Laugh
軽く息を吸って、笑い声を噛み殺した。顔から手を離し、僕はシオリの顔を見る。
不思議そうな――呆気にとられたような顔をしていた。自分の顔が、まだ少し緩んでいるのがわかる。人前で笑うのが恥ずかしくて、僕は反射的に顔を手で隠した。
だけど本当は、上手く笑えたことに感謝したかった。
お陰で変な考えが吹っ飛んだ。元々の、彼女と一緒にいたい、という想いだけが残り、彼女をこんな所へ連れ込んだことで生まれる変な感情が振り払われた。
「――悪いね、笑ったりして」
僕は軽く謝った。彼女を揶揄するつもりで笑ったのではないことは、信じて欲しかったから。
しかし、シオリはまっすぐ僕を見ている。そして、彼女も柔らかく微笑んだ。
「今日――初めて見た。サクライくんが笑ってる姿。いっぱい見た」
彼女も、朝からの彼女に戻っていた。もう不安はないようだった。そこには、朝からずっと一緒にいた、僕の心をほのかに暖める、彼女の微笑があった。
「ああ――」
些細なことで、重苦しい空気が中和された。僕の脳はまた柔軟に動き始めた。
「サクライくんも、そうやって笑うんだね。そんな笑顔が見れて、嬉しかったな、今日は」
「そうかな……」
僕はまだ軽く濡れている髪の毛を触る。
「そう言われると、ちょっと照れるな……あまり人前で笑ったことないから、変な笑い方してなかったか、心配になるよ」
「ううん、大丈夫。自然に笑えてたと思うよ」
彼女ははにかんで、肩をすくめながら言った。
そこでお互い、照れてしまって、少し言葉を詰まらせた。僕は照れ隠しに彼女から目をそらしながら、部屋をぐるりと一瞥した。
「その……ごめん。ろくな説明もなしに、君をこんな所に連れ込んで……さっきまでそのことで君がどう思ってるか考えてて、少し焦っちゃってたんだ」
「うん……」
「ごめん。僕のエゴに付き合わせて――嫌じゃないか?」
そう訊くと、彼女は、僕に対して、軽く微笑んで、言った。
「大丈夫。少しびっくりしたけど……」
と、そこで彼女は視線を落とした。
「電車の中で、私も色々なことを考えてたの。どうしていいかわからなかったから……ちょっと変なことも考えてたの。エッチなことになっちゃうのかな、とか……」
言ってから、彼女は目を背ける。部屋の薄暗い照明の中でも、彼女が赤面しているのがはっきりと見える。バスローブからわずかにのぞく白い素肌まで、ほんのり赤く染まっている。
沈黙。
「で、でもね、サクライくんもいっぱいいっぱいみたいだったし、悪意のないのはわかったから」
「……」
「今、ここでこうしている理由を、無理に訊く必要ないかな、って、思ったんだ。ホテルを探してる、サクライくんの焦った顔を見てたら」
「……」
沈黙。
「僕、君ともっと、話がしたいな」
「うん、私も」
自然とそういう気持ちになっていた。お互いの気持ちが共通して出た行動だった。
と言うか、彼女をここに誘ったのも、ただ彼女ともうちょっと、話がしたかったからだけなのかもしれない。僕達はやっと話の本線に戻ったという感じ。
僕は布団を半分めくって、シオリを中に入れた。ベッドの隣にあったスタンドをつけ、部屋の電気を落とす。そして僕もベッドに入る。ベッドの頭の方の縁を背もたれにして、下半身を布団に滑り込ませ、足を伸ばして座った。お互い小柄が野で、このベッドなら二人とも寝返りしても大丈夫そうだった。
彼女の顔を見つめると、彼女も僕を見ていた。まだ少し濡れたストレートの黒髪が艶めいていた。目は綺麗に濡れていて、瞳が彼女の清廉さを現しているようだった。
「――その、これを言うことに大した差があるかわからないけれど……」
「え?」
シオリは首を傾げる。
「君ともっと、話がしたかったんだ。お台場で君を引き止めた時、僕の正直な気持ちは多分、それだけだったんだ。引き止めちゃってから、こんな所に来てしまって、状況に流されて、考えがおかしくなってただけで……」
「……」
「いけないね。そんなことで道を見失ってしまって」
「でも……時々は仕方ないよ」
「……」
彼女は、そこでいつも僕をほっとさせる、あの微笑を浮かべ、少しいたずらっぽく言った。
「お互い、まだ高校生なんだし。そんなに何もかも器用には出来ないよ」
「……」
観覧車で、僕が言った「まだ高校生」という発言を、そのまま返された形だ。
この娘、本当に彼氏がいたことがないのだろうか。男とベッドに入っているのに、少しも不安めいた素振りを見せていない。むしろ、ここまで僕を信じきった目をされることに、こっちが罪悪感を覚えるくらいだ。
「さて、どんな話をしようか?」
僕は、隣のシオリの顔を見た。
「僕の話はつまらないから、すぐ眠くなるよ」
「じゃあ三国志のお話をして」
「え?」
僕は首を傾げる。
「エンドウくんが言ってたの。ケースケと話す時、煮詰まった時は、三国志の話をフッてやれって。サクライくんって、諸葛孔明を尊敬してるって言ってたから」
「……」
ジュンイチの奴。何でも見透かしている。今日、僕が彼女と話が煮詰まって、困ることも奴は想定していたんだ。当の本人は今頃、全国大会前の練習に疲れて、今頃は寝くたばっているだろうけれど。
「そんな話訊いて楽しいのか?」
「何でもいいの、サクライくんの話が聞きたい」
「――ならいいけど」
調子を取り直すように、一つ咳払い。
僕は、機関銃のように話し続けた。自分の好きな武将や、好きな武勇伝の話。 恐らく、テレビで放送されたら、早送りで飛ばされてしまうような話を繰り返した。
「三国志で一番好きな武将は、蜀では姜維かな。関羽、張飛、趙雲も捨て難いんだけど。て言うか皆、姜維を過小評価し過ぎなんだよ。姜維は、日本で言えば土方歳三みたいな扱いされたっていいはずなのに。あ、姜維って言うのは、僕の好きな孔明の弟子なんだけど……」
僕は何の脈略もなく、話を強引に取り付けながら、早口で言葉をまくし立てたが、そこで僕は、呆気にとられたようなシオリの顔を見て、我に帰り、言葉を止める。
「ごめん、なんか、僕ばかり喋っちゃって……」
あまりに普段とキャラが違いすぎる。身振り手振りなんかして、何熱く語ってるんだ? しかもなんてつまらない話をしているんだろう。デートで、しかもベッドインしてする会話ではない。
だけど彼女は、今日何度も僕に見せてくれた、僕を優しい気持ちにさせてくれる笑顔を返した。
「サクライくんがそんなたくさんお話してくれるとは思わなかった」
「そうかな……」
「うん……」
沈黙。
僕は少し喉がいがらっぽかった。さっきの喋り過ぎが原因だろう。
「……」
僕が黙ると、部屋は水を打ったような静寂に包まれる。
外からは、車が轍を残す音も聞こえない。まるでこの部屋は、宇宙の浮島みたいに静かで、二人だけの空間になっていた。深々とした静寂が、彼女の存在をより際立たせた。
「今度は君の番だ」
「え?」
「話」
僕は彼女の目を見た。
「そういえば僕、君の話をちゃんと聞いたことって、あまりなかったな」
「……」
彼女は一瞬ためらうような、そんな表情をして、一つ溜息を吐く。
「きっとうまく話せないよ。気持ちがぐるぐるしていて、言葉がまとまらないもん。それでも――いいかな?」
「お金を取るわけじゃない。僕が好んで話を訊くんだ。この場合、君は僕の返答を訊いて、何かを感じる役だ。何も感じなかったら、それは僕の責任だから。それくらいの気持ちで僕に話してくれればいい。僕は何でも訊くから」
なんてうまくない言い方だろう。せっかく僕を信頼して相談をしてくれる女の子に対して、あまりに冷たすぎる。僕の言葉って固いっていうか、優しくないよな。今日何度も思ったことだけど。
「ありがとう」
それでも彼女は僕に礼を述べた。僕は少しほっとした。
「どうぞ」
僕は彼女の顔を覗き込む。
彼女は少し強張った表情のまま、5秒ほど俯いていたが、僕の顔を見上げて、すぐに切り出した。