Awake
僕は、自然にゆっくりと閉まっていく引き戸を見つめながら、彼女のことを考えた。
以前も感じた、彼女の去った後に残る、ぽっかりとした空間――その絶妙な陰影に、彼女の面影が残っている。
僕はその面影を掻き分けて、彼女を探した。体に残る、彼女の余韻が消える前に。
「おい、妬けるな」
だけど、野太い声がして、僕の思考は中断された。僕は顔を上げた。
僕の前のベッドに寝ていたヤンキーが、気だるそうに体を起こして、僕の方を見ていたのだった。お互い、ベッドの縁に背を預けて、向かい合う形になった。
よく見ると、その男は、僕がはじめに股間を蹴った、ヘビー級悪役レスラーのようなガタイの大男だった。琥珀色の眼鏡を取って、その目は意外と普通の目だった。頬に湿布を貼っていて、腫れぼった、酷い顔をしている。確かに、アッパー決めた後、ラッシュを顔にぶち込み過ぎたからな。
「――聞いて――見ていたのか?」
「いい女だな。その前にいた奴等も、いい奴等じゃねぇか」
「――あぁ、本当に、そうだな……」
僕は溜息をつく。あの3人への反省と、あの姿を誰かに見られていた不覚を込めて。
こいつの声で、我に返った感じだ。とんだB級少女漫画の世界に、自分がはまっていたことが、今更ながら恥ずかしくなった。
「……」
僕達は向かい合ってお互いの顔を見る。
とても僕がここまで人を殴ったとは思えないほどに、男の顔は腫れていた。
「お互い、ひでぇ顔だな」
男が無理に笑いの形に顔を歪めて言った。
「――ああ」
僕も何故か笑う。それだけで顔に鈍痛が走る。
「……」
不思議だな。あれだけ生死の境まで殴り合ったのに、相手を恨む気持ちさえない。どんな形でさえ、命を燃やして何かをやったことで、今は気持ちが晴れやかなくらいで……
「へ、へへっ……へへへへへへへへ」
男も僕と同じなのか、照れ臭そうに笑っていた。
「ふ、ふふふ……あははははははは」
僕も笑えた。心の底から可笑しくなった。
その時、気付いた。
抑圧され、淘汰され、鬱屈した毎日を送っていた僕が、あれだけ命を燃やすように大暴れしたことで、随分と気分がすっきりしていることに。
僕とこの男は、ここまで大暴れして、そこまで突き抜けることがで来て、同じ気持ちを共有できているんじゃないかって、その笑顔を見て、思った。
「だけど俺はまだ、お前みたいなチビに負けたとは思ってないぜ」
いつの間にか、僕の呼称が、チビ、になっている。確かに乱闘していた時の僕は、ちっぽけな僕を表す言葉には、まあ的確と思われた。
「僕も勝ったとは思っていない。もうあんたとは二度とやりたくないよ」
「はははは! お前の顎へのパンチは効いたぞ。顎が外れるかと思った」
「あんたの頭突きも効いた。今、歯が折れてないのを確認して、ほっとしたところだ」
僕は自分の鼻を、空いている右手でさすった。
「……」
僕は、自分の目の前に置かれる箱を見る。そして、僕は右手でベッドの縁を掴んで立ち上がる。右足はともかく、人を蹴りすぎた利き足の左は、立つだけで激痛が走った。
大男のベッドの横へ行き、皿がないので、僕は箱ごと大男に差し出す。
「モンブラン、ひとつ、余っちゃったんだ。余りものだが、良かったら、仲直りの印に」
「……」
男は呆れたように笑うと、ヤツデみたいに大きな手で、箱の中のモンブランをわっしと掴み、まわりのセロファンを取って、大きな口でそのままかぶりついた。一口でモンブランの約半分が口に入り、粗野だけど豪快にむしゃむしゃやっていた。
僕はその食べっぷりが、何となく気持ちがよくて、呆れるような笑みが漏れた。僕はベッドに戻り、もう一度、ベッドの縁に背中を預けて座る。
大男は、モンブランの残りを口に放り込み、指についたクリームを無造作に舐めながら、僕に聞いた。
「そういえば、あの女の前にいたのは、ダチか? 全国とか言ってたな」
「ああ」
この男に話しておくのもいいかもしれない。どうせ僕の運命は、この男達が握っていると言ってもいいのだから。まな板の鯉となった僕――この際、洗いざらい話しておこう。
「僕はサッカー部にいて、うちの高校のサッカー部は、来週全国大会に行くんだよ。だけど僕があんたのグループをボコっちゃったから、出場取り消されるかも知れない。僕はもう観念してるけどな」
溜息をついて、天井を見上げた。
今の気持ちは晴れやかだけど――全てが終わったんだ。全国に行くことは、もう終わった。言葉にして、やっとそれを実感した。
僕は、どうにかしてそれを償わないと……
立ち直ったら、それを考えなくちゃいけない。だけど、それほど落ち込みもなく、どちらかと言えば前向きにそう考えることができた。
だけど、男はそんな僕をたしなめるように言った。
「バカ、こっちから売った喧嘩に負けた挙句、チクるような真似はしねえよ。1対20で負けたってのに、そんなみっともねぇこと、誰かにチクれるか! グループ解散の危機だぜ」
「ははは」
僕は笑う。
「あんた、顔は怖いけど、なかなかいい奴だな」
「ははは、いい奴か。気持ち悪い」
お互いに笑顔をちぎって交換した。
「チビ、お前、名前は?」
「ああ――サクライ・ケースケだ」
「そうか。俺はミツハシ・エイジってんだ。これでも結構サッカー好きなんでな。国立行ったら、応援してやろう。それまで勝ち進めよ」
僕はその男と、向かい合ったまま、歯をむき出しにして笑い合った。
やっと僕は、悪夢から目が覚めたんだ。