Nightmare
誰かに殴られた時に見る夢は、いつも決まっている。
小学校の裏の古い神社。そこの境内の前に少年は立っている。
背が低く、幼い少年を、二十人くらいの子供が囲んで、口汚く少年を罵っている。
やがて弦に弾かれた矢のように、囲んでいる連中が、一斉に僕に飛びかかってくる。少年は掴まれないようにメチャクチャに暴れだす。多勢に無勢、掴まれて倒されたら終わりだ。
つるんで来る奴なんて、肝が据わっていない。少年の暴れ方に相手が怯みだした時に反撃。顔がビビっている奴から片っ端に、少年は渾身のストレートパンチを顔に叩き込む。
でも、夢中になっているうちに、クラスで一番体の大きな男子が、少年を後ろから羽交い絞めにする。少年はじたばたするが、もう抜けられない。じたばたする少年の手足を、他の連中が押さえつけて、体は大の字に開いた。
クラスのガキ大将が、少年のがら空きの腹に渾身の拳を入れる。拳は腹に深くめり込んで、少年は咳き込む。少年が身動き取れない姿を見て、周りの連中は彼を取り囲んで、嘲笑している。もっとやれ、と、暴力を煽っていた。
一通り殴られて、動かなくなると、縄跳びで体を縛られて、口をガムテープで塞がれ、神社に放置され、クラスメイト達は、少年に捨て台詞を吐く。中には唾を吐きかける奴もいた。そうやって、惨めな姿になった少年の姿を愉しんでから、彼等は帰って行く。その顔はとても晴れやかだ。これからドッチボールやろうぜ、という声が聞こえた。笑い声が、どんどん遠くなっていく……
神社の神主が、ボロ雑巾みたいな小さな体を抱き上げる。体を縛っていた縄跳びを解いてくれた。
少年は泣いていた。何で泣いているんだろう。殴られたことが悔しいんじゃない。復讐の炎が、小さな胸に燃え上がっているんだ。それを一人で抱えるには、あの少年の胸では小さすぎるから。
その炎が、苦痛となって、自分自身を侵食し、焼き尽くしていくことを、少年は知っていた――
――自分がうなされているのがわかった。そこで目が覚めた。
気がついた時、僕の前にはユータとジュンイチがいて――無精ひげを生やした男に、背の高い白衣の女性が立っていた。
うっすらと目を開けると、天井の白熱灯がまぶしかった。どうやら、どこかで鎮静剤を打たれていたらしい。頭は冷えていたが、気だるい眠気は、いまだうっすらと、僕の思考を支配していた。
「あ、先生、気がつきました」
脈を計るため、僕の手首を掴んでいたスレンダーな看護婦が、無精髭の男に報告した。
「ケースケ」「ケースケ」
僕の視線に、ユータとジュンイチがアップで入ってくる。
「――ここは……」
体を起こしたが、すぐに激痛が走った。僕は何とか持ち直し、ベッドの縁に体を預けて、楽な姿勢を取った。
「病院よ。牛若丸さん」
看護婦が、僕の顔を覗き込む。
「――病院? ――牛若丸?」
おかしな言葉を聞いて、僕は覚束ない頭で、状況を整理しようとした。
看護婦がそんな僕を見て、解説してくれる。
「あなた、繁華街で喧嘩して、ここに運ばれたの。すごく身のこなしが軽いから、あなたを見ていた人が、みんなあなたを、牛若丸、って呼んでたのよ。覚えてない?」
「……」
僕は額に右手をやった。額に包帯が巻かれているのを確認した。
「彼が近くを通りかかって、警察と救急車を呼んだの。随分うなされていたのよ」
看護婦はユータの方に掌を向けた。
「警察……」
「心配ない」
無精髭の男が、気色ばんだ僕を諌める。
「周りの人が言うには、君は金を取られそうになったから、抵抗しただけと言っていた」
「……」
天井を見上げながら、包帯の巻かれている頭を働かせる。
あの僕の醜態を見て、よく警察がそれで納得したものだ。誰が僕を弁護したのだろう。
――金を盗られることなんか、どうでもよかった。
ただ、僕は、怒りのままに感情を解き放っただけだ。
理屈で僕のアイデンティティは崩れかけていたのだから、もはや理屈には頼れなかった。頼るものは本能しかなかった。それがあんな形で爆発したんだ。17年分の憎悪を乗せて。
連中も僕と同じ。理由は違えど、腐った環境に身を置いているのだろう。
お互い、それを理解して生きていた。彼らは荒れ狂うことで、腐った環境を壊し、また、壊せることを信じ、そして僕は、腐った環境を凌駕するために努力することを選択した。
僕がやってきたことは、あいつらのやることよりも、はるかに高尚なものだと思っていた。だけど、大乱闘をやって、その選択に、大した差はないことを知った。
僕もあいつらの仲間になって、全て壊してやればよかった。そうしたら、こんな惨めな思いはしなかっただろうに……
僕は将来だとか、安全だとか、そんなことばかり考えて、何も出来なかった。だったらあいつらみたいに、全て壊してやればよかった。壊す側に立った方が、ずっと楽だったと知った。今までの自分の無力さが、恨めしく、悔しかった。
だけど……
僕は結局、死ねなかったのか――
僕に残ったのは、この体の激痛と、醜態だけか――
――「またひとつ、伝説を残したな」
口を開いたのは、ジュンイチだった。どちらかと言えば熱血漢のジュンイチは、血の気が多い。デパートの屋上で、戦隊ショーを見た後の少年の目をしている。
「この病院に、お前のぶっ倒したヤンキーが、14人も運ばれてるんだぜ」
そう言われて、周りを見回すと、6人入りの部屋の、ベッドで眠っている他の患者は、皆僕がのした記憶のある連中だった。彼等の傷は、僕以上のものだろう。まだ体に感触が残っている。警察が来ていることを考えると、なんてことをしてしまったんだろう、と、今更ながら体が震えた。
「でもさ」
ユータが続く。
「何でそんなことしたんだよ? ケースケらしくないぞ」
当然の質問だった。でも、先に述べたことを説明しようとしても、きっと理解してもらえない。ひどく身勝手で、抽象的になってしまう。やったことも過剰防衛だったことは、間違いない。どんな自己弁護も無意味だ。
「――わからない。絡まれてるうちに、もう考えるのが嫌になって……」
「つまりキレたわけか」
無精髭の男が、溜息をついた。
「最近の子供は、見境がないな」
「……」
確かに僕はとんでもないことをしたが、そう言われるのは気に食わない。
毎日ニュースをにぎわす大人の事件だって、キレたことが原因じゃないか。いかに少年犯罪が増えたといっても、大人の事件の絶対量の方がはるかに多い。たまに少年犯罪が起こって、センセーショナルにマスコミは騒ぐ。子供の事件を、マスコミは無責任に大きくする。子供のキレる傾向を、誇張して押し出す。
お前等だって感情で動いてるんだ。自分のことを棚にあげて、子供の犯罪が起これば、よってたかって僕達を虐げる。大人の犯罪を軽量化するために、子供の犯罪が利用される。大人も子供も差なんかあるかよ。勝手なこと言いやがって。
怒り混じりにそんなことを考えていると、既に医者と看護婦は部屋を出て行っていた。
「ケースケ」
「え?」
ジュンイチの声で、思考が現世に帰ってくる。
「明日か明後日で退院できるってさ。骨も異常なかったから、全国には行けると思う」
「ああ、そうか……」
小学生の時は、いくら殴られても、病院に行く程じゃなかったのに。ヤンキー相手だと、シャレにならない。でもこの激痛が、2、3日で退いているのか。人間の体って意外と丈夫なんだな。
何よりも、僕の周りで眠っているヤンキー達は、目が覚めたらどこかに訴えたりするだろうか? そしたら全国にだって当然行けないし、僕は退学になるかもしれない。あるいは少年院もありえる。
そう考えると、今更だけど、体が震えた。チンピラに絡まれた時だって、こういう気持ちにはならなかったのに『怖い』という感情を、家以外で久し振りに思い出した。
ユータが、皮肉な笑いを浮かべる。その笑い方は本当にドライだった。
「合宿が終わって、さぁ、冬休み! って時、しかもクリスマスに大怪我とはな」
まるで自分の夢だった全国大会出場など、何も気にしていないような口ぶりだった。僕の心中を察しているのかもしれない。昨日までは、僕がユータ達に、全国大会出場のため、と、口を酸っぱく言っていたのに。それが酷くみっともなく思えた。
僕の目の前にある、食事のお盆を乗せるテーブルに、ジュンイチがビニール袋を置いた。
「ここに来る前に買って来たんだ。せっかくクリスマスだし、食おうぜ」
その中には、厚紙で出来た箱に、4つのケーキが入っていた。ショートケーキ、モンブラン、チーズケーキにチョコレートケーキ。
――それを見て、今日初めて、今がクリスマスなんだって、実感できた気がした。
ジュンイチの並べた紙の皿に、プラスチックのフォークとショートケーキが乗って、僕の前に出された。僕の利き手の左手は、人を殴り過ぎて、さっきから包帯で吊られている。そうじゃなくても体中、ピクリと動かすだけでも痛かった。
ユータはチョコレートケーキ、ジュンイチはチーズケーキを取る。
ユータはポケットから、細身の蝋燭を取り出し、1本ずつ、ケーキにそれを刺していった。
そして、持っていた百円ライターで、それに火を点ける。そして、僕以外、まだ眠っている病室の電気を消した。
「……」
暗い部屋に、蝋燭の光だけが、僕達の顔を照らしていた。
それだけで、心が温かくなった。
僕は小さな頃から、誕生日もこうして祝ってもらえたことがなくて……初めてこんなものを見て、少し、わくわくした。
僕の心は、こうして歪み始める前――ずっと子供だった時の心を邂逅し、心地よいほどに、今までの悩みが、少し、ほどけていった。
「これが病室じゃなければ、シャンパンでも開けたかったな」
ジュンイチは紙コップにソーダを注ぐ。シャンパンの代わりのつもりかな。
僕達は目の前のケーキの蝋燭を、各自吹き消す。電気を点けて、3人でケーキを食べた。
「いててて……」
利き腕が使えずに食べにくい上に、散々殴られて、切り傷だらけの口で食べるケーキは、もう味なんかわからず、ただ、痛かった。苺を口に入れると、その果汁が傷に染みて、梅干を食べたような顔になった。
ユータとジュンイチは、そんな僕の顔を見て、大笑いした。
僕も、口の中が血まみれになってるんじゃないかと思うくらい痛いけど、何だかそれがとても可笑しかった。痛みを感じることで、今自分が生き延びられたことを喜んでいるみたいだった。
「……」
あとはもう、いつも通りの3人だった。
それに気付いた時、僕の今日一日抱えた孤独が、光に照らされて消滅していくのがわかった。
そうか。今までは僕は、二人にも僕の本性を見せられず、いつかばれた時のことを恐れていたけれど……
きっと、僕達は大丈夫なんだ。
僕達3人は、いつだってこうして笑い合える。
お互い足りないところはあって、その世話に手を焼く時の方が多いけど……
それをお互い埋め合うことが出来る。
そして、どんなに辛くても、ボコボコに殴られた後でも、こうして笑っていられる。
僕の中に感じていた引け目や憤り、そんなものを取り払って付き合える。誰かが困った時、いつでも側にいてやれる。
僕達は『友達』なんだ。
「あ、そうそう、聞いてくれよ!」
思い出したように、可笑しそうな顔をして、ジュンイチが僕の顔を見る。
「ユータの奴、地獄の合宿と再試が終わって、久し振りに彼女に会って、デートしてたのに、外からすごい声がしたんだとよ。ギャラリーに訊いたら、超イケメンのチビ助が、牛若丸みたいに、次々大きなヤンキーをぶっ倒してるって言うんだ。それでこいつがその中心に行った時には、たくさん人が倒れてて。真ん中で頭から血を流して戦ってたのがケースケで、お前がヤンキーに攻撃を入れる度に、ギャラリーがお前のサポーターみたいに騒いでて。お前がぶっ倒れて、すぐ救急車呼んで、救急車に乗って、病院から俺に電話をかけてきて、俺もここに向かったんだけどな」
そこでユータを見て、親指でユータを笑いながら指差す。
「俺が病院に着いた時には、ユータがさ、病院の前で携帯片手に、誰もいないのに頭を下げてるんだ。合宿が終わって、今の彼女とやっと会うはずだったのに、お前を見つけて、彼女をほっぽり出して救急車に乗っちまったからさ。電話越しなのに、俺にも聞こえるくらいの声で、怒鳴られっぱなしでよ」
言いながらもジュンイチは笑っていたけど、その様は本当に滑稽だったんだろう。言い終わると、歯止めが効かなくなったように、豪快に笑った。
「うるせぇなぁ。しょうがないだろうよ。ダチが血まみれで倒れてて、体が動いちゃったんだからよ」
ユータは自嘲した。ユータは、ついさっき自分が振られたことを、何とも思っていないらしい。
気がついたら、笑っていた。
さっきまで、死にたいと思っていたのに、まだ自分は笑えるんだって、それだけで希望が湧いてくるようだった。
何でこんなことに気がつかなかったんだろう。2年も一緒にいたのに。
「C組のなっちゃん、1週間かけて、口説いたんだろ? 珍しく気合が入ってたから、僕達、つい最近、おめでとうって言ったばかりだぞ?」
「いいんだよ、付き合う以上、悪者になる覚悟は出来てる。それに、俺はまだ、友情と愛を両立させられるほど大人でもない」
「へっへっへ、とか言って、未練タラタラなんだろ?」
ジュンイチがチャチャを入れる。
「言うなぁ!」
ユータは拳を上げるジェスチャーを見せた。
「……」
こいつらは、いつだってこうだ。僕が一度反省したら、もうそのことには触れずに、ほっといてくれる。
だから、どんなに辛い時でも、僕達はいつもこうやっていられるんだ。
「それに、いつかはシオリさんと付き合うのが、俺の夢だから」
「お前にあのシオリさんがついていくわけないじゃん」
ジュンイチが口を挟む。
「学校一の才女にして、学校一のカタブツだぜ?」
「一番はケースケじゃないのか?」
「――おい、そこで僕の名前を出すな」
そう言って、3人で笑っていると、突然、静かに病室のドアが開いた。
美しい女の子が、息を切らし、頬を赤くして立っていた。白のコーデュロイのセーターに白のPコート、空色のマフラーをしている。
「マツオカ……」
寝耳に水の出来事に、僕は一瞬、頭がショートしたような感覚に襲われる。表情も凍りついた。
今、一番顔を合わせづらい人が、そこにいた――