Another story ~ 1-1
俺は本当に恵まれた子供だと思う。
親の愛をいっぱい受け、親は俺への投資を惜しまなかった。
親は俺の幸せを心から望んでいた。そのために勉強して、地道な積み重ねが俺を救うと教えた。
だけど――
残念ながら、俺には親の期待に応えられる適性がなかった。この道で両親を喜ばせる道は、もうないのだとわかっていた。
だから俺は、どこかで人に認められる事を、強烈に欲していたのかもしれない。
期待はずれの自分を慰めるために。
そんな自分を親に償うために。
あいつに出会ったのは、俺がそんな思いを抱え、くすぶっている時だった……
中学3年の夏――
俺の家には毎日のように来客があった。
実家でオフクロはインテリアショップを営んでいるため、仕事中にその対応をしなければならず、その分人件費を割く羽目になったと、いつも俺に愚痴っている。
部活を引退した俺は、まだ4時前に学校から家に帰るというサイクルに違和感を感じていた。
普通の公立中学――退屈だが、穏やかな日々。下校前の連絡事項を話す担任を見る俺。
教室を出ようと立ち上がると、クラスの女子に声をかけられた。
「ねえねえ、これからみんなとカラオケに行かない?」
「ん、悪い。多分今日も家に客が来てるから、顔出さないと」
「またぁ? さすが埼玉県の怪物フォワードね」
「……」
「でも、他県からの誘いの方が多いんでしょ?」
「うん、北は青森、南は鹿児島まで来てるよ」
「そっかぁ……」
「……」
俺の前にいる女の子達は、一様に表情を曇らせる。
「おいおい、そんなしんみりしないでくれよ。まだどこに行くかなんて、決まってないんだから」
「あ、ごめん……」
一人の女の子が謝る。
「だけど、何だか、部活を引退してから、元気ないよね」
「別にそんなことねえって。ただ、部活引退しての生活に、まだ慣れてないだけ」
俺は否定しておく。女の子用の特別スマイルを乗せて。
「誘ってくれてありがとな。受験勉強が始まる前に、俺もみんなと遊びたいな。じゃあな」
そう言って一人、家路へと向かう。
俺の事を知る人は、俺が他県の高校やチームに行くかもしれないという事を聞くと、途端しんみりした顔をする。
だけど、その表情を、本当に俺の事を思ってのものか、上手く受け止められない自分がいた。
家に帰ると、店にオフクロの姿がない。パートのお姉さんに聞くと、奥の応接間でお客の相手をしているらしい。
応接間に行くと、ゆったりしたソファーに二人の中年の男が座っていた。
一人は白髪の混じる頭に、太陽光で焼けた肌の、小柄な筋肉質の男で、白のポロシャツという、いかにも肉体系な男。
もう一人はクールビズを着る、痩せ型の男。神経質にさえ思える細さの中に、精力的な部分が僅かに窺えるような男だった。
そんな対照的な二人。
「おぉ、君が……なるほど、大きいなぁ」
筋肉質の男が立ち上がり、僕を見上げた。
オフクロは俺を向かいのソファーに座らせ、自分はその隣に座る。
名刺を渡される。筋肉質の男は、大阪にある有名スポーツ高校のサッカー部の部長。クールビズの男は、千葉にあるJリーグ一部リーグのユースチームのスカウト部長だった。
「うちは全寮制で、全国に4年連続で出場している。高校をサッカーに打ち込みたいなら、日本最大級、最高の設備が揃ってる」
「うちは早ければ君を1年後にはトップチームでプロデビューさせたいと考えている。チームには2つ年上だが、その世代の日本代表フォワードがいる。君には彼と将来的に、うちのトップチームの二枚看板になってもらいたい。ライバルもいて、刺激はある」
両者は資料を広げつつ、俺に自分を売り込んでいた。
だけどそんなことに意味がないことは、もう俺はわかっているんだ。
「すみません、主人も交えて一度よく考えたいと思いますので、今日のところは……」
オフクロがいつもそう言って、話を切って、スカウトを帰しちゃうからね。
今日もオフクロはそう言って、強引にスカウトを帰してしまった。
俺はほとんど何も話さないまま、玄関まで二人を見送りに出た。
その後、二人の残した、応接間のテーブルに広げっぱなしの資料を手に取り、ソファーに腰掛けた。
ユースチームの誘いには、少し心が揺れた。俺よりもすごい、代表フォワード。一体どんな奴なのか、同じチームじゃ対戦は出来ないけれど、近くで見てみたい。
「ふーっ、まったく、こう毎日だと、もう来た客の顔も覚えきれないわ」
応接間に出した、茶を入れた湯飲みを片付けに、オフクロが戻ってくる。
俺は客のことは、全部覚えている。高校のスカウトは、これで27校目、うち学費優遇を約束したのは4校。ユースのスカウトはこれで8チーム目。他にもJ2でいきなりプロ契約を持ってきたチームが3チーム。
「オフクロ」
俺は資料を見たまま呼び止める。
「俺、サッカーで生きていくのは、やっぱ駄目なのかな」
「……」
オフクロは、湯飲みをお盆に乗せ、立ち上がりかけたところだった。だけどそのままお盆をテーブルに置き、俺の向かいのソファーに腰掛けた。
「あのね、ユータ。部活や趣味でサッカーをやるのは私もいいと思う。でもサッカー選手は寿命も短い上に、給料もそれほど良くないし、引退後の就職制度がほとんどないわ。だから将来のためにも、せめて高校くらいは出て欲しいのよ」
「……」
「まだ将来を固めるには、あんたはもう少し世の中っていうのを知った方がいいわ。今のサッカー部では学べなかった事を、高校で学んでからでもプロは遅くないじゃないの」
「……」
オフクロの言うことはあまりに正論だ。確かにサッカーで食い扶持を稼ぐためには、日本はあまりに制度に乏しい。給料は日本にいる限り、プロ野球の5分の1だし、J1にいない限り、給料はサラリーマンより安いような現状だ。
俺にだって、もしサッカー選手として通用しなければ……という不安はある。
だけど……
「俺、部活を引退してわかったけど、サッカーがなくなると、抜け殻になっちゃうんだ。それに俺はもう、勉強ではオフクロ達の期待に応えられない。ならせめて、早く社会に出て金を稼いで、俺に二人が投資した分くらい、返したいんだよ」
これは口実ではなく、本気だった。
でも、俺はかなりマジなのに、オフクロはそれでも考え直すよう薦める。
「バカ。あんたまだ15なんだから、くだらない事を考えるんじゃないの。とりあえず私ももっと色々考えてみるから、あなたも一度頭を冷やしなさい。そしてお父さんとも色々話してみましょう」
「……」
俺は本当に、親に恵まれていると思う。
オフクロは俺に考え直してほしいと思っているけれど、それでも頭ごなしの否定はせずに、愚痴を言いながらも、俺の事をちゃんと考えてくれている。
確かに今のままじゃ議論は平行線だ。中断した方が無難だろう。
だけど、部屋に戻ろうと、応接間を出ようとした時だった。
「あんたにこれだけは言っておくわ」
オフクロが背中越しに俺を呼び止めた。
「あんたは人間ってものを知らない。サッカーをやるにも、今のままじゃあんたはダメ。もう少し、チームプレーとか、仲間を作る事を学ばないと、あんたはいつかサッカーをやるのが辛くなるわよ」
「……」
俺は部屋に戻って、今日の資料を、部屋に置いてあるクリアファイル――ユース用、高校用と二冊に分けてある中に、ちゃんとアイウエオ順になる場所にファイリングして、そのままベッドに倒れこむ。
「……」
あぁ、ただサッカーを与えられた環境の中でやっているだけなら、とても楽なのに。
どうしてサッカーを引退してしまうと、こんなに退屈なんだろう。こんなに駄目になってしまうんだろう。
オフクロに自分の気持ちを伝えたいのに、自分が幼すぎて、思いを上手く表せない。
そんなやるせないような無力感が、俺をどうしようもなく駄目な奴にさせる。
そして……
オフクロも見抜いている。
俺がサッカーをやることが、日に日に辛くなっている事に。
俺の心に芽生えている、この魚の骨のような違和感に。