Propose
その言葉を聞くと、胸の底から震えが込み上げてきた。
朝日で黄金色に照らされた、大河のうねりが、僕の心の川底に絡み付いていた、黒い藻を押し流すように。
まさに深海のように、暗闇に閉ざされた世界に、朝日が登り、命が産まれる。
「――なぁ、僕は――君の側にいて、いいの? 君といると、僕は君を……」
君は僕の大切な人。
だからこそ、傷つけるのが自分だなんて、そんな悲しいことはしたくない。
君のことは好きだけど――
君には誰よりも、幸せになってほしいから。
その不安に、彼女は答えた。
「私も……あなたの側にいたい。あなたと一緒に、強くなりたいの」
「……」
「だから、あなたも生きて。私は、あなたがこれから、笑顔で生きていってほしい」
「……」
その言葉で、僕の中に、何かが生まれた気がした。
僕は――生きていいのか。君の側に、いていいのか。
僕は布団の中で、彼女を強く抱きしめた。
彼女の胸の中で、感情の濁流となった涙をこぼし、何度も嗚咽した。
シオリは、僕を抱きしめ返した。僕の首筋と、脊髄に、柔らかく、暖かなものを感じる。それは、彼女の体温とか、触感とか、そんなものじゃない。彼女の存在そのものだ。まるで、彼女が温い液体になってしまったようだ。もっと強く抱きしめたら、彼女は僕の体の中へ、ゆっくりと入ってきそうな気持ちになる。
「僕……僕……」
言葉がまとまらない、まとまっていても、嗚咽に溺れて喋れない。
だけど……
僕は、彼女を愛している。彼女も、僕を愛してくれている。
君が僕の『居場所』――真っ暗な深海から浮上するための、道標の『光』――
それを手に入れて……
生きていいと、言ってくれた。
だけど、こんなにも、彼女を求めてしまう気持ちは、愛情だけでは語れないだろう。
Sympathy――
僕達は、同じものを感じ取っていた。
甘えられない孤独、誰かに期待しなくなった虚無感、自己を縛った虚しさ、空っぽの自分への絶望。
それらは二人、同じものだから、僕は彼女の痛みに触れることが出来るのかもしれない。
彼女が僕の心の傷を癒してくれた。
なら、僕も同じことが出来るかも知れない。同じ事をしてあげたい。
傷を舐め合うような、そんな惨めな堕落かもしれない。ドロドロの甘えかもしれない。僕達は、どんどん堕ちていっているのかも知れない。
しかし、二人は、それも享受出来るくらい、お互いを感じ取っていた。
元々、堕ちていきたかったのかも知れない。
どこからでもいい、どこへでもいい。
きっと、今の状況から、連れ出してほしかった二人だったのだろう。
電話の音で目が覚める。
僕は芋虫のように這って、ベッドの中で受話器を取った。
「そろそろ時間です」
寝ぼけた頭を動かして、状況を整理した。
横を見ると、マツオカ・シオリが僕の横で、小さな寝息を立てていた。まなじりがまだ、かすかに濡れたままで。
そうだ。僕は昨日、彼女に全てを吐き出して――彼女は僕を受け止めて、愛してくれた。
「……」
彼女の寝顔を見つめながら、僕は、自分の右手を胸にやった。
軽い。
長年の呪いが解け、罪人の手足についた、重い枷が外れたように――迷い、憤り、そして、憎しみ――全て昨日の彼女の言葉が、一つ、一つ、取り除いてくれた。僕の心の迷いを、希望の光で照らしてくれた――
こんなにも違うものなのか、魂の宿った心というのは。それが動かす体というのは。
僕は先に着替えを済ませて、深い眠りにつく、シオリの頬に触れた。
「起きて」
「ん……」
小さな唸り声を上げると、目をゆっくりと開ける。隣でベッドに座っている僕の顔を見ている。
「おはよう」
その声――自分の声はこんなだったかと、自分でもびっくりする。もう人の肌を刺すようなトゲはどこにもない――声帯も、頬の筋肉も、今までのように、言葉を閉ざしていた重々しさは、どこにもない。
「……」
彼女も、今の状況が整理できないようだった。寝起きの覚束ない顔のまま――ただ、目を細め、僕の目を見つめていた。
「――なんか――照れるな・・・・・・」
僕は思わず笑みがこぼれた。今までのような、単なる筋肉の歪みによるものじゃない。笑顔の形に顔が緩むのを抑制できなくて、いっぱいになった気持ちがこぼれたように、落ちた笑顔だった。
――僕達はホテルを出て、近くにあったファミレスで、モーニングを取った。昨日買った指輪を、お互い左手の薬指に光らせて。
まだ朝の8時前――師走のこの時期、客は僕達を含め、5組ほどしかいない。
モーニングを待つ間、僕達はコーヒーの香りに包まれながら、ただ笑い合っていた。
僕は、絶えず湧き出る水のように、ただ笑顔が止まらなかった。ただ、心と体が、あまりに軽すぎて、自分の体じゃないみたいで、それをコントロールも出来ず、その気持ちを彼女に表現することも出来ず――ただ笑みだけが、心の奥からふつふつ湧き出ている感じだ。
「たった一日で、何だか別人みたい」
シオリが言った。
「そうかな……」
「うん。すごく素敵な顔をしてる」
「……」
僕は照れながら、コーヒーに口を付けて、俯いたまま、呟いた。
「ドサクサまぎれみたいになっちゃったけど――僕達って、これから、どうなるのかな?」
「え?」
「その――付き合う、ってことになるんだろうか……」
「……」
「あ、いや。僕は、付き合う、って、あまり上手く定義できないし、言葉が好きじゃないんだ。彼女って言葉も、好きじゃない。何だか契約みたいだし、一人の人間を、まるで自分の『もの』みたいに扱う言い方が好きじゃない」
実に感覚的なことなのだけれど、僕はそれを彼女に伝えようとしてみる。
「うん」
彼女はそれを、ちゃんと真摯に聞いてくれている。それが何だか、嬉しかった。
「君のことは……大好きだけど、君を支配も契約もしたくない。一人の人間として、君と側にいたい。一人の人間として好きだから、僕の所有物なんかにしたくない」
「・・・・・・」
シオリは、グラスに入っている氷を、カランと鳴らした。
「だから――まだ呼び名はないけれど……」
僕は恥ずかしさに少し俯いて……
深呼吸して、顔を上げた。
「その、僕の、大切な人に……なって、くれない、かなぁ――っていうのが、今、僕の感情の、一番近いところなんだと、思う……」
「……」
何だ、このプロポーズは。
ムードもありがたみもない。遠まわしでわかりづらい。
こんなことしか、一番大好きな人に言えないなんて。
だけど、彼女を一人の人間として尊重したいから。
僕は、彼女がいつもひたむきで、真っ直ぐで、弱くて泣き虫だけど、だから人の思いを一緒に抱えて、考えて、寄り添ってくれる。
そんなところが大好きだから。
だから、まだこの思いは『約束』にしておきたいんだ。
そばにいる。それだけの約束。
まだ名もない関係の二人には、それだけで十分だから。
「うん。私でよければ、喜んで」
シオリは、僕の大好きな、心を包み込むような優しい笑顔で頷いた。