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Hotel

 エレベーターに乗っている時間は、ほんの20秒程だったが、密室に入ると、シオリの緊張が伝わってくるようだった。横にいるシオリは、小さく俯いて、顔を強張らせていた。握っている手も、皮が厚くなったようにしゃちほこばっている。

 エレベーターを降りて、306号室の前へ行く。鍵を僕が開け、シオリを入れてから僕が入り、鍵を閉めた。

 部屋は本当に簡素なものだった。クローゼット、シャワールームにテレビがあるだけで、ひときわ目を引くのが、シーツの整えられた、大きなダブルベッド。その横にはピンク色の照明。テレビの前には小さなテーブルがあり、その上に、配信しているアダルトビデオのチャンネル欄――ベッドの横にはティッシュの箱とコンドームが置かれている。

 僕は真っ先に、チャンネル欄をテレビの横に押し込み、ベッドの横のコンドームを、自分のコートのポケットに隠した。自分がエッチな目的でここに彼女を連れ込んだと思われたくない。僕の、誠意というよりは、自己の正当化から出た行為だったといっていい。

「……」

 いけない――僕はさっきから、何を考えているんだ……

 彼女と一緒にいる時間が延びただけ。それだけのことなのに。

僕もこの、ラブホテルという空間と、彼女の緊張した空気に飲まれているのだろうか。エッチな気分というか、何とも彼女を、一人の女性として、意識してしまう。

 考えないようにするのは、考えているのと同じことで――この思いを払拭しようとすればする程、僕の気持ちはドツボにはまる――彼女を執拗に求めてしまう。

 その中で救いを求めるとすれば、彼女の可憐さだろう。

 まるで花のようにあどけなく、頼りないほどたおやかな彼女の雰囲気は、男から卑猥な心を取り去ってしまうような雰囲気がある。押し倒すとか、姿態を想像するとか、そういう目で汚すことが、何だか悪い気がしてくる程、彼女の美しさには、そんな凛とした気品があった。

 とりあえず、僕はその場に荷物を置き、ブルペンピッチャーみたいに肩を回してみせた。ガチガチになった体をほぐすと同時に、それで、シオリの次の行動を待っていた。

 シオリもそれを見て、自分の鞄を置いて、小さく伸びをした。

 お互いの行動を待っていても、埒が開かない。やっぱり僕が率先して動くべきだ。ここに連れ込んでしまった自分の責任は、自分で処理せねばなるまい。例えそれがどんな結果になろうとも。

 僕はきっかけを見つけようと、入ってすぐにあったクローゼットを開けてみた。バスローブが2着、ハンガーにかかって、バスタオル、ハンドタオルが2枚入っているだけだった。ソファーがあるわけでも、夜景の見える窓があるわけでもない、全然お洒落な部屋じゃなかった。入ってすぐ、ベッドへなだれ込む手続きを踏んだカップル用の部屋だ。

 クローゼットを閉めて、僕はエアコンのスイッチを、ベッドの横の小さな棚の上に見つけた。冬の街を歩き通して、体は冷えきっていた。エアコンのスイッチを入れると、埃っぽい匂いが漂った。

 冷えた頬に暖かい風を感じて、そして、二人同時に溜息をついた。

 僕はもう、取るべき道は二つしか思い浮かばなかった。シャワーを譲るか、ベッドに行くかのどちらかだった。そしてその選択肢の、どちらも気が引けた。

 彼女に側にいて欲しい――僕をゆっくりと締め付ける、夜の牢獄から、今日だけでいいから逃れたかった。そう願う心には、いやらしい気持ちはなかったはずなのに、何故、その半面で、こんな形で彼女を求めてしまうのだろう。僕の思考は、ここに入って一層、収拾がつかなくなっている。

 今はこんな気持ちは必要ない。彼女の存在が近くにいるだけでよかったのに――

 何であそこで諦めなかったんだろう。あそこまでは十分うまくいっていた。こんなことをしていても、いずれはあの家に戻らなくちゃいけない。遅かれ早かれ、この夢からは覚めるのに。

最後の最後で、らしくもなく駄々をこねて、彼女を困らせてしまった。

 こんな時、一番楽な方法は、開き直ることだろう。彼女だって、それなりに覚悟していることは間違いない。遅かれ早かれシャワーくらい浴びるんだ。さりげなく言えればいいのに、僕はその一言を言えない。

 彼女の反応が怖かった。彼女からも『否定』されそうな気がして。

 そんなことを考えている矢先に、シオリが顔を上げて、震えているような瞳で、僕を見た。

「サクライくんは……」

 言いかけて、一度さし俯いて、言葉を止めた。

「こういうところ、来たこと――あるの?」

 質問して、すぐに僕から目をそむけたシオリの耳は、真っ赤だった。

「……」

 嫌な質問だった。だけど、それを聞くということは、僕がタカハシ・ミズキとホテルに行ったことを、まだ彼女は知らないということだ。

 答えれば、ますます雰囲気を重くしそうだったが、ここで立ち尽くしているわけにもいくまい。とにかく二人とも、取っ掛かりを開く血路を見出そうと必死だった。

「正直に言うと、1、2回、ある」

「そうなんだ……」

 ない、とか、清廉潔白を装うのも気が引けて、正直に言ったが、予想通り、嫌な沈黙がやってきた。でも、彼女の前では素直なままでいたいんだ。この思いを無駄にしたくない。だから僕は、この気持ちだけは裏切れない。

 だけど、この今の気持ちだけは、例外だ。この気持ちをさらす勇気が、僕には出なかった。今度こそ歯止めが効かなくなって、彼女のことも、全てのものが壊れてしまうような気がして……

 僕だって、レイプをする性格じゃないけど――こんな可愛い子と、これから一晩っていう時なのに、欲も持たずに無難に過ごすのも、男として野暮ってものじゃないか? 彼女は、僕を好きだって言ったんだし、OKかも知れないし。

 そうやって、物事を軽く考えようとしてみた。だけど出来なかった。

 それは、僕が彼女に恋をしたからか……

 まさか――この僕が……

「あの――とんでもないことをさせてしまったと思ってる。自分で誘ったのに、わけわからないけど、やっぱり君に嫌な思いはさせたくないんだ。だから、もし怖いなら、帰っても……」

 僕は後ろめたさに潰されて、思わず声が出た。何でこんなに後ろめたいのかもわからないまま。

「ううん、いいの」

 シオリは首を横に振った。

「怖くはないの。ただ、こんな所、来たことないから、緊張してるだけ……」

 彼女の、ひなげしの花みたいな笑顔も、ここに来ては、随分とぎこちない。やがて彼女もそれを自覚してか、無理に笑うことを諦めたように、大きく息をついた。

「それに、もう帰れないよ」

 彼女は言った。

「もう終電ないもん」

「……」

 さっきまで終電なんか来なけりゃいいと思っていたのに、いざなくなってしまうと、急に心細くなった。

 僕達は退路を塞がれてしまったのだ。まさに背水の陣。

 ここで死中に活を見出すしかない。


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