Snow
長居をして、既に時計は6時を回っていた。
喉がいがらっぽい。あれからリクエストが多くて、別の曲も歌わされたり、吹奏楽部の演奏とセッションしたり、ピアノも弾かされたし、体には気だるい疲れが溜まった。
音楽室を出て、一人――一度部室に行って、サッカー部の連中に迷惑をかけた挨拶をしておこうと思ったが、もう誰もいなくなっていた。
外はまだ雪が降っていて、靴が埋まりそうなくらい積もっている、
今日はリハビリがてら、歩いて学校に来たから、僕は校門へ歩を進める。
ざくっ、ざくっと、僕が雪を踏む音だけが静かにこだまする。静寂に包まれた世界は、雪だけが息をしていた。
学校を照らす、僅かな街路灯が道を照らして、世界は闇に包まれていた。
傘も差さずに、僕は着ているジャンパーのポケットに手を入れて、校門をくぐる。
暗闇で、先があまり見えない校門から、もうひとつの校門までの一本道――ふと僕は立ち止まって、左手のサッカー部のグラウンドを見る。
広いグラウンドは、雪に覆われて、一面の銀世界だった。グラウンドの四隅にある街灯が、ぼんやりとそれを照らしている。その光の外側は、何も見えなくて……
僕はグラウンドに入る。真ん中にひとつ、誰かが片付け忘れたのか、ひとつだけサッカーボールがあった。
僕はそこに歩を進め、つま先でひょいとボールを上げ、リフティングを始めた。
怪我の後のボールの感触と、またここでサッカーが出来るということを噛み締めながら。
ジーンズの先がビショビショになっても、それが嬉しくて、僕はボールを蹴り続けた。
だけど、怪我をしていることを忘れて、ヘディングでボールを受けたら、頭に痛みが走った。ボールはコントロールを失い、雪の中に、ぼとりと埋まった。
「……」
空からは、雪が降り続く。
傘を差すことも忘れて、僕はまるで、初めてサッカーを覚えたばかりのように、楽しい気持ちでいっぱいだった。
ボールを拾おうと、そこに歩を進める。
そこでふと、目に入る。
金網の外、片手に傘を差し、白のコートにマフラー、美しい黒髪が伸びて、雪に埋まってしまいそうなくらいの華奢な体の少女。
マツオカ・シオリがそこに立っていた。
「……」
「……」
吐く息はお互い白く染まり、だけどこの瞬間、息も出来ないような感情の濁流に飲み込まれる。
それは、この前ああして抱きあったことへの気まずさとか、今までのことの贖罪の気持ちとか、そういうものではなく、もっと単一的――シンプルなものだ。それ故に、気がつくと、彼女の視線に、僕は確かに心を奪われている。
だから、今は彼女の前で、ぎこちないけれど、苦手な笑顔が浮かぶ。
そんな僕に、彼女は笑顔を返してくれる。
それだけで、僕は幸せな気持ちになれる。
今はそれで十分だった。
「よお」
僕は軽く手を上げる。
シオリは、グラウンドに入ってきて、僕に傘を差し出す。
「こんなに雪が降ってるのに、風邪をひくわ」
彼女は僕を少し見上げる。キスをせがむようで、少しドキッとする。
僕はその距離に恥ずかしさを覚えて、一歩外に出て、踵を返す。
「雪ってさ、雨と違って、傘を差さずに歩きたくならないか?」
「……」
照れてしまって、何アホなことを言ってるんだろう、僕。
「そうね……」
背中越しに、傘を閉じる音。彼女のブーツが雪を踏む音がして、僕の隣に立つ。
「私も、少しあなたと、こうしてこの雪を見ていたいな……」
「え?」
隣に立つシオリは、傘も差さず、だけども顔を赤らめながら、空から降る雪を見つめていた。
「埼玉じゃ珍しいもの。こんな雪」
「……」
僕も空を見上げる。
雪は、白く、冷たい。
だから僕達は、お互いの温かさを感じる。
二人きりのこの世界に、一切の嘘も虚飾もはびこることは出来なかった。
「退学、しないで済んだよ」
僕は、空を見上げたまま、言った。
シオリは僕の方を向く。僕もシオリの目を見つける。
「はは、土下座までしちゃったよ。カッコ悪ぃ」
僕は頭を掻く。頭にはもう水滴がついていて、積もった雪が、軽く落ちた。
「……」
それからは、お互い照れ笑いを浮かべるしかなかった。
僕達は、まだ大袈裟な想いを語るには、あまりに幼過ぎて……
その伝え方も知らなかった。勉強が恐ろしく出来る二人だけど、僕達には、まだまだ学ばなければならないことが沢山あるのだと、この歯痒さの中で思い知る。
シオリはやがて、沈黙にじれたように、頭を下げた。
「ごめんなさい」
「え?」
「あの、私、あなたのこと、ぶったりして、その……」
彼女は気色ばむ。ぶったことよりも、その後僕達が抱き合ったことの方が問題だと思っているのが見え見えだった。
この娘は本当に恋愛経験がないのだろう。そうやって、男と女が触れ合うのが、卑猥だとか不潔だとか思っている感じだ。
だけど……そうなっても仕方ないよな。彼女は綺麗だから、今まで彼女を見ていた男は、彼女を下心や偶像で見るだけの奴ばかりで、男なんて下心の塊みたいに思っても仕方ない。
「そんなこと」
僕はとっさに言葉を出した。
「僕の方こそ……君を傷つけて、何度も泣かせて……」
その後言う言葉に、一瞬迷いが生じるけど、それを振り払う。
僕は彼女への誤解やすれ違いを、ひとつでも埋めていかなければいけない。
「その、別の女の子と、その……」
言いかけて、何を言っていいかわからなくなった。
何故それを弁解するのか、僕達はまだ付き合っていないのだから。ただ、彼女がそれを見て逃げ出したことは、その行為が彼女を傷つけたのかもしれない。僕はそれに対しても、謝らなくては……
というか、その後はともかく、彼女が見たシーンまでは、僕はやられた側で、僕自身は特に何もしてないんだよな……だから、弁解しようにも、言う事が思い浮かばない。
「その事なんだけど……」
彼女がそう呟いて、僕は顔を上げる。
「ちょっと、ここで待っていてくれないかな?」
そう言って、すぐ戻るから、と言いながら、シオリはグラウンドを出て行く。
一人、取り残される。
「……」
何だろう。でも、彼女のことだ、何か考えがあるのだろう、と思って、僕はそのまま雪を見つめていた。
3分位して、足音が聞こえ出す。僕は振り返る。
マツオカ・シオリは、右手に何かを持っていた。
それは、一本の皮の紐だった。
その紐の先には、一匹の犬が繋がれていた。
「リュート?」
その狐のような耳に、つぶらな瞳、白、黒、茶の三色の毛並みのシェットランドシープドッグは、元々寒冷地方の犬だ。その厚い毛並みは、この雪の日にとても調和していた。