Happiness
「考え事か?」
「――あぁ。悪い、抜け出して」
「別にいいさ。元々強引に誘ったんだ」
エイジは缶ビールを二つ、手に持っている。そして、僕の隣に座った。
「飲めよ。クソ寒い中のビールも、またいいもんだ」
僕はビールを手に取った。口をつける。
「昨日の女のことか?」
エイジはビールに口をつける。
「可愛い娘だったなぁ。あんな綺麗な娘、初めて見たぜ」
「……」
わからなくなる。もっと彼女と話す時間が欲しい。
僕が彼女のことを、どう思っているか、これからどうやって彼女に接するか。
「なぁ、ひとつ聞いていいか?」
その悩みの相談役として、こいつは不適当かもしれないが、僕は聞く。
「もし僕が、お前らの仲間に入りたい、って言ったら、どうする?」
「……」
僕はもう一度、ビールに口をつけ、月を見上げる。
「はは、お断りだ」
エイジが静かに、吐き捨てるように言った。
「お前みたいな喧嘩が強くて、頭もいい奴が入ったんじゃ、アタマの俺に、関東一体シメてやろうって欲が出ちまう」
「……」
これが、誰に報いる生き方でなければ、僕の知略を暴力に使うのを、面白いと考えたかもしれない。諸葛亮孔明や、太公望の如く用兵を用いて、修羅の世界で名を上げ、兵を作る。そうして勢力を拡大しているうちに、ある種の高みも見えてくるだろう。
死ぬことを望んでいた時なら、それもいいと思っただろう。
だが――いつまでもそんなことをしてはいられない。そうしているうちに、ヤクザなどの組織に迎合され、時代遅れの思想にいつか淘汰される時が来る。
血を燃やすには不自由しないが、それだけでは駄目だ。
「それは冗談だが……」
エイジもビールに口をつけた。そして、僕達が元来た道の方を見て、言った。
「あそこに溜まってる連中は、俺と同じ、生まれながらに与えられなかったか、それを失った連中だ。親と折り合いが悪かったり、いじめを受けたり、友達に裏切られたり、みんなスネに傷を持っている」
「……」
「かく言う俺も、母親が俺を産んですぐ死んで、飲んだくれの親父と一緒に過ごして、家がつまんねぇし、成績だってよくなかった。母親がいないってことで、ダチを家にも呼べなかった。俺は何もかもが気に入らなくなって、そのうち自分の腕っ節が人より優れていることを知った。気がついたら、こうなってた。他の連中も似たようなもんだ。幸せになる方法がわからないまま、ああしてるんだ」
「……」
「だから俺は、あいつらを守ってるのさ。あいつらには、今のあの場所が全部なんだ。あそこがなくなったら、どこにも居場所がねぇ。だから、組織になって、あいつらの居場所を奪う奴とは、俺達が間違っていたとしても、戦わなくちゃならねぇ」
「……」
そうか。だからあの時、僕はこいつらと、共通点を感じたんだ。
こいつらは、与えられるものを与えられなかった。だから、自分でそれを勝ち取るか、奪うかしなければならず、力が必要だった。あの倉庫は、自分達が勝ち取った居場所として、奴等の誇りだったはずだ。
やり方は違っても、その根っこは僕と同じだったんだ。陰惨な運命を認められず、必死に抗っている。
「だけどお前は、もう守るものがあるじゃねぇか。だったら、俺達の仲間になるのには相応しくねぇ」
「……」
「あの二人のダチも、あの娘も、いい連中じゃねぇか。見てて羨ましいぜ」
「……」
こいつは全てわかっているんだ。僕の中にある守るべき存在も。そしてそれが何なのかということも。
「同級生なんだ。僕の」
だから、少し今の悩みを話したくなった。僕を理解してくれたこの男に。
「でも、僕はお前等相手に、あんな大暴れしちゃったから、明日学校に行ったら、退学を宣告されるかも知れない。いや、間違いなくされるだろう。そしたらあいつらとも離れなくちゃいけないから、何とかそれでも僕の道を見つけなくちゃ……」
「……」
エイジは少し考えていた。
そして、一度月を仰いで、一度大きく頷いた。
「ついてこい。お前に見せたいものがある」
僕達は、さっきの倉庫に戻ってきた。
引き戸を開けると、轟々と炊かれている火のせいで、中はとても暖かい。中の者達はそれぞれ酒を飲むなり、隅に座って話し込むなり、煙草を吸うなり、自分の時間を過ごしていた。
「……」
思った。あぁ、ここはここにいる全ての者達の家なのだと。
ここには心がある。血がつながってなくても、分かり合える仲間がいる。ずっとここにはいられないけど、ここには安らぎがある。
昔はこういうのを見たら、弱者の傷の舐め間と思って、鼻にもかけなかっただろう。
だけど、今ならわかる。ここにいる者達も、これを本当に、自分達の守りたいもの、場所として、一生懸命もがいているのだということも。
「みんな、聞いてくれ」
エイジはよく通る声で号令をかけた。団員の各々の手が止まる。
「大事な話があるんだ」
エイジの顔は、喧嘩の時とは別の意味で、鬼気迫る感じだった。
団員達は、怪訝な顔をしながらも、エイジのただならぬ雰囲気を感じたようだ。座っている者は立ち上がり、背を正してエイジに注目する。
「……」
僕はこの中で、唯一こういう時、どうしていいかわからなかったので、入り口の引き戸を閉め、そこに寄りかかり、腕組みをして、奥のソファーの前に立つエイジを見ていた。新入りだから、一番後ろだ。
一度、倉庫がシーンと静まったのを確認して、エイジはひとつ咳払いをした。
そして、言った。
「俺は、このグループのボスを降りる」
――その言葉の後、倉庫内がどよめきに包まれるのに、2秒もかからなかった。
僕自身、それを聞いて、「んっ?」と、体が反応した。部外者の僕が聞いていていい話なのか、少し首を傾げた。
一番後ろにいるから、団員の動揺が一瞥できる。もう喧々諤々と言った感じ。相変わらず火も燃えているし、このままだと錯乱して、誰か火に突っ込みやしないかと思うほどだ。新撰組じゃないが、古には、不安な時に火というのは、恐怖を煽るものとされてるしね。
でもこの団員達は、エイジの脱退が、この居場所の根底を揺るがすと本気で思っている。それが部外者の僕にもわかるほど、目が不安に脅えていた。
「エイジさん! 何で! 何でですか?」
血の気の多そうな、若い団員が聞いた。
「はいはいはい、お前らの話は後で聞くから、静かに!」
エイジは両手を開いて、小刻みに下に振る。
動揺していても、エイジの言うことはよく聞くようだ。30秒ほどで、ざわめきが収まった。
もう一度、ざわめきが収まったのを確認して、エイジが話し始める。
「勘違いするな、何もお前達を見捨てるというわけじゃないんだ」
その前置きひとつでも、少しは団員が考えを知ろうと、耳を傾けやすくなる。動揺が和らいだ。
「知っての通り、俺達は世間の吹き溜まりだ。力も金もなく、こうして身を寄せ合って生きて、邪魔をする奴がいたら、ぶちのめすしかなかった」
「……」
「だが、俺は昨日ケースケに負けた。あれから俺は、どうも今までの毒気が抜けてしまってな……腕っ節しか取り得のない俺だが、もう喧嘩をする気力が湧かなくなっちまった」
その一言で、団員が一斉に踵を返し、僕を見た。皆、僕を睨んでいた。
僕自身は寝耳に水だから、え? 僕のせい? という顔をするしかなかった。
「別にケースケに倒されて、プライドに触ったわけじゃないんだ」
エイジの一言で、団員はまたエイジの方を向き直す。
「俺は昨日、ケースケと同じ病室にいたんだ。そしたら、ケースケが気を失っている間、ダチが来て、そのダチはケースケが目を覚ますまで、付きっきりでいてな。あいつのために涙を流す奴もいたんだ」
「……」
「拳をつき合わせた時は、ケースケも俺と同じ、人からクズだと言われ続けて来た奴で、同類だと思ってたからな。改めて興味が湧いて、病室でケースケに話しかけてた」
「……」
「ケースケと俺は、ボコボコの顔だったけど、一緒にいたらすげぇ笑えた。一日中麻雀やって、笑えているうちに思えた。今まで人に不必要だとレッテル貼られて、クソみたいな世の中を呪っていた俺が、幸せな人間を僻みの目で見ていた俺が、こうして人と笑い合えるんだって、思ったんだ」
「……」
「俺達は、世の中で幸せに生きてる連中に反骨してた。でもよ、俺達だって、そんな奴等と笑うことは出来るんだって、わかったんだ。俺達は、頑なになっていたか、それを諦めていただけだったんだよ。まだ間に合うんじゃないか、って、思ったんだよ」
「……」
誰もが、そんな話に耳を傾けていた。
自分達の諦めた幸せを、鼻で笑いながら――それはポーズで、彼らは必死で求めている。そんな感情が痛いほど伝わる沈黙が、皆の顔も見えない僕にまで伝わった。
そして、僕も――
まだ間に合う。エイジが気付いたことは、僕にも言えることだ。
やったことは悔やんでも仕方ない。ただ、それを取り戻すことは出来る。
守りたいものがあるのなら、そのために戦い続ける。それだけだ。
「俺はボスからは降りる。けど、お前等を見捨てやしない。もし俺と、そんな人並みの幸せに向けて頑張りたいって奴がいたら、何もわからねぇ同士、頑張っていける『同志』になる。もう上も下もねぇし、もう俺は、世の中を壊そうなんて思わねぇ。勿論この倉庫は、俺達のホームのままだ。その上で俺達は、この倉庫以外にも、世界を広げなきゃいけねぇ」
「……」
とは言っても、誰もその幸せの求め方を知らず、この倉庫の居心地はすこぶるいい。そこから新しい一歩を踏み出すのは、結構な勇気がいる。
そう言っても、ここから動けない奴はいるだろう。
「一度、考えてみてくれ。俺達にも、幸せになる権利があるっていうことを」
そう言うと、エイジは団員の間を縫って、一人倉庫を出て行く。
「……」
残された連中は、神妙な面持ちのまま考えている。狼狽するように、キョロキョロ辺りを見回したり、隣の人に話し掛ける奴もいた。
「考えろ」
混乱するのが予想できたので、気がついたら僕が口を開いていた。団員は僕の方を向く。
「僕もまだ、エイジが言うような幸せは手にしたわけじゃない。正直僕自身も、エイジと殴り合って、友達が来て、笑ったり、僕のために泣いてくれたりして――自分にはいらないものだと思ってたものの大事さに、昨日気づいたばかりだ」
「……」
新参者の部外者の言葉だけど、エイジが認めた男というお墨付きのせいか、割と耳を傾けてもらえている。
「僕が君達の大好きな団長を変えてしまったのなら謝る。だけど、君達にも幸せを求める力も権利もあるってのは、本当だし、エイジは君達にも幸せを掴んでほしいと今は思ってる。別にグループを分裂させたいわけじゃない。今まで通り君達は仲間で、もっと広い世界を見たい奴は、エイジが力を貸すが、無理強いはしないってだけのことだ」
「……」
「僕もエイジと同じ、まだ見ぬ未来を掴みたいと願う仲間だ。だから、君達とも仲間だ。だから、一緒に頑張れる。皆側にいるんだから、頑張れるんだよ」
もう自分でも、何を言っているのか、何を言いたいのか、よくわからなかった。
たまらなくなって、一人外に出る。
エイジは倉庫を出てすぐのところで、背を向けて、煙草をふかしていた。
「名演説だったぜ。リーダー」
僕は背中越しに声をかける。
「……」
沈黙。
でも――
僕のこの先の道、まず何をすべきか見えてきたな……
エイジ達も新しい道を進み始めた。
それは、エイジが僕へ見せたかった、『辛いことがあっても頑張れ』、という、僕へのエールなのだと思ったから。
僕もここから、新たな一歩を踏み出す――