Confession
こういう嫌な時間を、僕は何度も味わった気がする。
散々抗って、結局は奈落へ突っ込む。
何も考えたくないけど、何も感じないように、心をいっぱいにしたがる。
全国大会を決めた日の夜も、カレーを振舞った合宿の日も、日常に戻ってすぐ、家族に順繰りに罵倒され、親父に殴られ……
僕の現実はここだと思い知らされた。いくら外で足掻いても、僕に希望などないのだ。こうして淘汰されるだけが、僕の存在価値なのだと。
12時に解けてしまう魔法をかけられたシンデレラは、きっと王子の前から逃げ出す時、こういう気分だっただろう。叶わぬ一夜の夢と気が付かされ、また明日からは継母に虐げられる冴えない現実が待っている。だとしたらこの一夜に何の意味があったのか――
「……」
普段は、それは仕方のないことだと、諦め、半ばと歌や暴力を教授できていたのに――
今日は――今だけは、あの家に帰るのが恐かった。
今、あの家に戻ったら、僕はまた、この芽生えかけた思いを見失いそうで――
家に戻れば、またあの繰り返しだ。僕はもう二度と、希望を見出せず、ここに戻れない気がして……
重い気持ちで、僕は両手で持っていた紙コップを軽く握り潰して、じっとそれを見ていた。
そんな素振りが、きっと何か考え事をしているように見えたのだろう。シオリが気を効かせるように、僕に話を振った。
「もし……」
「ん?」
僕は彼女の声に引き戻される。シオリは俯いていた。僕の目を避けているのがわかった。
「終電が終わっちゃったら、どうする?」
「え?」
僕は少し体を緊張させた。
「あ――た、例えば。例えばの話――」
「……」
例えばの話でも、これはかなりデリケートな事項だと言っていい。
ただ、彼女にはそれを訊く権利があると思った。男と一緒にいて、そういうことを心配するのは、女の子なんだから、当然な気もした。それに、彼女から訊かれたことは、出来る限り正直に答えたかったから。嘘偽りなく。
「そうだな……とりあえず、今思いついた選択肢は3つだな。野宿を入れれば4つだけど、こんな冬の夜に、女の子を冬空にさらすわけにいかないからな」
「その3つって?」
「1、24時間開いてる喫茶店か何かで時間を潰す。2、ホテルを探す。3、タクシーで帰る。でも、よほどのことがない限り、3は勘弁してくれ。破産しちゃうから」
僕は指を折りながら苦笑する。しかし、シオリの浮かない表情を見ていると、あまりに正直すぎたかも知れない。確かに事実でも、ホテルを探す、なんて言うべきじゃなかったんだ。相変わらず僕は対人関係が苦手で、空気が読めない。
「漫画とかだと、終電なくなると間違いなくホテルだけど、今の時代、他にも選択肢はあるから安心しなよ」
何となくそんな彼女を安心させなくては、と思って、わけもわからず変な事を口走る僕。
でも、もう本当は、もうどうしていいかわからない。僕は今、心のどこかで、終電なんか来なければいい、と思っている。けど、それは、一人になりたいから? それとも、彼女と――
その答えも、自分の中では既に出ている。だけど、僕はそうなったとき、彼女と一体どうなりたいんだろう。それだけは、分からなかった。
「……」
ビーナスフォートの中は、10時を過ぎて店も閉まりはじめ、飲食店のラストオーダーも終わる。噴水広場も、もう掃除の係員と、数人の客がいるだけだった。残りは足早に、出口へと向かっている。
係員に声をかけられる。
「すみません、そろそろ閉館ですので……」
「……」
そう言われては仕方がない。僕はベンチから立ち上がる。
だけど――内心では、もうこの時点から、僕はあの家に向かって歩を進めるという現実に、心が気だるいような深淵に落ちる感覚を味わっていた。
今日一日、色々なことがあったけれど、それさえも不毛に思えるほどの倦怠感。
「じゃあ、行こうか」
僕は肩に鞄を掛け直して、踵を返した。
すると、僕の左腕が何かに引っ張られた。
振り向くと、シオリが座ったまま僕のコートの袖を掴んでいた。
「どうしたの?」
僕は聞く。
「……」
シオリは、真っ直ぐに僕の目を見つめていた。緊迫感はあっても、病院の時のような、怒りを含んだ目ではない。彼女の明鏡止水の輝きが際立つような、切実な思いに縛られたような目だ。
その表情には、彼女特有の緊張の気があって……
「なんか、顔、強張ってるよ?」
僕は自分の頬を右手で触る。
「疲れてるなら、もう少し休むか?」
「ううん、すぐに済むことだから、ここで聞いてもらいたいことがあるの……」
「……」
もう、広場に残っているのは、僕達だけになっていた。
僕はもう一度ベンチに座り、彼女の目と正対する。
「どうしたの? 聞いてほしいことって?」
僕は彼女の目を覗き込むが、彼女は俯いて、僕から目を一度外す。
「わ、私……その、あの、サ、サクライくんのことが……」
「……」
ま、まさか。
「サ、サクライくんの、ことが……」
もう一度言って、深呼吸。もう彼女は、顔を耳まで真っ赤にしている。
それでも、ゆっくりと僕の方へと視線を戻し、しっかりと僕の目を見て、言った。
「す、好き、みたいです……」
「……」
その言葉を待っていたように、広場の噴水が水を噴き上げた。ザーッ、という音。
その時には、彼女は重力に引きずられるように、首ごと視線を落としていた。
「……」
その言葉を聞いた瞬間に、体の底から煮えたぎるような衝動が湧き出て、わめき出しそうになった。震えているのかと思うほど、体の平衡感覚が薄れて、地に足がついていないような浮遊感を味わう。
ただ、じっとしていられないような感情は、脳からあっという間に全身に伝わって、体中がぽかぽかする感覚に包まれた。
僕は、歓喜だとか、興奮だとかっていう感情に縁がなかったけれど、これがそういう名前の感情なのだろうと思う。
だけど――
好き『みたい』って、なんだろう。
そのフレーズに、一抹の不安を覚える。まるで虫眼鏡で紙を焼いたくらいの小さな点だけど、放って置くとそれが広がりそうな感じの不安だ。
「……」
沈黙。
かなり長い沈黙だったけれど、彼女も僕も視線を外せない。別にその感覚が嫌だっていうわけじゃない。お互い、その先に何て言っていいのかわからないのだ。
その言葉の後、普通、何か彼女がそれを言った目的を話すだろうから、僕はそれを待つしかない。
「す、好き、です……」
僕が意味がわからないと思ったのか、彼女は言い直した。
「……」
しかし、また沈黙。
「えっと――」
僕が口を開いた頃には、噴水の水がおさまっていた。それ位長い沈黙だった。
だけど、僕が次の一句を述べる前に、シオリがそれをきっかけに、話し始めた。
「あ、あの、みたい、って言うのは、その……私、恋愛とか、あんまりしたことないから、まだ上手く実感できてなくて……」
「……」
「私、ずっとあなたの事を見ていたの。入学してから、あなたのこと、すごいな、って。最初はあなたのこと、あまりに頭がよすぎて、何を考えているかわからない、恐い人だと思ってた。でも、その反面でずっと憧れていたの。私はどんなに成績がよくても、自分の力を現状維持にしか使えないけれど、あなたの力には、何かを変えようとする意志も、激しさも感じたから。そんなあなたが、羨ましかったの。それで、こうして話してみると、無口だけど、優しくて、繊細で、ちょっと抜けてて――」
シオリは俯きながら、くすっと笑う。
「私、男子とあまり上手くやれる方じゃないけど、そんなあなたと話してると、本当に楽しくて。2年になって、あまり話せなくなったけど、またこうして話せるようになって、私、何だか、本当に嬉しくて……」
「……」
「話せなくなった頃は、何で急に態度が変わったのか、あなたのことばかり考えている自分がいて――それからもあなたの、一途で純粋で、激しくて、でもたまに見せる優しい目が、いつも気になって……あなたのその、凛とした、張り詰めた空気の中にいると、胸が苦しくなる。いつも教室にいないと、何をしてるんだろう、と思うし、放課後にあなたが教室に戻ってくると、元気そうだな、って、安心する。その繰り返しだった」
「……」
「はじめはそれを認めることが、恐いような、恥ずかしいような感じだったけれど……あなたとこうして、また話せることが嬉しいと思った時に、思ったの。あぁ、これがきっと、恋なんだな、って」
「……」
何とも不器用だけど、彼女の真面目な想いが、他人の心情に疎い僕にも伝わってくるようだった。
恐らく彼女は、この答えに辿り着くために、沢山自分と向き合ったのだろう。未知の世界を手探りで進み、今も手探りのまま、勇気を出して、この答えを見つけたのだ。
きっとそれは、今まで僕に告白して来た女の子も、同じだったかもしれないけれど……
彼女が僕を選んでくれたことが、とても嬉しかった。
他の誰でもない、ここまで誰かを特別に思えるのは何故なのか、まだ僕は答えがわからない。
分かっているのは、僕の体中が温かいものに満たされていくような、遅れてきた歓喜にゆっくりと支配されていくような、
「でも、あなたは今、学校でよく見る、捨てられた子犬みたいな、不安でしょうがないって顔をしてる……」
そんなシオリの呟くか細い声が、沸き立つ歓喜から、僕を現実に引き戻す。
「え?」
「何か、どこか遠くへ行きたい、今いる場所から逃げたいって、そんな顔……」
「……」
すると、シオリは今日一番の、強い視線で、僕を見た。
「サクライくん、さっき私に、観覧車で言ってくれたでしょ? 僕に遠慮しないでいい、って」
「あぁ……」
「私、とっても嬉しかった。だから、サクライくんも、私の前で無理しないで。言いたいことがあるなら、何でも言って、いいからね」
「……」
「私に何ができるかわからないけれど――サクライくんは今まで、その力を持っていたから、誰にも寄りかかることが出来なかったんじゃないかって。私に何ができるかわからないけれど……私はもう、あなたにばかり辛い思いをさせたくないから……」
そこで彼女は一度言葉を止めた。まだ告白OKの返事をされたわけでもないのに、一方的に何を言っているのだろうと、少し気色ばんでしまう素振りを見せた。
「……」
この時の僕は、性欲とも、支配欲とも違う感情で、彼女を求め始めていた。
ただ、帰ってから、ひとりぼっちになることが恐くて……
今帰って、次の日、家族と顔を合わせたら、僕はきっと、彼女がいても、心の平穏が訪れないという絶望に叩き落される。予感などではなく、そう、確信していた。
でも――まだ、それが真実だと認めたくない自分がいた。時間稼ぎでもいいから、少しでも彼女がくれた今の気持ちを信じていたいと……
どこかで気だるいような諦めを抱いて生きてきたけれど、もうそこには戻りたくなくて、だけど今のままでは、もう少しでつかめそうな希望に手が届かずに終わってしまいそうで……
今、目の前にある彼女の笑顔、僕を見つめる瞳が、あまりに優しくて。
堪えきれなかった。体が本能的に、彼女に救いを求めていた。
僕は、気がつくと、隣にあった彼女の左手に手を添えて……
彼女に、こう告げていた。
「君の時間を、今夜は、僕にくれないか」
その言葉は、彼女を今夜帰さない、ということを意味していた。