Miracle
シオリは少し微笑みながらリードを離すと、リュートは一直線に、僕の下へ駆けて来る。
「リュート!」
僕もしゃがみこんで、飛び込んでくるリュートを抱きしめた。リュートは僕の顔を舐めてくる。
「うわっ! ちょっと、やめろって!」
僕はリュートの勢いで、仰向けに雪の中に倒された。ジャンパーは水を通さなかったけれど、ジーンズには冷たい水が染み込んで来た。
リュートはまだ、僕の顔を舐めてくる。
メチャクチャ冷たいけど、僕はもう、嬉しくて――半ばヤケクソになったように笑っていた。
もう会えないと思っていた友に再会したような――こんな嬉しい気持ちは初めてだと思う。
「あっははははははははは! ははっ! ははははははっ!」
雪に体を預けたまま、リュートと重なって、僕は本当に可笑しくて、笑った。
静かな雪の夜に、僕の笑い声はよく響いた。
笑い終えて、一度ため息をつく。
僕の眼前には、降りしきる雪と――僕を見下ろすマツオカ・シオリがいた。
僕はむくりと体を起こし、立ち上がる。ジーンズが既に少し水を吸って、重かった。
「そんなに嬉しいの?」
シオリは前かがみになって、僕の顔を覗き込む。
「そりゃ嬉しいさ。だって、もう二度と会えないかも、とも思ってたから……」
言いながら、僕は立ち上がる。
「でも、何で君がリュートと一緒に……」
言いかけて、はっと思い当たる。
僕はあの合宿で、皆がコンビニに行っている間に、リュートに飯をやって……背後に回られたタカハシ・ミズキに後ろから抱きしめられて……それを彼女に見られて、彼女は逃げ出して――僕はミズキとなんだかんだとやり取りをしていて、気がついたらリュートは姿を消していた。
リュートが消えた時、確かに彼女がいたんだ。でも、何故彼女と?
疑問が点灯している時、シオリが腫れ物を触るように話し始めた。
「私、見ちゃったんだ。ミズキとあなたが……その、抱き合ってるの」
彼女は頬を赤らめながら言った。
「……」
この娘、本当に恋愛経験がないんだな。男と女がそういうことをするのは不潔だって思っているような反応だ。
ついでに言えば、あの時僕は後ろから抱きしめられていただけで、別に抱き『合って』はいないんだけど。そこは結構重要だと思うけど、言ってもあまり意味はないんだろうな、やっぱり。
シオリは、早くも恥ずかしさに耐えられなくなったようで、僕に背を向ける。
「私は、それを見て――その、あなたが誰かに、その、そういうことをされているのが、見ていられなかった。見ているのが辛くて……あなたに声をかけられるのも辛くて――私、気がついたら逃げ出してた」
「……」
彼女の華奢な背中が、更に心細く見えた。
「私はわけもわからず走って――気がついたら、胸が痛くて、道の真ん中で、うずくまっちゃって……」
そう言うと、シオリは振り向きかけてしゃがみこみ、リュートの頭を撫でた。
「そこにね、この子が来てくれたの」
リュートは彼女に撫でられるのが、本当に気持ちよさそうだ。普段、母親が手を伸ばしただけでも敵意を表すのに。
こいつは彼女が気に入ったのか。僕にとって敵じゃないと認識したのか。
「この子、何も言わずに、私の側にいてくれたの。そしたらね、なんか少しだけ、心強くなった。私が抱きしめたら、顔を舐めて、励ましてくれた」
「……」
そうなんだ。こいつは誰よりも優しいんだ。
いつだって家族に殴られ、罵倒されてボロボロの僕について来て、側にいてくれる奴なんだ。そんな、悲しんでいる人を放っておけない奴なんだ。
「でも、この子、私が家に向かっているのに、あなたの元へ帰ろうとしないで、私についてきたの。家の前に来て、この子はうちの門の前で止まって、ずっとお座りしてて……」
「え?」
「次の日の朝、目が覚めたら、ずっとその格好をしてた。私は、何だか気になって、朝、その子を散歩に連れて行ったけど、私について来てくれた。でも、家に帰ると、また門の前で何も言わずに座り込んでたの」
「……」
彼女は、リュートを愛しげに見つけて、少し自信なさげに言う。
「そんなこの子を見て、思ったの。この子は、ご主人様の気持ちを、何か私に伝えようとしているんじゃないかって。私があなたに持ったのは誤解で、それが晴れるまで、こうして座り込んでいる気なんだって」
「……」
夢みたいな話だ。
「笑うかもしれないし、信じられないかもしれない。でも、私はそう思った」
「――笑わないさ。こいつはとっても優しい奴だから」
「……」
雪が僕達に降り注ぐ。
「だ、だから、こんなにあなたのことを伝えようとするこの子を見て――胸のつかえが取れていった。私、あまり恋愛したことないから、その、抱き合ってるのとか、ど、どう自分で処理していいのかわからなかったのね。だから、あの、その……」
「……」
「だ、だからね。私、そう思ったら、またちゃんと、あなたと、その、話したいなぁ……って……」
彼女はさっきから、いっぱいいっぱいだ。後半、話し方が急に早口になって、今は恥ずかしそうに俯いている。
――かく言う僕も、彼女につられて、何だか照れてきた……
何か伝えなくちゃ。
犬のリュートまで、こうしてもう一度、彼女と話をするお膳立てを整えてくれたんだ。
だけど――
頭を巡る言葉は、どれもこれもこっ恥ずかしい、青臭い台詞ばかりで……いざ言おうとすると、赤面で鼻血を出してしまいそうなものばかりで……
それでも、その恥ずかしいような台詞は、どれも僕が言いたいことを伝えるものじゃなくて。現代文の成績は、偏差値70を軽く超える僕が、単純な思いを伝える言葉を、何も持っていないことがもどかしかった。まるでどうしても解けないテスト問題にぶつかったようなもどかしさだった。
彼女はリュートの頭から手を離し、しゃがみこんだまま、もじもじしている。
「あの……何か言ってくれないと、私、もう、何だか……」
「あ、あぁ、ごめん……」
自分の発した声が、緊張をはらんでいるのがわかった。
「ただ、今日はなんか、すごい日だな、と思ってさ」
「え?」
彼女は顔を上げる。その顔は、林檎みたいに真っ赤だった。
僕はしゃがんでいるシオリの目を見つめる。緊張に強張る顔で、ぎこちなく笑顔を作って。
「退学にもならないで済んで、おまけにリュートとも会えて、それに……」
僕の顔もどんどん熱くなる。
「君と……もう一度、こうして話せた」
やばい、この時点で僕、結構キテる。頭が沸いている。
素直になるってのは、こんなに恥ずかしいものなのか。僕は目を背ける。
僕はしゃがみこんで、リュートの頭を撫でる。
「お前のおかげかな……ありがとうな」
「……」
僕達は、リュートを見つめる。
沈黙は、まるで互いのもどかしさを伝えるように雄弁で、静かに舞う雪は、砂時計みたいに、募る思いを形にして積もらせているようだった。
だけど、今日は今まで、奇跡みたいなことが、ずっと起き続けている。
今なら、ここで僕が望むことも、叶う気がするから。