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「疲れてるなら、シャワー浴びてきなよ。僕は君の後、借りるから」
「うん……」
しかしシャワールームは、ベッドルームの隣にあって、それを隔てているのは、擦りガラスではなく、普通のガラスだった。ベッドルームから、シャワールームの中は丸見えだった。
「……」
かなり無理のあるシャワールームだった。明らかに『一緒に入るカップル用』だった。
「見たりしないよ。見たら退学に訴えられても、文句は言えないし」
「うん」
彼女はぎこちなく微笑んだ。ジョークのつもりだったが、僕の言葉は完璧にスベった。あまりに場の空気が重過ぎて。
「別に、サクライくんが覗きとかする人とは思ってないの」
「……」
どうして、彼女は僕のことを、こんなに信じてくれるんだろう。何度も泣かせて、傷つけて、挙句初デートでこんな所に連れ込んだ男を。
抱くことが、彼女を傷つけることで、抱かないことが、彼女を思いやっていることなんて、誰が決めたわけでもないくせに――こういうのを、固定観念って言うんだろう。僕はいつまでも、ここから抜け出せないでいる。自分の意志で、善悪、好悪、真偽――何一つ判断できない。
今もそうなんだ。どうしていいかわからないのは、僕の意志で正解をいつまでも選べないから。
クローゼットから、小さい方のバスローブをハンガーごと引っ張り出し、自分の着ているダッフルコートを脱いだ。首からクロスのチョーカーをはずし、ダッフルコートのポケットに入れて、持っていたハンガーに、ダッフルコートをかけた。
「サクライくんのコートもかけておいてあげる。貸して」
「ああ……」
変に積極的なシオリに疑念を抱きながら、僕もマフラーを外して、羽織っているコートを脱ぎ、シオリに手渡した。
シオリは僕のコートをかけてくれた後、僕の目を避けるように脱衣所に入って行った。やっぱり彼女ももう余裕がなかったんだ。僕と対峙しているのが、よっぽど苦痛だったに違いない。
一人部屋に残され、のぞきの疑いがかかる前にベッドに倒れこんだ。大の字に寝転がり、疲労したふくらはぎに血の巡るような感覚を感じながら、大きく深呼吸した。
「……」
病院で、彼女の涙を見た時、もう二度と、彼女を絶対に傷つけたりしないと誓ったはずなのに――
彼女を思いやろうとするなら、こんな所に入らなきゃ良かった。今日の夢心地を、自分から壊してしまったような気がして。全て諦めて、家に帰れば、彼女には何の心配も与えないで済んだのに。
前にラブホテルに入った時――あの時は、どうだったっけ……
あの時も、確かにタカハシ・ミズキに対する罪悪感はあった。だけど、あの時は、自己を正当化する思いがそれに勝っていたのかも知れない。
今回の想いは、あの時とは全然違う。
こうして息苦しい空間で時間を共有することで、彼女に対する色々な想いが募る。胸の奥が、少し苦しくなる。
あの時と、誰かに救いを求める気持ちも状況も、まったく同じなのに。ただ相手が違うだけで、嫌われないかと、とても恐くなる。
彼女は、僕に抱かれれば傷つくだろう。僕だって、もう自分の欲望だけで、彼女のことを抱いたりなんか出来ない。
もう誰も傷つけたくなかった。特に彼女のことは、絶対に。 今日一日、この温もりをくれた、彼女のことは……
「……」
どうして彼女に対して、こんなことを考えてしまうんだろう。
どうしてこんなに胸が締め付けられるのだろう――どうしてこんな気持ちになってしまったのか。
抱いてしまったら、今の二人の形さえも壊れてしまいそうな気がするからか。夢心地のような一日の最後に、そんなことになりたくないのか。彼女に対して、何か生理的嫌悪があるからか……
濡れそぼった髪をタオルで拭きながら、バスローブ姿でシオリは出てきた。僕は脱衣所のドアが開く音を聞いて、ベッドから体を起こしていた。
「シャワー、空いたから……」
彼女は、何て言えばわからないといった様子で、それだけ言った。
「ああ……」
お互い、言葉が尻込みしていた。15分近くシャワーを浴びていたが、その間シオリは何を考えていたのだろう。
「服、まとめておきなよ」
「あ、そうだね……」
シオリはトートバッグを持って、また脱衣所に入って行った。すぐに出てきたところを見ると、今まで着ていた服を、急いでバッグに押し込んだのだろう。彼女の動きも、何とも頼りなく、しどろもどろになっていた。
シャワー上がりのシオリを見て、僕の心拍数はどんどん上がっている。彼女の顔を、しっかり見ることも出来ない。顔もきっと紅潮しているだろう。体が熱くなってくる。
「……」
やっぱり、僕は恋をしてしまったんだろう。この僕が、今、ラブホテルの中で、初めて恋をした。
認めざるを得ない状況だった。事実、さっきの彼女の姿が、『女の子』じゃない。『女の人』にしか意識できなかった。彼女はとても美しい女性だというのはわかっていたけれど、それに対して何か特別に思うことなんて、なかったのに……
皮肉なものだ。恋の存在に気がついた時が、この最悪の状況――次の瞬間には、それが一気に壊れてしまいそうな。
わざとらしく視線をはずして、大きく息を吐いた。顔を見られる前に僕は、脱衣所に入った。
桃色のスケルトンで、海賊の持つ棍棒みたいに、小さなイボイボのついた、玩具みたいな形のシャワーを浴びたが、気が気じゃなかった。嫌らしい気持ちというよりは、彼女とこの後、どう向き合えばいいか、という不安、緊張、憤りが、まとめて胸に溢れた。
本当は彼女にすがりたいのだろう。こんなに僕は、心の中で、叫んでる……
彼女が優しかったから、それに甘えてしまおうと思ったんだろう。それで何かを忘れたかった。彼女は優しいから、余程のことがなければ、ある程度のことは受け入れてくれるだろうという確信もあって、それが僕の心をひどく身勝手な思いで満たしている。
だけど抱くのがためらわれた。ほんの3日前、そうして女を抱こうとした僕が。
シャワールームは凍えるように寒かったが、体が火照っていて、今が12月であることも忘れていた。最後に冷たいシャワーを頭にかぶって、僕はシャワー室を出た。
シャワー室を出ると、シオリがベッドの上で、女の子にしか出来ない、足を横に曲げて、そこに尻をつける座り方をしていた。キングサイズの大きなベッドに、小さな身体というコントラストは、まるで睡蓮の葉の上に座る親指姫のように愛らしかった。
髪を拭くフリをしながら、僕はバスタオルで視線を隠した。しかし、この時間稼ぎにも限界がある。僕は試合後のボクサーみたいにタオルを肩にかけて、彼女を見た。
彼女もベッドに座ることに、少なからず恥じらいを覚えたのかもしれない。その時にはベッドから立ち上がり、どうしようかと立ち尽くしていた。
「……」
二人、立ち尽くしたまま、時間が止まったように見つめあった。彼女の顔は若干引きつっているけれど、それでも屈託のない、澄んだ目が僕を見ていた。
どうする――何食わぬ顔をして、ベッドに入るか? いや、僕にそんな演技は無理だ。この際押し倒してしまおうか――駄目だ。それだけは何ていうか……最低だ。せめて彼女と話をして、和姦に持っていかないと……って何考えてるんだ僕は。
僕はしばらく思考が暴走していたが、やがてシオリが、沈黙にじれたように、僕に尋ねた。
「緊張してる?」
彼女の屈託のない声で、馬鹿な考えは中断され、僕は無理に苦笑した。
「そりゃもう、今だって……」
それだけ言って、視線を落とす。もう、話すことがなかった。右の掌を額に押し当て、前髪を掻き毟って、下の方に視線を向けていた。
そこで、リモコンがベッドの上、シオリからかなり離れた場所に置いてあるのに気がついた。僕は、顔を上げた。
「もしかして、テレビ――つけたのか?」
僕は聞いた。
「――うん……」
今度はシオリが視線を落とした。
恐らくそこには、彼女の今までの生き方では、理解できないものが映っていたのだろう。
みるみる彼女の耳が赤くなっていく……恥ずかしさを隠そうとしても、隠し切れていない。
「……」
それを見て僕は、思わず噴出してしまった。
くくく、と小さく声を上げ、額に手を当てて、彼女から目を隠したら、こらえきれなくて、声を出してしまった。
本当に可笑しかった。彼女のうろたえる姿が、あまりに可愛らしく、あまりに筋書き通りだった。気を紛らわすために、テレビを点けてみて、そこに移る、男女のあられもない姿を見て、あわててリモコンを手に取ってテレビを消し、そのままリモコンを取り落とす彼女のあたふたした様子が目に浮かぶようだった。