Tears
「……」
沈黙。
「最初は憧れだった。あなたは私とは違って、自分ひとりで全てを変えられる力を持っているように見えて、羨ましかった。ただの優等生でしかない私も、あなたみたいに、強くなりたい、って。あなたのその強さに憧れたの」
「……」
「でも、段々その思いが変わってきた。あなたのぎこちない優しさや、落とすように笑う笑顔、沈んだ真っ直ぐな瞳――私は、あなたの持つ、何でも完璧にこなすところじゃなく、そんなあなたの人間らしさ、不完全さがとても愛しいと思った。だから……」
「……」
僕は今、世界一幸せな男かもしれない。
すぐ隣に、今僕が一番愛しいと思う人がいて、その人も僕を、こんなにも好きだと言ってくれている。
だけど……
僕はまだ、彼女を好きだと言えない。
僕はまだ、嘘をついているから。本当の自分を、彼女に受け入れてもらえていない。
このままでは、いずれ彼女を傷つけてしまうんだ。
それでも……
「――何でそんな、心境の変化があったんだ?」
それだけ聞いた。
後ろから、彼女の声がした。
「私は、はじめサクライくんもそういう勉強漬けの時代を何らかの形で経験して、私と同じ苦しみを抱えたんじゃないか、って、はじめ、思っていたの。高校に入学した頃、あなたと私は今後比較されるだろう、って、色んな人に言われたし。何となく私とサクライくんは、同類と言うか――近い考えの持ち主なのかな、って」
「……」
「でも、時が経つにつれて、わかったの。サクライくんは私とは全然違う……」
「……」
「何が違うのか、サクライくんはモラルに縛られない自由さを持っているからだ、と思った。私も、周りを気にせず、サクライくんみたいに、自由になりたいと思った。そんな生き方に、私は憧れたんだと思った。でも、それも違った」
「……」
「こんな事を言うと、怒るかもしれないけれど……サクライくん、あなたは自由なんかじゃない。何かにすごく縛り付けられている。周りの皆は、授業をサボって、自由気ままだなんて言っているけど、本当は、縛られているものから、少しでも遠くへ行きたいと、もがいている――そんな気がして」
「……」
見抜かれている。彼女の一言一言が、僕の行為、思考を反芻させる。
自由や、目的――僕にそんなものはひとかけらだってない。心は既にがらんどうのようになっていて、負の感情以外の行動は、何となく見様見真似で演じていただけ。
心が空っぽなのに、燃えているように見えるのは、僕の胸の奥にある、怒りや憎しみがあるから。燃やすものも既にないのに、灯油だけで無理に心を燃やし、日に日に心は焦げ付き、痛み、後には今まで燃やし続けたものが、灰となって心の底に絶えず沈殿していくのみ。
そうだ。学校では、他人の干渉を避けて、授業にも顔を出さず、自由人を気取っているのは、せめてそのくらいの自由が欲しいと、足掻いているだけ。実際はそれで、ギター弾いたり本を読んだり、無益に時間を潰しているだけ……
「あなたは、空っぽで、もう心で燃やすものなんか、何もないの。私と同じ――なのにあなたからは、とても強い意志の力を感じる。無理をしている。辛いはずなのに、他人にその素振りをまるで見せない。心の中がボロボロなのを、普段の無口や無愛想で隠してる……」
「……」
「そして、本当は優しい人なのに、変に悪ぶって……でも、それが苦しそうで」
「……」
「おかしいよ。矛盾だらけで、もうあなたは、本当の自分さえわからないはず」
「……」
優しい――か。
それだけは、自覚がないんだよな。僕は他人に優しくされたことが、あまりないから、どうすれば人が優しいと感じるのか、よく知らない。
だけど――彼女は僕の心のバランスが、ずっと前から崩壊していた事を、見抜いている。幸い、僕の本性までは気がついていないだろうけど……
もはや色々な方向から歪められて、本当の自分がどんな奴かなんて、彼女の言うとおり、今の僕はそれを見失ってしまった。
ただ、本当の自分を曝け出すことの恐怖は、いつも心に抱いているんだ。あまりに歪められた僕の本性は、本当に醜く、最低な人格なのではないかと思ってしまって……
「そんなあなたが、いつも人に優しいと……まるで自分が満足に与えてもらえなかったものを、身を切ってまで与えるようで……何だか、とても痛々しい」
そう言って、彼女は僕の右手に、自分の右手を添えて――そっと包み込んだ。
「あなたがもし、何かに縛られていて、自分を見失いそうなら、その正体を教えて欲しい」
「……」
その言葉を聞いて、胸の中に愛しさが溢れてくる。
この感覚を、前にも味わった気がする。
まるで乾いた土に雨が染み込むように、ゆっくりと、だけど確かに、喚起の重いが血管を通して循環していく……自分の心がどこにあるのかわかるほど、心臓が暑く高鳴り、震えるような感動に支配される。
僕は彼女の顔を見たくなって、振り向いた。
「あ……」
彼女は、僕の顔を見て、小さく声を上げた。
「え?」
僕は彼女が、何故そんな顔をするのか、理解できなかった。
だけど、彼女は右手を伸ばして、僕の顔に手を伸ばした。
そして、僕の頬に軽く手を触れて……
違和感を感じて、僕も逆の頬に手を伸ばした。
「あ……あれ……?」
僕の頬が濡れていた。
僕が、涙を流している。
「え? へ、変だな……止まらない……」
僕は泣いている姿を彼女に見られるのが恥ずかしくて、照れ笑いを浮かべながら、また目を背ける。
昔から、泣いて何かを吐き出したかった。そう求めても、心が死んでいて――悲しみに慣れ過ぎていて……
求めても、一滴も流れなかった涙。
自分が、嬉しくて、嬉しくて、たまらなくて、涙を流せるなんて……
僕に、こんな日が来るなんて……考えたこともなかった。
吹雪に閉ざされていたような僕の心が、急に静かになって……
まだ冷たい銀世界だけど、少しだけ、太陽が覗いた気がした。
涙を流せたことで、少しだけ心が楽になれた気がした。心の固くなった部分が、少しずつ溶けていく――、
自分の中に差す、太陽の存在に気付くことも出来た。
「……」
――いいのかな。僕。
彼女にすがっても。
彼女を傷つけてしまいそうで、とても恐いけれど……
でも、彼女は、僕にとって太陽のような、あたたかで、希望に満ちた存在で……
僕はもしかしたら、今の今まで、彼女の事を信じていなかったのかもしれない。
大好きな人が、側にいてくれる、と言ってくれたのに。
僕は、それを信じきれていなかった。
「――ごめん」
僕は、涙で少し震える声で、何とかそう言った。
「話す――全然つまらない話だけど……僕の懺悔を、聞いてくれるかな」
僕の声は、嗚咽で途切れ途切れになったけれど、何とか言い切った。