッカーをやっていて、時には強豪と当たることもあった。だけど、ここまでの戦慄を与えるような迫力を感じるのは、これが初めてのことだった。
「……」
試験監督の手前もある。少年と目が合っていたのは、ほんの2秒ほどのことだったけれど、俺はその2秒間で、少年の存在を強く印象付けられた。
少年は俺の目を見て、ふっと一度小さく息をつくと、目線を真っ直ぐ前に戻した。
「……」
そのまま、15秒くらい静止していたが、彼は突然問題用紙を広げ、左手にシャープペンを取り、やっと問題に取り掛かり始めた。試験開始から、約15分後のことだった。
隣でしっかり見たわけではないが、彼の問題との格闘は、とてつもない速さで行われていた。常に問題用紙に何かが書き込まれ、その作業が恐ろしく早かった。
そしてまた15分もすれば、俺がまだ半分も終わっていない問題を、全問解き終えて、シャープペンを置いていた。まだ問題を解き終わった者は、教室中見渡しても、一人もいない。
しかしこのテストは、途中退室が認められていないので、横目で見る少年は、椅子に深く腰掛けて腕組みをし、退屈そうな素振りで、教室の前の黒板を正視していた。
「……」
自分が苦戦している問題を、隣の人間がこんなに余裕綽々に解かれたという状況は、焦りを生むのと同時に、本当に解き終わっているのか確かめたくなるものだ。
俺は焦りから問題への集中が完全に切れてしまい、我慢できなくなって、横目で少年の方を窺った。
少年はさっきのように腕組みをして、ボーっと物思いにふけるような表情をしていた。
しかし……
机には、全ての解答欄を埋めた解答用紙が、まったく無防備な状態で広げられていた。
まるで、カンニングしてください、とでも言っているように。
「……」
ん?
誰に見せるんだ?
俺と少年のいる列は教室の後ろ。後ろから覗く奴はいない。
だとすれば、誘っているとしたら……
――相手は俺だ。俺しかいない。
俺の視線に気付いたのか、その時少年が、横目で俺を窺った。
「……」
その視線に、俺は戦慄した。
見抜いている。
俺がこの高校、記念受験くらいのレベルで受けていること、俺の学力を、彼はもう見抜いている。
俺だけじゃない。この教室内の他の受験生の実力も、多分彼は全て見抜いているんだ。
そして、悟った。彼はもう、自分の合格を確信している。
そして、この学校の合格に、大した価値を感じていない。
もう、彼は遊んでいるのだ。
よく見ると彼の答案は、ご丁寧に濃い筆圧で、大きな文字で書かれている。おまけに字が綺麗だから、一文字一文字が良く見える。
ここまでして、俺を挑発している。
だけど――
人を見下したり、馬鹿にしたような嫌味な光を、彼の目からは微塵も感じなかった。わざとカンニングをさせて、試験監督に言いつけてやろうと考えているわけでもなさそうだ。
ただ、カンニングをさせることで、一人の人間がどう変化するか、結末はどうなるか――そんな実験を楽しんでいるといった感じ。
見ても見なくてもどっちでもいい。退屈な試験でどうやって暇を潰すか、それだけの遊び――戯れなんだ。
ただ、その時の俺は。
まるで世界最高峰のパサーから、最高のパスが飛んできたような、そんな気分に襲われた。
「このパスに、追いついてみろよ。追いつけたら、ゴールを保障するぜ」
まるでそう言わんばかりの、追いつけるかどうかのギリギリを狙ったキラーパス。
でも、このパスにはちゃんとスピンをかけて、受け手の足下に収まりやすいように調節してある。厳しさの中に、しっかりと優しさと、何よりパスの出しての石が込められたパスだ。
こんなパスをゴールに決められたら、フォワードとして、なんて幸福だろう。
こんな奴が、サッカーのチームメイトにいたら……
彼のそのパスを確認して、俺は試験中だというのに、そんな事を考えていた。
初めて俺に、パスを出してくれた。今まで俺が受けてきたような、ボールを預けるだけじゃない、しっかりと意志を込めたパスを。
血が燃えた。こんな感覚を、同い年の男に感じたのは、初めてだった。
俺が欲しかったものは、こんな、走らないと届かない。だけど、走れば絶対に追いついて、受け取った時にはゴール確実なチャンスが生まれているようなパス。そんなわくわくするような意志の疎通。それなんだと思った。
今までサッカーをしていて、そんなパスがほしい、そんなパスをくれる仲間と、しっかり意志を疎通させたいと、強く願っていたのだと分かった。
俺は、このパスの結末をみたい。人生最初のパスを、忘れないためにも。
俺はその誘惑に耐え切れずに、少年の答案を丸写ししていた。
少年が、その結末を見たいだけの遊び――
しかし今は、俺の方がその結末を見たいという思いでいっぱいだった。
休み時間の間、参考書のない少年は目を閉じて眠っていて、カンニングをさせたのに、俺に何の興味も示さなかった、
だけど彼は、テストが始まれば、5分静止した後に問題に取り掛かり、全ての科目を15分で解いた。そしていつもご丁寧に、俺のよく見える位置に答案を置いた。
テストが終わるまで、それ以上少年は、俺に一度も目が合わなかった。その純粋なまでに透明で、退屈そうな瞳を、俺は時たま横目で眺めるのみだった。
テストが終わると、少年は脇目も振らずに帰ってしまい、人ごみに紛れ、小柄な体はすぐに見えなくなった。
埼玉高校の校門で、ナミと待ち合わせていた。
駅に着き、帰りの電車を待つ時、ナミに聞かれた。
「テスト、どうだった?」
「……」
あの少年の、愚直なまでに澄み切った目が、俺の目を捉えて、いまだに離さなかった。
「――変な奴がいたよ」
気もそぞろなまま、俺は答えた。
あまりに心奪われて、その帰り道、ナミと何を話したかも、よく覚えていない。
――俺に埼玉高校の合格通知、ナミに不合格通知が届いたのは、その一週間後のことだった。