Corn-poppy
部活のない日――大抵僕は昼まで寝ている。普段の睡眠時間が極めて少ないので、これくらいは愛敬だろう。すっかり夜行性になってしまった。
しかし昨日は12時に寝て、6時に起きるという、近年にない早寝早起きサイクルで睡眠を取り、朝食を作って食べ、おまけにシャワーまで浴びてやった。朝のシャワーなんて浴びたこともないくせに。
恐らく、僕は舞い上がっているのだろう。楽しい一日にしたかった。僕にとって朝は、気だるい一日の始まりに過ぎなかったのに、今日みたいに朝の準備をしたのは、生まれて初めてだった。
「へっくしゅん」
くしゃみをひとつ。
昨日、雪に転がるようにして、ずぶぬれになった服で、アホみたいに雪合戦なんかして、その後も僕は二人に拉致られて、ファミレスでシオリとの馴れ初めから何やら色々詮索された。
とは言っても、僕はほとんど何も喋れなかったけれど。まだ馴れ初めなんて、話せるものじゃないし、それ以上に僕への二人の愚痴の方が多かったから。
そしてその帰り、二人に、彼女を落とせ、と言われた。
「……」
僕なんかでいいのかな。彼女の横にいる男は。
おかげで昨日は濡れたまま着替えられなくて、少し鼻がぐしゅぐしゅしている。
顔の痣はほとんど消えていたけれど、頭にはまだ包帯が巻かれている。全国大会が始まる前に、頭の傷が治ればいいのだけれど。
もはや定番のリーバイスに、フード付きのコートを着込んだ。肩に下げるバッグに、黒のコンバットブーツを履いて、家を出た。
空は筋書き通りのスカイブルーで、僕は思わず空を見て、微笑んだ。
街は雪かきに追われ、道の隅には既に雪が硬い氷になって片付けられていた。
近くの駐輪場に自転車を止めて、駅の改札に向かった。年末だから人通りが少なく、9時だっていうのに、まだ少し眠っているようだった。
川越駅は、近くに松屋とかローソンとかマクドナルドとかがあって、元々便利な場所だったが、最近になって駅を改築し、色々な店が入っていた。一階のパン屋から、パンを焼く香ばしいにおいがした。駅に入って階段を上ると、二階にあるスターバックスから、コーヒーの匂いがしてきた。これだけで何だか朝食を食べたような気分になった。
二つある改札の、奥の方の切符売り場に、シオリが立っていた。後姿だったけれど、あんな細い体の、綺麗な漆黒の髪の少女は、彼女以外にはいない。
「ごめん、待った?」
声をかけると、シオリが振り向いた。
初めて見るミニスカートとレギンス姿に、落ち着いた薄茶色のコート。一番上のトッグルが開いていて、そこから白のニットのセーターが見えた。首には小さな十字架のついたチョーカーをしている。靴は黒のブーツで、細い右腕に、小ぶりのトートバッグを下げていた。
何より驚いたのは、学校では見た事のない化粧をしていることだった。唇に薄く光沢があり、睫毛がくるんとカールしている。頬は薄いピンク色に染まっていて、滑らかな白い肌に映えていた。
「・・・・・・」
相当呆気に取られていたのだと思う。僕はつい彼女をねめ回してしまった。
「どうしたの?」
「いや、何か見慣れない格好だな、と思って」
「あぁあ……」
彼女は両手を広げ、自分の格好を見る。
「あの後ね、吹奏楽部の友達が、うちに来て……化粧のやり方とか、着ていく服とか、選んで……こんな、ミニスカートなんて穿くことに……」
「――それはそれは」
「……」
彼女は恥ずかしそうに縮こまる。そんな彼女をフォローする言葉を探したけど、生憎僕はそんな言葉を持ち合わせていない。
それにしても、足細いな――背は155センチくらいで小柄だけど、足は長すぎず短すぎず、体型のバランスがいい。これならそこらでミニスカート穿いてる女の子よりは、ずっと穿きこなしていると思うけど。
「まあ、僕も似たようなものだ。あれからサッカー部の連中に、色々詮索されたからな」
「え?」
「あぁあ――」
違うな。早くもドツボだ。こんなこと言ったって、彼女が昨日の醜態を思い出すだけで、空気が悪くなるだけだ。
「ありがとう。来てくれて」
僕は何を言っていいかわからず、それをまず伝えた。自分から誘っておいて、遅れて来た上に、つかみでスベっている。それを何とか誤魔化そうとした。
そう言うと、シオリも照れを隠すように微笑む。今までの話を忘れようとするジェスチャーとしては的確だ。僕もそれに応えることにした。
「とは言っても、いつまでもここにいてもな……」
「うん、どうしよっか」
シオリがズバッと単刀直入に切り出して、僕を見る。
早速手持ち無沙汰に――
まだ僕達は付き合っていない。テレビで芸能人同士が一日限りのデートをするって企画モノがあるけど、気持ち的にはあれと似たようなものかもしれない。
つまり、予想外の展開がないのだ。いわゆる出来レース。そのまま愛が芽生えるとか、ちょっとエッチな展開とか、そんなうまい話がない前提で、今日、僕は彼女と一緒にいるわけだ。恐らく、それは彼女も割り切って、僕と一緒にいる。
でも、そんなことはどうでもいいんだ。むしろそういうことがない方が望ましい。僕は彼女と一緒にいたいだけなんだから。そこに濁った感情を介したくない。
「一人に慣れ過ぎて、何していいかわからないな。一人でいる時間は、潰しやすいくせに」
「私もそうかな。でも、あんまり何かに縛られるのもね。私、デートなんて初めてだし……」
『デート』という単語を口にして数秒後に、彼女は何かを後悔したような顔になった。
でも、そう考えるのが楽なのかもしれなかった。テレビのデート企画と同じ――今だけは疑似恋愛に浸っていよう、と開き直った方が楽だ。
「二人で何するか決めようか? 行き当たりばったりだけど」
「うん」
僕の提案に、彼女は同意した。
「東京に出よう。知り合いにその格好、見られたくないんだろ?」
僕のその提案で、川越駅から通っている東武東上線に乗り込んで、池袋に向かった。
急行列車に乗ったが、ラッシュの時間も過ぎていて、空席がひとつあった。僕はシオリに空席を譲った。シオリは席に座って、手袋を取った。僕はシオリの前の手すりを掴んだ。二つ目の駅で、シオリの左隣のおばさんが降りたので、僕は隣に座った。
「私、東京なんて、模試以外で行ったことない――」
「僕も中学東京だったけど、高校行ってからは、模試以外で行ってないな」
「部活忙しいもんね、お互い」
「暇よりいいけどな」
「暇なの嫌いなの?」
「もっと嫌いなものは、いっぱいあるよ」
「例えば?」
「そうだな――玄米茶とか」
「玄米茶?」
「あのお茶は許せないんだ。飲むと何だかイライラするんだ」
本当にくだらない話をした。大したオチもなく、だらだらと鬱蒼とした言葉を取っては捨てて行った。そんな言葉でも、彼女は受け止めててくれた。
そのまま30分ほど電車に揺られていた。池袋に出て山手線に乗り換え、原宿へ向かった。
「サクライくん、中学が東京だったんじゃ、ちょっと案内してよ」
「いや、でも金がなかったから、特に色んな所に行ったわけでもないけど」
とは言っても、東京にほとんど出たことのないシオリが相手だと、僕が彼女をリード、エスコートするしかないんだよな。
デートなんてあまりした経験がないけど、こうなりゃヤケで頑張ってみるか。
原宿駅を出れば、すぐに竹下通りがある。二人とも自然に、そこに足が向いていた。クリスマスも終わって、どのカップルも金を使いきったのだろう。普段の日曜と比べれば、ずっと空いていた。
しかしそれでも僕達と同じくらいの歳の女の子が沢山いた。他の女の子のラフな格好を見ると、シオリの、普段より着崩した格好は、むしろ丁度良かった。だけど、顔立ちや雰囲気では、ここにいる女の子の誰にも負けないだろう。
それくらい彼女は、アイドルでも道を掃き清めてお辞儀するくらい美しかった。
その美しさは外見だけのものではない。作られたものではなく、まして化粧のせいなんかじゃない。彼女の周りに流れる、一輪の花のような、涼やかで、凛とした彼女の心そのものだ。
そんな彼女を見て、僕が思い浮かべたのは――美しく咲く虞美人草だ。
虞美人草――夏目漱石の小説にもあるその花の名の由来は、2200年もの昔に遡る。
楚の項羽は、宿敵である漢との最後の決戦である垓下の戦いの際、大群を率いたが、漢の名将韓信の計略により、戦場におびき出され壊滅的打撃を被った上、漢の功臣張良の策である、今に伝わる『四面楚歌』の作戦により、僅かに残った兵をも離散させてしまった。
わずかな将と兵しか残らなかった項羽は、戦場での玉砕を決意した。その時、項羽の妻である絶世の美女虞姫は、漢への投降をするように項羽に言い渡される。虞姫を死地へは連れてはいけない、という項羽の考えだった。
しかし、二夫にまみえることを死に勝る恥と思った虞姫は、手ずから項羽の剣を奪って、その場で自刃してしまった。項羽は悲しみに暮れながら、追手のかかる前に垓下の戦場である寂しげな平原に虞姫の遺体を埋め、弔った。
その後、漢の追手がかかる前に、出発の準備を整えていたところ、虞姫の墓の前に、一輪のひなげしの花が咲いたと言う。ひなげしの花はそれ以来、現在でも虞姫の美しさを讃えて、虞美人草と呼ばれているのだ(ちなみに項羽に勝利した、漢の劉邦の妻呂后は、唐の則天武后、清の西太后と共に、中国三大悪女に数えられている)。
そんな一輪の花のような彼女を見ていると、良い花の甘い香りがかすかにするような気さえしてきた。実際は、単なるコロンか何かの香りに過ぎないかもしれないけれど。