Another story ~ 1-2
朝、学校に向かう。
身長182センチの俺は、中学校というところがあまり好きじゃない。
このでかさだと中学生の制服でサイズがないから、服が窮屈だし、机や椅子も低くて、前かがみになるから授業は寝てしまう。姿勢を良く保った方が寝にくいのは知っているんだけど、それが上手くいかないし。勉強するにも窮屈な場所だ。
それでも通うのだから、出来ればモラトリアムを楽しもうと思ってはいるのだけど……
シャッター商店街を抜け、人もまばらになり始め、コンクリートで舗装された小道の下には、力なく川が流れている。
目の前の坂道の先――電信柱の横で、女の子が俺に手を振っている。
今の彼女だ。名前はナミ。
真面目な女の子で、結構美人と来ている。部活を引退して、高校という人生初の岐路に佇む俺にとって、彼女の大人っぽさに随分救われている。人見知りで、腹を割れる男友達のいない俺とすれば、相談なんかしちゃう弱みも見せられる。最高の女の子。
女たらしだと、男はおろか、一部の女の子まで思われている俺だけど、ナミのことは本当に好きだ。付き合ったのはまだ2ヶ月だけど、出来れば、もっと一緒にいたいと思っている。
だけど……
「……」
お互い、それが無理である可能性の方が高いことが、何となくわかっている。
ナミは頭がいい。夢は弁護士とか言っちゃうような子で、俺よりもずっと自立している。もう9月。半年俺が必死に勉強しても、とても入れないような高校を目指しているみたいだ。
おまけに俺は、他県の高校から、サッカーのスカウトを受けている始末。少なくとも、サッカー強豪校の寮にでも入るだろうという可能性を、ナミはもう見抜いていて……
こうして一緒にいても、いつかは分かつ道を進む矛盾。
中学生にとって、巨大過ぎるほどの互いの道の隔たりが、俺達を無口にさせた。
「なんか、変だな」
俺は好きな人の前で黙りこくる沈黙に耐えられなくなる。
それが、俺の情けなさを強く感じさせるんだ。
俺はまだ、女性に告白したことがない。
黙っていたって女性は来るし、断るよりは、付き合って自分の相性を見ようという考えがあった。
それが自分を好きになってくれた女性に対する礼儀だと考えるきらいがあった。勿論二股なんかしない。自分を好きになってくれた人を傷つけたくはないから。
だから俺は、相当な寂しがり屋な面があったんだと思う。
自分を好きだと言ってくれた人を、俺もとても大事だと思う。どこかで誰かに必要にされたいという思いがあったからなのだろう。
ナミも俺に告白した。学校で真面目な娘という印象があるナミが、俺みたいな低脳な男なんかに告白するなんて、かなり意外だった。
何で俺なんかを好きになったの? と聞いた。
「夢を追っている目をしていた。サッカーをやっている時の目を見て、自分も頑張らなきゃって思えるような、そんな目が好きだ」と言ってくれた。
彼女自身、難関である司法試験を目指したいと考えていて、両親の心配や、数字の壁に何度もくじけそうな時があるらしい。そんな時、俺のサッカーの試合を見て、自分も頑張らなきゃ、という心を取り戻したらしい。
付き合ったばかりの俺達は、それぞれの夢に燃えていた。
だけど……
「ごめんな。サッカーを引退したら、こんな情けない男になっちゃって」
歩きながら、その思いが爆発した。
部活を引退してからの俺は、自分でも情けなくなるくらい、アイデンティティが歪んでいた。まして、好きな女に気の効いた事もできない。
サッカーを失った俺は、完全に自信や自己の存在意義までも奪われていた。
ナミは、サッカーをしている時の、夢を追う俺の目が好きだと言っていた。だとすれば、今の俺は、その目の輝きを失っている。
だから……その期待を裏切る後ろめたさも、俺を不安にさせるんだ。
「……」
ナミは黙ったまま、前を見て、歩いていく。
その背を伸ばし、真っ直ぐな視線を向ける、同い年の女の子が、とても眩しかった。
俺は、それに比べて――
「放課後、悩みを聞こうか?」
ナミは微笑んで、僕を見てくれた。
周りはナミの事を、地味だというけれど、それでも俺はこの笑顔が大好きだ。
でも、この娘――こうして、真っ直ぐな瞳を持った女の子が、俺の悩みを聞いて、何て言ってくれるのか。
――話したい。この娘は、サッカーをやっていた頃の、俺の心を持っている。
取り戻したい。行きたい。君と同じ、夢を追う道を。
「じゃあ、メールするよ。多分今日も客が来てるから、その後に、いつもの公園で」
ナミは別クラスなので、一人でクラスに入る。自分の机に鞄を置く。
「あ、ユータ。おっはー」
「おっはー」
こうして話しかけてくれるのは、女の子ばかり……
それに不満はないけれど……
クラスの男達は、俺の事を別次元の生き物みたいな目で見るか、関わり合いになりたくないと目をそむける奴が多かった。もうこういう人となりを、5年以上続けているから、女をとっかえひっかえ回していると思っているのだろう。
俺を見る、その目はとてもネガティブで……俺も進んで、友達になりたいなんて思う奴はいないけれど。
それでも、何か虚しい……
授業中は、携帯をいじったり、お喋りをしたり、授業に目標もない連中の集まりで……
心は、モラトリアムという緩やかな堕落に支配される。
――放課後、俺は金網越しに、サッカー部の練習場へ行く。
後輩は俺を見つけて、一礼を返す。だけど監督は、俺に何の興味も示さなかった。
「……」
俺がいた3年間、このチームは全ての大会で、県を制した。だけどほとんど俺のワンマンチームで、チーム全体で言えば、弱小の部類だったと思う。
俺とチームメイトは、スキル以上に、サッカーに対する価値観が違っていて――ちょっと強い相手にチンチンにやられると、帰りに愚痴を言い出すような感じだった。
監督は俺を優遇はしたけれど、技術面でのアドバイスは、もう監督の手に余っていたのだろう。次第に俺は放任され、ほとんど一人で自主連という形だった。
そんな状態だったから、チームワークもバラバラで、強豪相手に、意志の疎通の時点で負けていたことも多かった。
一見、とても充実していた中学サッカーだけど、全てにおいて満たされない日々だった。
だから――今、多くのスカウトが来て、最新の設備や、レベルの高いチームメイトなんて話は、とても魅力的に感じている。
そういう連中なら、俺の相手をしてくれるかもしれない。ただ自分がゴールを決めるだけの、機械的なサッカーから、俺を変えてくれるかもしれない。
そんな淡い期待が、俺を惑わせていた。
今日も広島と仙台から、強豪スポーツ高校の推薦が来た。
昨日とまったく同じ手順で、オフクロが追い返したんだけど。
その後俺は学生服からトレーニングウェアに着替え、ナミにメールを入れて、ランニングに出る。
わざと遠回りをして、20分くらい走って、家から徒歩5分の公園へ。
ジャングルジムにブランコ、パトカー、救急車、バスのオブジェ、砂場のあるだけの公園で、まだナミは来ていない。きっと図書館で勉強してから来るのだろう。
俺は、180センチオーバーの俺には、もう若干小さめのジャングルジムに登る。そしててっぺんに腰を下ろし、ランニング後の荒い息を落ち着けた。
9月の今、時間は5時半くらい。ジャングルジムのてっぺんから、俺の故郷、埼玉県所沢市の、背の低い建物のすぐ上に、夕日がかかっているのが見える。
しばらくその夕日を眺めていると、ナミが現れた。
「ごめんね。ちょっと図書館帰りだったの」
ナミは中学のブレザーにスクールバッグのままだった。そしてそのまま、俺の足元――ジャングルジムの淵に背を預ける。
「……」
ナミは、あまり体の接触を求めない。まだ手をつなぐくらいで、キスだってしていない。俺は中1の初体験以来、もう両手で数えるほど、女性を抱いているが、それでも物足りないとは思わない。それがきっと、彼女の人との接し方なのだろう。
「どうしたの? 最近ずっと元気ないけれど」
「……」
俺は、女の子の友達は、結構いるけれど……
真面目に何かを相談できる人は、学校でナミしかいない。
ナミの考え方、生き方に、少しだけ救われた自分がいた。この娘だけが、今、自分を取り戻す力をくれる、そんな気がしたんだ。
俺は自分の思いを、悪い頭で出来る限りナミに伝えた。サッカーを失ってからの虚脱感や、親と進路で平行線をたどる議論からのジレンマ、中学サッカーで得られなかったものを、強いチームで叶えたい、という思い、勉強で自分は一流になりきれないという考え。
話し終わる頃には、夕日が沈みかけて、街は群青色に染まり始めていた。
「……」
ナミは少し考え込んでいた。
そして、言った。
「ユータくん、私と一緒に高校受験しない?」
「え?」
俺はジャングルジムから、下を見る。
「きっと、それがいいと思う」