Pathetic
説明が抽象的だ。だけど、具体的にしようにも、主観の導きだした答えだから、それは出来そうにない。
沈黙は背中越しにミズキの存在を感じさせる。鳴るような静寂だけど、その空間は息づいている。
「僕は……」
沈黙を破る。
「君が言うような奴じゃない。はじめから自分の苦しさを埋めるために、君を利用しようとしていたんだ。君のことなんて、何も考えてやしなかったんだ」
「……」
ミズキは答えない。
「でも、駄目だ……誰かを傷つけて、自分の安定を得るなんて、僕には出来ない。君はこんな奴に体を捧げちゃいけない。君みたいな娘は、幸せにならなくちゃ駄目だ。僕は君に消えない傷なんか残せない」
「……」
沈黙。
「ちくしょう……」
声が漏れた。
「何で涙が出ないんだよ……僕は、僕なんかを頼ってくれた人のために、泣くことも出来ないのか……」
もう感情が乱れきっていた。ただ、ここまでしたミズキに訳もわからず何かを償いたくて、でも何も出来なくて。
せめて彼女の悲しみを抱えて泣いてやりたかったけど、涙が出ない。
僕はやっぱり、誰かを傷つけることしか出来ないのか。
何で、僕は……
僕の裸の肩に、細くて長い指が触れる。
振り向くのが怖い。僕は歯を食い縛って、審判を待つ。
「もう、いいよ……」
ミズキのか細い声がした。泣いているような声だった。
あぁ、また人を泣かせた、という罪悪感で、僕は振り向く。
そこには足を開いた女の子座りで、笑みを浮かべながら涙を流すミズキがいた。
「ありがとう。もう、充分だよ」
「え?」
「あなたは私の心にちゃんと触れてくれたもの。このままじゃいけないって、私を止めてくれたの」
「……」
ミズキは僕の手を取った。
「それだけで胸がいっぱいだから。あなたみたいな人に会いたいと思っていて、あなたがその通りの人だったから」
「……」
沈黙。
「あなたも、何かとても辛いことを抱えているのに、それでも人を傷つけたりは出来ないのね」
「……」
「そんな甘いところも……うふふ。何だか居心地が良かったわ。あなたの前だと、その目とその甘さにつられて、飾りのない自分になれる」
もう涙は流していなかった。ミズキは僕の目を覗き込む。
「……」
沈黙。
そのままで30秒ほどそうしていた。僕はずっと俯いていたが、やがてミズキは僕の手を離して立ち上がった。
「ゲームオーバーね」
そう言って、ミズキはベッドから出る。
「どこへ?」
「今日のデートはここまで。着替えてくるわ」
そう言って、バスルームの前に立つ。
「変な話よね。さっきまであなたに抱かれたいと思っていたのに、今は着替えを隠すなんて」
バスルームの入り口前で立ち止まり、ミズキは自嘲する。
「それでいいんだ。きっと。男を支えるために、君が身を切ることはないと思う……」
言いかけて、言葉が尻すぼみになる。
この僕に、彼女に掛けてやれる言葉なんてあるのか? 彼女が何と言おうと、僕はひどいことを彼女にしたんだ。
ミズキは僕の言葉に笑みを返してバスルームに入る。3分ほどで乱れた髪も直して、さっきまでのコートにミニスカート姿で出てきた。
彼女は僕の前に来て、僕に一切れの紙片を渡す。
それは一万円札だった。
「私が無理に連れてきたから、これであなたが出る時払ってね」
「――え。一緒に出たら、晩飯くらい一緒に……」
「いいの。これ以上あなたといると、あなたの優しさに耐えられなくなる」
「……」
無神経過ぎだ。大体何で今更この状況で飯なんか……
「ごめん」
「謝らないで。これでも結構すっきりした気分なんだから」
ミズキの表情は、ここに来る前の、大人の余裕を感じるものに戻っていた。
「じゃあ、私、行くね」
ミズキは部屋のドアノブに手を掛ける。
「ちょっと待って」
僕は玄関まで彼女を追い掛けていた。
僕が彼女にかける言葉なんてない。だけどこれだけは言わなくちゃ……彼女が少しは前を向けるように。
「し、幸せになってくれ……」
言い慣れない言葉に、僕は出だしにつまずく。
だけどミズキは、僕の言葉を聞くと、静かに微笑んだ。
「あなたも」
ミズキは微笑んだ。そして指を銃の形にして、僕の胸を指す。
「シオリとうまくいかなかったら、またデートしようね」
それが最後の言葉だった。彼女は実に潔く、残り香を残すように部屋を出ていった。
「……」
部屋に一人取り残されて、手にはミズキにもらった一万円札が握られている。
普段は金汚い僕が、今はこの一万円札のごわごわした感触が気に食わなくて、それを握り潰していた。
握り締めた拳に怒りを込めて、僕は壁を叩く。
拳はじんじんするけど、この胸の痛みにかなわない。胸の痛みを別の痛みでかき消そうとして、更に壁を叩く。
「何やってるんだよ!」
僕は叫ぶ。そして一通り壁を打ち付けたら、手を止める。
今日ほど自分を最低だと思ったことはない。何がと聞かれても答えられない。
こんな自分、壊れてしまえと思って壁を打ったが、自分でわかる。知らず知らず僕は壁を打ち付けていても、力をセーブしていることを。
「俺は……」
俺はもう、誰も傷つけたくないのに、心のどこかで人を求めてしまう。そして、触れれば触れるほど、人を傷つける。
人をこれだけ傷つけているのに、自分の身は可愛くて、傷さえ付けられない。
言葉もなく、人の心もわからないから、もう自分も傷を負うしか、俺が傷つけた人に償えなくて……
それしか思い浮かばなくて……
「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
俺の叫びが誰もいない部屋に残響する。
こんな時、泣けない男は叫ぶしかないんだ。ミズキは泣けないなら、男は女に当たるものだと言っていたけど……
それさえも出来ない時はどうすればいいんだ? 誰か教えてくれ――
結局俺はミズキのくれた一万円札を使えなかった。
このボロボロの札を見ると、自分のさっきまでの愚行を突き付けられて、無性に憎いけど、これがあれば自分の戒めになる。これを見続けることで、二度とこんなことをしないように、自分に言い聞かせるために、使えなかったんだ。
一人繁華街に出る。
世間がクリスマスだということを、また忘れていた。どこからか「ラスト・クリスマス」が聞こえた。サンタとトナカイの着ぐるみを着た居酒屋だかカラオケの呼び込みが、ホテルに行く前より多くなって、街は賑わいを増していた。
故郷の川越は、高級レストランも、洒落たバーもないから、社会人のデートはあまりいない。カップルは僕と同年代あたりに集中している。
学校の奴にこの姿を見られるかもしれないと思って、一度マフラーで口元を隠したが、すぐに辞めた。
何故隠したがる? もういいじゃないか。俺はもう、ただの汚物なんだ。
認めてしまえばいい。そもそも俺には自分を繕う対象がいないじゃないか。
「……」
これからどこへ行く? 蝋燭の明かりも、プレゼントも、ご馳走もないあの家――ひとりぼっちのあの部屋か?
足は繁華街へ向く。俺の足が、俺の存在を許容してくれる場を探したがったからだ。
「……」
俺の心はばらまかれたコンペイトウみたいに、無数の棘になって、どこかしこに散らばっている。感情が小さな粒粒になって、一つ一つに棘があって、それが舌に乗る粉薬みたいに苦々しさを残している。
だから、ホテルにいる時のリアルな怒りは、今では何に怒りを抱えていたのかもわからなくなって、何処か曖昧で、何処かリアルな――そんな膨漠とした怒りへと刷り変わっていた。
液体が気体になると、質量は変わらないが、体積は何千倍にもなる。きっとはじめの怒りで沸いた心が蒸発して、もう俺の心で形を拾いきれないくらいに気化してしまったんだ。
あぁ、きっと心って液体なんだな。
そう思った時、自分の体の形が消えて、もう歩いているのか止まっているのかもわからなくなる。
「……」
俺はもう、脳以外、自分が何をしているのかわからなかった。精神のダメージが、体の機能さえ鈍らせている。脊椎のないくらげみたいに、自分が動いているのだとすれば、どういう命令を自分が出しているのかわからない。
まるで自分の肉体と精神が切り離されたみたいだ。
さっきまで目に映っていたカップル――俺はそんな連中が真実の愛を持っているかなんてことには興味がない。
だけど――誰かを側に求めるって意味では、今日の俺と行為自体は同じで……
昔の俺はそれを堕落だと思っていた。小さな頃から誰かが暴力的に俺を淘汰し続けていたから、自分も強くなることを、選択の余地もなく選んだ。
力だけが全てだと信じていた。それが手に出来なくなる時、その時までただあがきたくて、今までやってきた。人に支えてもらって生きるなど、弱い奴のやることだと。
ただ、自由になりたくて。俺を誰にも踏み躙られたくなくて。それを勝ち取りたくて。
だけど……
俺は何処で道を間違えたんだろう。
そして今日、俺の長年積み重ねた力は、何一つの意味を成さないものであることを知る。
大切なものも失い、勉強もサッカーもただの一芸に堕落させ、心慰みに女を抱くことすら出来ない。
まだ17の俺は、既にこの聖夜を踊るような青春さえない。生きながら死を待つ存在に成り下がった。
俺の前には、生きる意味もないのに、50年の巨大すぎる半生が残っていて。死ぬのを待つにはあまりに長過ぎる時間が、両手にのしかかっていた。
「……」
拷問のように長い時間を、ただ待ち続けて……
俺は一体、何のために生きていけばいいんだ。この先の俺は……
あぁ――こんな気持ちになるなら、ミズキとどこまでも堕ちてやればよかった。
もう二度と、上を見ることのないように……
俺がミズキにすがった理由は、いやらしさなど微塵もなく、それが自分に必要だと、純粋に思ったんだ。
思いが純粋だからって、僕の行為を正当化は出来ないのだけれど……
――「ちょっと待てよ!」
金管楽器みたいに高い声がして、大きな手に肩を捕まれた。
夢遊病者のように歩いていた俺は、そこで一度我に返る。
目の前には、僕よりかなり体の大きい男が三人立っていた。一人は坊主頭、一人は肩口までの長髪をドレッドヘアにして、もう一人が金髪で、細身の変な黒いコートを着て、右腕を押さえている。
「テメエ、人にぶつかっておいて、シカトこくとはいい度胸だなコラ!」
「……」
すごい、これって昭和のカツアゲだ。