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すると彼女は、僕達の腰までかかっている掛け布団に手をかけて、少しだけめくり上げる。
「横になって」
シオリは自分の体を布団に潜り込ませる。そして、自分の体をベッドに横たえ、言う。
「落ち着くまで、待ってるから。横になって」
「……」
僕は少し照れたが、彼女の言うとおりにした。布団の中に体を入れる。
だけど、彼女の体からは、少し避けるような位置に。これは多分、僕がまだ彼女に対して自信が持てなかったからだと思う。
僕は目を閉じて、深呼吸を繰り返す。涙なんか随分流していないから、止め方を僕は知らなかった。正解かどうかもわからないけれど、とにかくそうしていた。
それでも、僕の呼吸はすぐに落ち着いた。
布団の中で、隣に大好きな人がいるのは、慣れないけれど、居心地が良かった。
何だか、小さな子供が、親に寝かしつけられているみたいだ。
僕は小さい頃から、頭の発育が早かったから、親にさえ子供扱いされたことはなかった。家族は殺伐としていたし、甘えたくても甘えられるような雰囲気でもなかった。
だから、まるで彼女が隣にいてくれるのは――胸の奥がじんわり暖かくなるような、布団を被ってしまいたい程照れ臭いような、そんな未知の感覚だった。
「何だか……照れるな……」
僕は掛け布団で、口元を隠す。
僕は無条件で何かを与えてもらったことがない。誰かの優しさをこうして受け取ることに、少し当惑した。
それでも、彼女は黙って僕の手を握っていてくれた。
そのまましばらく、そうしていた……
――「落ち着いた?」
目を閉じた中で、シオリの甘く、優しい声が聞こえた。
「――ああ」
僕の心からは、不安と迷いは消えはしないけれど、彼女に対する嘘が全て消えていた。
これから、僕が話すことで、僕や彼女がどうなるか、まだわからない。
だけど……
今、何を置いても彼女に伝えたいことがあった。
それを伝えた先に待つのが絶望だとしても、自分の今世紀最大のエゴイズムを。
「――マツオカ」
目を閉じて、仰向けのまま、言った。
「僕も――君が好きだ。大好きだ」
「……」
目を見ないでこんな事を言うのは、男としては反則だろうか。
彼女も当惑しているのか、返事はまだない。
お互いの不安に、直接胸を殴られるように、沈黙が痛かった。
「……」
無骨な僕が、彼女のその優しさに、初めて嘘の鎧を脱いだ。そうすることで、僕は今、こんな状況でようやく、彼女の事をこんなにも好きだと分かる自分がいた。
でも、僕は、愛しいと思う感情を、上手くコントロールする術を知らなかった。ここまでの思いに、心を全て支配されたことがないから、それをどうやって自分の中に留めればいいのか、わからなかった。
僕の中には、狂的なまでの感情が確かに存在している。そのせいで僕は、好きでもない女を抱こうとしたり、暴力に夢中になってしまった経験をしているだけに、感情の種類は違えど、それをコントロールできなくなる状況が、とても不安だった。
もう、彼女を傷つけたくなかった。泣かせたくなかった。その重いが、彼女への想いよりも先に出ていて、僕は男として情けないくらい、次の一歩に躊躇していた。
「……」「……」
視界を封じていて、今、僕が彼女の動きを読み取るのは、繋いでいる右手だけだった。
彼女は、一度だけ僕の手の中で、指先を動かした。まるで心臓の鼓動のようだった。
その指の動きが、彼女の衝撃を表しているようで……
やっと自分に、恥ずかしさが返って来た。
大真面目な感情を、大真面目に言ったから、言った時は、むしろ冷静なくらいだったけど……
僕も彼女と同じで、人に惚れたのなんだの言うのを、不純だとか思う自分がいるのかな。自分の顔が、今更少し赤くなっていくのがわかった。
「……」
だけど……
僕はこの先、好きな人に言うには、あまりに辛い一言を言わなければならない。
だから、あまりの悲しみを堪えようとするように。
僕は、彼女の小さな手を握る右手に力を入れていた。
「けど……ついこの間まで、僕は君のことが、大嫌いだった……」
「……」
胸が痛い。彼女の涙を見た時の比じゃないほど痛い。
大好きな人に、嫌い、って言わなくちゃいけないことが、こんなに辛いなんて知らなかった。
言葉も、勝手に尻込みする。痛みに耐え切れずに。
「僕は君を避けた時期があった。そうしているうちに、僕は君の事を、『敵』だと思ってしまった時期があったんだ」
「……」
僕は深呼吸する。
そして、目を閉じたまま……彼女の手を握る力も全て抜けて……
絶望的な事情を口にした。
「僕は、家で毎日のように、親に殴られてるんだよ」
「え……?」
シオリの、吐息の混ざるような声が聞こえた。
「君の言うとおり、僕も昔は君と同じ、家族のために心を殺しても、優等生をやっているような人間だった。だけど僕はそれを、僕の手で壊してしまったんだ」
そう切り出して、僕はそれから、目を閉じたまま、たどたどしくも話し続けた。
家庭が最初から崩壊していること、小さい頃からその仲裁に追われていたこと、親から身を守るため、荒れる家が見ていられないために、勉強していた日々。大きくなって、それに反発したことで、今では家族の最下層として、日常的に虐げられていること。
そして、小学校の時、勉強ばかりのためにいじめられて、その時から、巨大な力を欲したこと。その後中学で親父に何度も屈辱的に負け、僕は更なる力を求め、やがて力に取り付かれたこと。
「力が欲しい僕にとって、君はユータは、僕にとって、邪魔な存在だと……そう、思っていた時があったんだ。何故勝てないのか、あいつさえいなければ、とか思っていた。僕はもう、力に取り付かれていて……君やユータに嫉妬して、憎しみを生んで、でも君も、ユータ達もいい奴だってわかっているから、それをぶつけるのが嫌で、僕は人付き合いを避けた」
「……」
「でも、そうしているのが、君や、ユータ達の暖かみに触れて、辛くなってきて……でも家に帰れば、いつだって惨めに押さえつけられて……家に帰れば、その思いが潰されて、力への執着から抜け出せなかった。そうして、どんどん歪められていく心に押しつぶされて……自分がまるで、どんなに頑張っても、人の暴力にしいたげられるしか価値のない人間だと思えてきて……それで……」
今思えば、僕は一体何をしていたのだろう。
あの時の僕は、足掻いて、足掻いても、足掻いても、結局最後にはあの家に戻って殴られるという環境から抜け出せなくて――
それが僕の存在価値だと思った。自分をそんなにした世の中や、僕の目に入るもの全てを憎んだ。
それ以外の存在価値しかないのであれば、早く楽になりたくて……落ちること、壊れてしまう事を望んで……それに僕の心の奥の闇が呼応した。僕の精神はあの時、確かに崩壊していたんだ。
そして、ボロボロになって、体も停止して、悪夢に苛まれていた時に……
目を覚ましたら、大切な親友と――
君がいたんだ。
「君が……そのまま堕ちていきそうな僕を拾い上げて、止めてくれた。君は、その気はなかったかもしれないけれど、虐げられるだけだったはずの僕に、生きる事を祝福してくれて、励ましてくれたんだ。とても嬉しかった……」
「……」
「だから、君のことが大好きなんだ。君を心から、大切だと思えるんだ。でも……」
言いかけて、僕の体の力は全て消失し――
シオリの手を握る力も失った。
その手を離すと、僕はごろりと寝返って、シオリに背を向けた。
顔の方に、じわっと熱いものがこみ上げてきた。それがまなじりを伝った――
伝う?
僕は、目を開けて、指で目を撫でると、しっとりと指が濡れた。
涙だ。あれだけ流してみたい、と思っていた涙が、今、また僕の頬を伝っている。
涙を流すって、大切なことだと思った。胸が痛い。鼓動が早い。体が熱い。焼け付くような息が、胸の奥から押し出される。肩が震えた。
これが17年の重みなのか――初めて誰かにこの心を解き放って、胸は切り裂かれるように痛くて、歪んだ思いは見るのも辛かった。
「だい――じょうぶ?」
「――ああ……」
「だったら、こっちを向いて」
彼女の、震えるように切ない声が、耳に痛い。好きになった人に、僕の胸の内をさらした後味の悪さ――
気持ち悪い。
たまらなくなって、僕は布団の中で、大きく慟哭した。僕の泣き声が、静かな部屋に反響した。
「もうわからないんだ。自分が努力してきたのは、自分が幸せになりたいからだと思ってた。だけど、段々僕は人の上に立って、下に引き摺り下ろした人間を馬鹿にして、憂さ晴らしをしたいだけみたいに思えてくる――君にテストで勝った時も、僕は君が悔しがるのを望んでた――まるで、誰かの不幸を必死で探しているようで―どんどん自分があの家族と同じ薄汚い人間みたいに思えてくるんだ。あの家族のように、弱い者いじめをして、憂さを晴らそうとする心が、僕の心にも……」
語れば語るほど、涙が溢れた。
こんな汚い自分を晒すことの怖さや、愛する人に憎しみをぶつけた自分の懺悔や愚かさが、僕の心に激しい痛みを訴える。
「こんな奴のために、手を差し伸べてくれる君や――あいつらに嘘をついているのが辛くて、何かを償いたくて……何も出来ない自分が無力で……そんな思いを抱えながら、家族に自分を否定されると、自分がどんどん嫌な奴に思えて来るんだ。どうしていいかわからずに、もう全てが嫌になってしまって……また人を悲しませて……自分はそんなことしか出来ない、最低の人間だって思えてくるんだ……」
僕は布団で、嗚咽の声を殺しながら言った。小さく体を丸め、彼女から、こんな自分の姿を隠すように。
「……」
しばらく、沈黙が流れた。
その後、僕の後ろから、彼女の声がした。
「あなたはそんな人じゃないわ」