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Depression

 僕が都内の私立付属高校から県立の高校に移った最大の理由はこの近さだった。中学も進学校だったけれど、地元に同じように実績のある学校はあった。それが埼玉高校。

 私立に比べて学校の設備はひどいが、夏場教室にクーラーがなくても僕は耐えられるし、交通費はかからないし、落ちこぼれずにも済んだ。サッカー部だって全国を目指せなくはないし、平均よりちょっといいくらいの高校生活を送れていることは確かだ。

 そのはずなのに……

 川越は昔、北条氏康の川越夜戦で有名な川越城の城下町で、この辺りにはその名残が残り、今でも小江戸なんて異名も持つ。さっきから続くこの商店街の石瓦の家作りは蔵作りといわれ、江戸時代の大火で木造の長屋は焼け、この造りの家だけは耐火に優れ残ったという。現在ではこの蔵作りは重要文化財として認定されているし、電柱を地中に埋め、観光地としての景観を守っている。

 そして僕の家は、川越で有名なさつまいも菓子の店。親父で4代目。幸い平均的なサラリーマンより若干多い程度の年収を得ている。

 商店街の路地を右に入り、二つの家が両手に伸びる。僕の家はその左、路地奥左のガレージに、二台入っている車の横をすり抜けて、脇に自転車を滑り込ませる。ガレージは家を吹き抜けにして、僕が自転車を止めた目の前には、店で雇っているパートさんのロッカー兼更衣室。

 自転車は小学校の頃から乗っているマウンテンバイク。背の低い僕でもサドルをいっぱいに上げて、それでも小さい代物だ。だけどしっかり鍵をかけておく。

 色んな人に、ものを大切にする、と言われる。ものを大切に出来る人は、友達や彼女も大事にするんだよ、なんて、誰かが言ってたっけ。確かにものを擬人化すれば、その理屈はわからなくもないけれど……

 友達や彼女を大切にするって、一体どういうことなんだろう。

 例えば消しゴムのように、使えるだけ利用して、小さくなってもう消しゴムとしての用途をなさなくなったら、冥福を祈って新しいものに変えざるを得なくなるまで使用する関係のことだろうか。

 それなら結婚したら、女の人は旦那が給料を運ぶまで大事にして、定年になってそれを果たさなくなったら離婚してしまうようなのが、人を大切にするってことなんだろうか。ボクシングジムのオーナーがジムの名を上げるために、将来有望な選手を廃人にするまで試合をさせて、もうボクシングが出来なくなったら、感謝の言葉のひとつもかけて首を切るようなのが、人を大切にするってことだろうか。

 『モノ』を大切にするって考えは、ほとんどが一律の答えがあるけれど、人に優しくするのは難しい。ただ、対象が生きているってだけで、優しさっていうのはその定義が難しくなる。

 それでもそんな考えが残るのは、きっと、年々人と『モノ』の境界線がぼやけているからだろう。サラリーマンは会社に、『モノ』のように使われ、人は友や恋人を、退屈しのぎの道具として扱う。人が人を「使える」「使えない」の物差しで見ている何よりの証拠だ。

 人間は、『モノ』化しているのだ。

 そう、この僕も、この家では……

 我が家は店だけは数年前に改装したが、居住区は地区四十年を数える。一回は風呂場と工場しかない。

 玄関の華奢な門扉を開け、長年の風雨で色が落ちかけている、茶色の重苦しい木製のドア。蝶番は数年油をさしていないから、開けると怪獣の欠伸みたいな音がする。

 薄暗い玄関に入ると、二階から、二人の女の怒鳴り声が聞こえてきた。

「何? 私のすることに文句があるの?」

「何なのよ! ただ、私も鍋が食べたいなぁって、言っただけじゃないの!」

 溜息が漏れる。

 黙ってスニーカーを脱ぎ、自転車のキーを、玄関のコルクボードに刺してある画鋲にストラップでつるして、二階へ上がっていく。



 言い合っているのは、僕の母とその姑だ。僕が生まれる前から、僕達家族は、祖母と家庭内別居をしている。それでも、一緒に住んでいる以上、こうやって、毎日のように、些細なことで大騒ぎになる。よくある話だが、あの二人の仲の悪さは異常だ。まあ諸々の理由があるからなのだが、長い話だし、考えると憂鬱になってくるから、なるべく思い出さないようにしている。そんなことをさかのぼったって、解決の糸口はありそうにない。

 二階に上り、リビングに入る。入って右側が、畳二畳分ほどしかない、狭いキッチンで、左側が二十畳ほどのリビングルームだ。

 母と祖母がはっと静かになり、そこに立ちつくし、目を血走らせている。リビングにある、重みのある木造のテーブルにガスコンロが乗って、その上に野菜の残骸が浮いているだけの土鍋がある。

 あまりに仲が悪いため、僕達は祖母と家庭内別居している。だから、祖母は一人で、鍋料理など食べる機会が無い。母と妹が鍋を食べているのを見て、何かぽろっと口走ったせいで、母はその言葉を、皮肉と受け取ったのだろうと、僕は状況を整理する。

 ガスボンベが、もう半月は掃除機をかけていないだろう床に転がっている。恐らく、母が投げたのだろう。転がっている場所から、ぶつかっただろう壁を見ると、木製の壁に、彫刻刀で彫ったようなへこみ傷が出来ている。

 僕はバッグを置き、その場にかがみこんで、ガスボンベを拾い上げ、手近にあった棚の上に置いた。

 一瞬、二人の目は僕に向けられたが、僕はバッグを担ぎ上げ、視線を合わせないようにして、その場を退散した。

 リビングの奥にあるドアを開け、すぐに閉める。その先は廊下で、右手の障子を開け、中に入る。中は日本間だ。僕の部屋にはテレビが無いので、この部屋にあるテレビを使っている。バイトは八時からだ。それまでしばらくここで休むことにする。

 8畳間の部屋にあるのは、姑専用の冷蔵庫と、マッサージチェア、そして、仏壇である。

 ワインレッドのマッサージチェアに腰を下ろしてテレビをつける。今日は日本対アルゼンチンのサッカー親善試合がある。既に後半だった。

 今日の朝に、録画セットをしておいた。とはいえ、既に四‐〇だ。日本も欧州組を召集しなかったこともあるが、さすがアルゼンチンは主力メンバーを揃えただけある。圧倒的な攻撃力を誇るアルゼンチンに、点を取られるのは仕方がないが、日本もせめて一太刀は浴びせてほしいものだ。

 二人の喧嘩は第二ラウンドとばかりに再開されていた。僕はテレビのボリュームを上げて聞こえないようにしたが、音がミックスされ、余計に騒がしくなったので、すぐにボリュームを落とした。やがて何かを叩きつけるような音がし出す。僕は椅子にどさっと身を倒した。

 がらっと、台所の方の引き戸が開いた。振り向かなくても、開ける音の癖でわかる。祖母だ。僕は、反射的にテレビを消し、目を閉じる。

 マッサージチェアの隣に来て、僕の肩を掴み、そこに崩れ落ちて、泣くフリをする。

「ねえ、ケーちゃん、聞いておくれよ。おばあちゃん、もう死にたいよ・・・・・・私は、鍋が美味しそうだって、言っただけなのに……」

 それだけ言いかけると、すごい足音を立てて、母がやってくる。

「ちょっと! 何でそういうこと言うのよ!」

「……」

 僕が、物心ついた頃からやっている役目、それが、二人の喧嘩の尻拭い――仲裁だった。

 自分で言うのも何だが、僕は子供の頃から頭の発達が早かった。三歳くらいの頃は、喧嘩が起こると、いつも妹と一緒に布団をかぶって震えていた記憶だけが鮮明に残っている。しかし、僕が幼稚園に入った頃になると、僕はいつも喧嘩の話に引きずり出された。場合によっては手が出た。

 僕はいつの間にか、家族のパイプ役になっていた。喧嘩に引きずり出されて、一方的に責め立てられた。愚痴を聞けと言われれば、黙って何時間でも訊き、気に入らなければ黙って叩かれた。しかし僕は抵抗しなかった。僕は子供心に、荒れる家族が見ていられなかっただけで、家族がこんなに荒れるのは、互いにストレスがたまっているからなんだ。だから、僕が皆の話を訊いて、家族がピリピリしないように、ストレスを取り除いてやろう――と、幼い僕は信じていた。

 しかし、僕はやがて、家庭の複雑さを理解できるくらい大きくなり、色んなことを悟った。この喧嘩に意味などない。修復することは不可能だと知り――僕は全てを諦めた。

 しかし、その時にはもう遅かった。話を拒絶すると、祖母は泣きながら仏壇の前にひざまづき、死にたい、と言う。母を拒絶した場合、激昂して僕を罵る。それに反論すると、二言目には平手の応酬だ。家のシステムが既に出来上がってしまっていて、僕はそこから抜け出せなくなってしまっていたのだ。

「昔のケーちゃんは、もっと聞き分けのいい、優しい子だったのに……」

 お決まりの一言だが、こう言われてしまっては堪らない。その度僕は幼すぎた過去の自分を呪う。

「じゃあ私はどうすればいいの!」

「嫌だったら老人ホームでも、どこでも行ったらどうなのよ! 金はあるんでしょ?」

 母が怒鳴ると、祖母が日本間を出て行く。引き戸を勢いよくびしっと閉める。母はそれを追いかける。祖母の部屋は階段の前、妹の部屋の隣だ。そして、祖母の部屋には鍵がついている。

 何かを噛むような、鍵をかける金属音が、開けっ放しの引き戸から聞こえてきた。母がその戸を、壊れるんじゃないかというくらい強く叩いている。音が廊下に反響して、雷鳴のようだった。何かプラスチックみたいなものがドアに当たる音がすると、バキッと、何かが折れる音がした。

 不本意ながら立ち上がり、僕がそこに駆けつけた時には、母の足元に、絆創膏やら、包帯やらがぶちまけられていた。消毒液が、廊下に飛び散って、匂いが充満していた。どうやらプラスチックの薬箱をドアに投げつけたらしい。蓋の蝶番が、落下の衝撃で折れ、蓋が真っ二つに折れて、中身をぶちまけ転がっていた。

 それでも奇声を上げて扉を叩き続ける母。我が親のこんな姿は、疲労と目を覆いたくなるような脱力が、なんとも言えない心境に身を落とさせる。テストの結果が悪くて、目を抑えてベッドに倒れこむような、そんな気分に似ている。

「逃げないでよ!」

 怒り狂って戸を叩く母の声を聞きながら、僕は深く俯き、額を覆った。母も祖母もキンキンした声の持ち主で、試合で疲労した僕の大脳辺緑系を収縮させたような感じ。

 しかし、不本意ではあるが、近所迷惑になる前に僕は二人を止めないといけない。


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