Permission
「へぇぇ、あのサクライが土下座してらぁ。落ちたものだな」
また誰か教師の声。だけど僕は動かない。
土下座なんて、生まれて初めてした。
だけど、不思議と嫌な気分ではなかった。初めて自分が、自分のために必死で考えて、前に進めている実感があった。その決断に価値があると、素直に思えるから。
「サクライ、顔を上げろよ」
頭上で声がした。顔を上げると、イイジマが僕に手を差し伸べていた。
僕はイイジマの手を取り、立ち上がる。するとイイジマは、僕の小さな体を自分の影に隠すようにして、こう言った。
「先生方、あのプライドの高いサクライが土下座までして頼みごとをしてるんです。もう一度くらいチャンスをやってもいいんじゃないですかね」
「イイジマ先生! しかし彼には前科があります!」
「こいつは今まで甘やかし過ぎたんですよ! 他の生徒に示しがつきません!」
「学校の汚点を作り出したんですよ! そいつは! また同じことを繰り返す!」
口々に周りの教師連は、僕を批判する。
しかしイイジマは、一度それを制してから、言った。
「学校の恥と言いますが、サクライはうちの部が、赤点続出で出場辞退の危機に追い込まれたのを、合宿で部員の再試の面倒を見て、全員合格に導いてくれました。それに比べて、他の先生方は、年末は忙しい、と言って、誰も協力をしてくれなかったではないですか。あなた方は、サッカー部が全国大会に行くことを、学校の誇りだと思っていらっしゃいましたか?」
「ぐっ……」
痛いところを突かれ、教師連は苦い顔をする。
「そんな我々が、サクライに、学校の恥、なんて言える資格はどこにもないですよ。サクライがあの時頑張ってくれなければ、我々は出場辞退をする他なく、既に学校の恥を晒していたでしょう。私は、どうせ一度はかいた恥であれば、サクライが土下座までした心意気を買いたいと考えています」
「監督……」
あのイイジマが、僕のことをここまで考えてくれたのは初めてだった。ユータ中心のチームで、いつも僕を便利屋扱いして、僕の考えなど一度も考慮してくれなかった男が。
イイジマは校長に歩み寄り、校長から退部届の方を受け取ると、その場でそれを二つに破った。
「何だかんだ言って、色んな意味で全国には、お前のおかげで出られるようなものだからな。俺はサービスで目をつぶってやる」
イイジマのこの行動がターニングポイントとなり、結果僕は、もう一度だけ猶予を与えられ、退学届は預けられたまま、結論を保留されることとなった。
嫌々やったサッカー部の勉強合宿だったが、教師があれに協力しなかったこと、僕が結果を残したことで、他の教師の反論効果は決定的に弱まった。イイジマになし崩しにされるような形で、今日のところは収まった。
まさか、こんな形で交渉の決定打を手にするとは。人生ってわからないものだ。
僕は教師連に一度頭を下げ、イイジマと一緒に校長室を出る。
雪の降る日の廊下はとても寒く、誰もいないから、その寒さが更に際立った。廊下の窓から、牡丹雪が庭の木々に積もっているのが見えた。
「はっははは、いやぁ、他の先生がサッカー部に誰も協力してくれなかった、いい腹いせになったよ。久々に面白い会議だった」
イイジマは校長室を出ると、からからと、痛快そうに笑った。
「……」
僕はこの時、退学阻止に成功した安堵感に、胸を撫で下ろしていた。
「監督」
僕は頭を下げる。
「ありがとうございました」
「よせ、気持ち悪い。お前が素直に人のいうことを聞くなんて、似合ってない」
「……」
それでも僕は、しばらく頭を上げられなかった。初めて世の中の大人の親切が、身に染みた気がしたからだった。
「俺は、雪でグラウンド使えないから、屋内で練習してる部員のところに行く」
イイジマはそう言ったので、僕は顔を上げる。
「あ、じゃあ僕も」
「いや、いい」
そう言うと、イイジマはポケットから、小さな封筒を一枚取り出した。
「お前が来たら、これを渡すように、吹奏楽部から言われてるんだ。招待状だって」
「招待状?」
イイジマから、女の子らしい、白のレースのようなデザインの封筒を渡された。僕はそれを開いて、そこに書かれる、女の子らしい丸文字の文に目を通した。
合宿の打ち上げで振舞ったカレーのお礼に、僕個人のための演奏を、部員全員で披露したい、というものだった。
確かにさっきから、校内には吹奏楽部の木管楽器の音が響き渡っている。吹奏楽部の引退も年明けだから、最後の追い込みだろう。
でも、吹奏楽部ということは――
タカハシ・ミズキも、マツオカ・シオリもいるということか……
心拍数が少し上がった。あの二人にどういう顔をして会えばいいか、こういう向こうからの誘いなんて、想定の中に入れておらず、ちょっと焦る。
「全国大会まで、もう3日だが、サービスで休みをやる。前日まで気分転換に行って来い」
気分転換――これを提案したのも、ジュンイチ達だろうか。
でも、お膳立てなどどうでもよかった。やっと僕は奴等に対し、無条件に感謝しはじめたらしい。
笑っているようで、僕のことを心配してくれている奴等の事を。
吹奏楽部顧問のタカヤマは、進学校では重点を置かれない、肩身の狭い、学校唯一の音楽教諭だが、彼女が吹奏楽部の指導を受け持ってから、吹奏学部は県大会優勝候補の常連となった。
女性教師のほとんどいない埼玉高校で、若く、繊細な印象のタカヤマは、学校のマドンナ的存在だ。昼休みに、女子限定の悩み相談室を、音楽室で開いているらしい。
僕自身、授業中や暇な時間に、音楽室でピアノやギターを弾いているので、タカヤマとも面識がある。授業中だというのに、僕とギターと彼女のピアノでセッションしたことさえある。ある意味この学校で僕が一番懐いている教師かもしれない。
イイジマに言われ、校長室に僕がいるということで、職員室でタカヤマが僕を待っていた。軽い挨拶を交わした後、音楽室に向かった。タカヤマが音楽室の引き戸を開けて、僕はそれに続いた。タカヤマは、手を二回叩いて、声楽で鍛えた、よく通る声を発した。
「みんなー、今日は、特別ゲストがやってきましたー」
子供向け教育番組の、歌のおねえさんみたいなノリで、僕を一瞥し、手を差し伸べる。
「サクライ・ケースケくんでーす」
僕の入場で手を止めていた部員達は、そこで大拍手。誰もが、一度は僕の頭に巻かれた包帯に目をやった。どうやらそのことで学校が大揉めになっていたのを、もうほとんどの生徒は知っているようだった。多分サッカー部の誰かから漏れた情報だろう。
僕はどんな状況かまだ判別できずに、頭にクエスチョンマークを点灯させていた。
まず、音楽室を見渡す。
先に見つけたのは、タカハシ・ミズキだった。クラリネットを持っている。僕と目が合うと、口元に立てた人差し指を当て、動揺するな、とサインを出した。
音楽室の奥、窓際の席に、マツオカ・シオリが、細い銀色のフルートを華奢な両手に握り、僕に向かって拍手していたのが見えた。
僕と目が合うと、微笑みかけてくれた。
「……」
何なんだ、この胸のドキドキは。
その笑顔が、ここまで僕の中で、存在を大きくしていたんだ。
これは、恋だろうか。
その、飾らない、素朴な笑顔が好きだった。
何も信じられないような僕の周りで、その笑顔だけは全て信じられるような気がした。
だけど僕は、人の愛し方も、好意を囁く方法も知らない。
彼女を抱きしめたって、僕は彼女の魂を壊さないように気を遣うだけで精一杯で。
彼女とどうなりたいか、どうしてあげたいか、僕には一片の答えもない。
この歯痒さを、愛と呼ぶのなら、僕はその愛に身を焼いているってところだな。
だけど、愛だ恋だと言うことに慣れてない僕は、まだこの感情を、歯痒さってことにしておこう。
いつかわかる時が来るまで、その言葉は取っておくんだ。
僕が、曇りなく彼女を愛した時まで。
目が合ったのが、気まずく、気恥ずかしかった。
何といっても、あの、病室での出来事――思い出すだけで照れ臭い。そんな自分が気持ち悪くて、それを隠す。
「はーい静かにー。今日はサクライくんに、今までの練習の成果を披露したいと思います」
ピアノが置かれているのは、段差のある、一段高いところ。一段高いその上座に座らされ、皆が楽器のスタンバイをする。何だかどこぞの国の総統やら、大将軍と呼ばれている人物になったような気分だった。僕一人のために、こんな沢山の女の子が歌を披露してくれるなんて、何だかむずがゆい展開だ。
拍手が止んで、僕はタカヤマに、されるがままに、パイプ椅子に座らされた。部員達は、ピアノの前に、扇形(僕に言わせれば、鶴翼の陣形)に並べられた、各々の席について、タカヤマの持つタクトに、真剣に目を注いでいる。
タクトが艶やかな線を、テンポよく描き、その先に、全員の神経が向けられる。
奏でられた曲は、Mr.childrenのHEROだった。いつも窓から聞こえる吹奏楽部の演奏で、僕はこの曲を聞いた覚えがない。いつ練習したのだろう。
――そういえば、シオリが僕を無敵のヒーローみたいに扱っていた時があったな。そういうことで、この曲なのかな。
僕は譜面は読めるが、楽器は我流で覚えたから、校内で弾いている曲も適当だ。だから、音楽に造詣があるわけでもないし、弾くジャンルも、クラシックからアニソンまで、分け隔てない。そんな僕だけれど、荘厳かつ重厚な、多くの金管楽器の音は、僕に吹きつける突風のように、心を揺さぶってくる。
心地よい余韻を残して、タカヤマのタクトが止まった。皆がそれぞれの楽器から唇を離した。トランペットだとか、ホルンなんてものは、操るのにとんでもない肺活量が必要なのだろう。女の子の細身のどこに、あんな肺活量が宿っているんだろう。ユータがボールを自在に操る姿に、僕は初め魅せられたものだが、彼女達が楽器を自在に操る姿に、次第に僕は魅せられ、のめり込んでいた。
僕は椅子から立ち上がり、スタンディングオベーションしていた。
「うまいこと言えませんけど――素晴しいです。感動しました」
しかしその感情とは裏腹に、言葉が圧倒的に足りなかった。何も感じなかったと勘違いされるかもしれない。でも、心は感動していた。久し振りの感情だ。
気もそぞろなまま、おもむろに肩を叩かれ、我に帰る。振り返ると、同級生の女の子の一人が、音楽室に立てかけてある、アコースティックギターの一つを、僕に差し出していた。
「何?」
「サクライくんって、授業中、よく楽器弾いてるよね。生で聞きたいなぁ、なんて」
「……」
いつの間にか、僕は吹奏楽部の女の子に囲まれていた。皆きらきらした目をして。
「――というか、はじめからこれが目的で、招待しただろ」
そう言うと、目の前の女の子は舌を出して照れ笑いした。