第一部最終章 3rd-person
それから僕達は電車に乗って、川越に戻った。
行きは僕は駅まで自転車、彼女はバスだった。
僕は彼女を自転車の後ろに乗せて、家に送った。
街を走る間、僕は初めて彼女を家に送った時の事を、思い出していた。
僕はあの時、彼女を『敵』でなく、一人の女の子として見ることができた。
あの帰り道は、僕の再生の始まりだった。
だから、これからもこうして、彼女を家に送ってあげたいと思う。
彼女を送る役目を、誰にも渡さない、なんて、馬鹿な事を考えていた。
彼女を家の前でおろすと、両親に怒られるかも、と言っていた。
それでも、彼女の顔には、不安は微塵もなく、晴れやかな表情だった。
僕も同じだった。
「サクライくん」
別れ際に、彼女が言ってくれた。
「家に戻っても、あなたは今なら、きっと大丈夫。信じて」
その言葉を、僕は一度目を閉じて、心に刻み込んだ。
きっと大丈夫。僕は、今の自分、支えてくれる人を信じてる。
「ありがとう」
その言葉を最後のお土産にして、僕達の夜を挟んだデートは終わった。
自転車を家のガレージに止めた。時計を見ると、朝の8時21分だった。
居間へのドアを開けると、両親が二人、トーストとスクランブルエッグの朝食を取っていた。冬休みだし、妹はまだ寝ているのだろう。
ドアを開ける音に、親父は早速朝の憂さ晴らしとばかり、僕にイチャモンをつけてきた。
「朝帰りとは、いい身分だな」
「……」
僕は答えない。
答えられない。もう今の僕の肉体に、心が宿っていない。
この家は、心の居場所じゃないから。
この家で、僕は最下層の人間だと思われている。そんな人間に無視されて、親父のお気に召さないらしい。親父は聞くや否や、すごい剣幕で立ち上がり、僕の胸倉を掴んで言った。
「テメエ、まだ自分の立場がわかってないようだな」
「……」
この時の僕は、何を根拠にこんなことを思ったんだろう。それは、自分でもわからない。
だけど――その時僕は、親父の顔を見て、思ったんだ。
「不思議だな。あんた達のお陰でこの先、どんなことにも負ける気がしない」
「あ?」
「ヤケになっているわけでもないのに、あんたに殴られてもいいと思うなんてな」
「ナメんじゃねぇ!」
その言葉が磁石でひきつけたように、反射的に僕の頬に、親父の大きな拳が入った。
僕はそのまま後ろに吹っ飛び、背中が応接間にあるタンスに叩きつけられた。
「……?」
僕はそのまま、ゆっくりと立ち上がり、つい一週間前切ったばかりの口元の傷を指でなぞった。その指先を見ると、軽く開いた切り傷から、血が出ていた。
そして、それを見て、初めて自分が殴られたんだ、ってことがわかった。
「……」
親父の拳は、確かに痛い。と言うより、痛みは前より更に強くなった。
心が生き返ったからか、生きる上で重要な感覚の一つの痛覚さえも、こうして僕に、蘇生のシグナルを発してくれる。
あぁ――今の僕は、ちゃんと生きているんだ。
彼女が僕を蘇らせてくれた。僕はやっと、一人の人間になれたのだと実感できたのが、何だかとても嬉しかった。
そして――その痛みは、まるで粉薬みたいにすぐに溶けて、軽くほろ苦さだけを残して消えた。
親父に殴られていた後、今までは憎しみと、自分の無力さに怒りを募らせていたのに。
不思議だ。心の居場所を見つけていると、もう殴られ、蹴られても、自分の存在がまるで揺らがない。
もうこの家族達に、僕の存在を何人たりとも犯させることは出来ない。
もう僕の心は、何にも縛られることはない。
僕は、生きているんだ。
――その後学校に向かうと、部室では、僕の快気祝いとして、皆が僕を笑顔で迎えてくれた。ユータ、ジュンイチもいて、僕に声をかけてくれた。
グラウンドに出ると、イイジマが、一言述べるようにと、僕に指示をした。僕は円陣の中心に立った。
「心配をかけた。皆の全国大会をふいにしそうにした。馬鹿な事をしたと思っている」
素直に僕は謝った。
「もう、皆に迷惑かけることはないと思う。それは、これから僕が、自分で証明して行く」
「……」
皆が黙って僕の顔を見ていた。僕が今までと様子が違うのは、もう表に出ているのか。
僕はこの時、うずうずしていた。この魂の精度、この枷の取れた身の軽さ、まっさらな状態での、サクライ・ケースケという男が出せる力の可能性――それを早く試したくて、気が急いていた。。
「監督」
もうその気持ちが、一気にはじけた。
「迷惑ついでといったらなんですが、僕を控えチームのトップ下で、一回実戦練習をお願いしたいのですが」
「何?」
イイジマは顔をしかめた。
「怪我上がりの男が、随分大きく出たな。しかも大会は明日からだぞ」
「もう大会まで時間がありませんから、ユータとジュンイチを相手にしてみたいんです」
「……」
「20分でいいです。それで僕は全てを出しきりますから」
誰も口を挟まなかった。鬼軍曹イイジマに、こうも意見する奴なんて、今までいなかったからだ。変に積極的になっている僕と、過去のギャップに誰も付いて来ていないといった感じだ。
「ふむ、いいだろう」
イイジマは首を縦に振った。
「お前は口が固い。半端な決意は口にしない奴だ。それにお前には、合宿での借りもある」
僕は、心の中で、よし! と叫んだ。僕はまるで、スタートの準備を待つ陸上選手のように、全身にブーストがかかっていた。とにかく早く動きたくて、体がわめきだしそうな歓喜を抑えつけていた。
「よし、じゃあその前に、アップを始めろ」
「はい!」
イイジマの号令で、皆がピッチへ散っていく。僕も走り出した。
「サクライ」
その瞬間、僕はイイジマに呼びとめられた。僕は振り向く。
「お前、いい顔になったな。まあ、元々顔はよかったが……」
「……」
「まあいいや。お前のトップ下のテストをしたいから、アップ終わったら、すぐミニゲームだ」
返事をして、すぐに列を組み、ジョグをはじめる。その列の中、隣にいるユータが声をかけてきた。
「いきなり意欲十分だな。お前、昨日いいことあったのか?」
「いいことか――お前らとサッカーやることも、決して悪いことじゃないけどな」
「はぁ?」
後ろにいたジュンイチが割って入った。
「ケースケらしくない発言だな、それ」
「ふふふ……」
思わず笑みがこぼれた。この気持ちで、こいつらと話すのも、またひとしお、何か感慨めいたものが加わったような気がする。
「何だこいつ。変にニコニコして」
ユータが首を傾げる。
「ユータ、ジュンイチ」
「ん?」「ん?」
「今まで堪ってた分、一気に行くからな。全力で来てくれ」
「……」「……」
僕は走りながら、頭に巻かれていた包帯を外した。
――ミニゲームは、僕の独壇場と化した。
一年生を主体とした僕のチームだったが、その中で僕は圧倒的な力を発揮した。
僕は『躍動』していた。今までの迷い――枷の外れた体は、恐ろしいほど軽かった。鉄壁の守りを誇るジュンイチを、鮮やかに抜き去った。
そして、重かった心は、今、自分の全てをプラスのエネルギーとして、怒涛の攻撃力を誇るユータに立ち向かい、それを跳ね返し続けた。
「何だあいつ?」
敵味方関係なく、僕の動き、声、そして表情に、目を丸くして――僕はその中で、無尽蔵に魂を燃やし続けた。そこには憎悪も怒気もない。ただ純粋な魂の鼓動だけを残して。
やがて試合は終わった。僕はユータを完全に押さえ込み、ジュンイチをまったく寄せ付けなかった。試合は僕の4ゴールという結果で幕を閉じた。
「……」
ベンチに戻ると、イイジマは、ただ口を開けて、肩をぶるぶる震わせていた。
「監督」
僕はイイジマの前に立った。
「テストは、合格ですか?」
「・・・・・・」
「――監督?」
「うおおおおおおおおおおおおお!」
突然、イイジマが叫んだ。まるきり野生児のように。そして、それに気圧された僕の手を、痛い程強く握って、大きく上下に振った。僕はその勢いで、前後に軽くステップを踏んだ。
「サクライ――いける、いけるぞ! ちくしょう! 俺のこのチームで優勝できる!」
グラウンドには、僕の躍動の熱気が残っていた。イイジマは、まるで凱旋とばかりのノリで、大手を振ってグラウンドから上がって行った。
明日には即試合なので、その後イイジマは、僕をトップ下に置くフォーメーションをしきりに試した。それでも明日に疲れを残さないために、昼過ぎには徹底的にミーティングを行った。一回戦で当たる相手のビデオを見たり、フォーメーションの確認をした。
それが終わると、僕、ユータ、ジュンイチの、主力3人で、イイジマと最後の意見交換をした。
もう時計は4時を過ぎていて、空が茜色に染まっていた。
僕はユータ、ジュンイチと一緒に、部室に戻っていた。もう他の部員は帰ってしまって、部室には、僕達3人しかいない。
二人は、僕の一日の躍動振りに、まだ納得が出来ていないらしく、終始戸惑った顔をしていた。
「お前、キャラ変わってないか?」
ジュンイチが着替えの服に袖を通しながら、言った。
「二人とも、着替えが終わったら、少しだけ、ツラ貸してくれないか?」
「ん?」
ユータが首をかしげた。それは普段、ユータの口癖だったからだ。
僕は先に部室を出る。
後から部室をのそのそと出てくる二人。
そこには僕と――
隣に、一人の女の子が立っていた。
つややかな黒髪に、華奢な体、宇宙を凝縮したように、深くよどみない瞳、先が丸くなった、愛らしい鼻梁、ふっくらした唇、華奢な手に持つ、黒のケース……
二人はそれを見て、変に色めき立った。
多分、もう、僕の言いたいことは想像がついている。
その言葉を待ってくれている。
僕が――その言葉を言うのを。
ずっと、昔から……
「紹介するよ。僕の――」
言葉が詰まった。
何て言えばいいんだろう。彼女の事を、なんて定義づければ……
「えっと」
「ん?」
「んんー?」
二人はもう既に顔をにやけさせて、からかい半分で僕を急かす。
この野郎。と思うけれど、僕も笑顔になる。
そんなに僕をからかうか。聞きたいなら、聞かせてやるさ。
「紹介するよ。僕の、今、とても大切な人の、マツオカ・シオリさんだ」
どもったけれど、そう言った。
彼女は、ぺこりと頭を下げる。
「……」
二人はお互い顔を見合わせ、ぽかんと口を開けている。
もう、お互いどんな顔をしていいかわからない、といった感じ。
きっと、ずっと彼氏がいないと思っていた娘に、結婚の報告をされた親は、きっとこんな顔をするだろうと思う。
だけど……
その顔は、まるでスロービデオ再生みたいにゆっくりとほころんで……
「うおおおおおおおおおおおおお!」
二人の雄叫びが、夕焼け空にこだました。
第一部 完