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Temptation

 歴史小説にお決まりのパターンがある。

 後世に悪名を残した人間は、大体酒か女に狂っているものだ。殷の紂王や、唐の玄宗など、優秀な人でさえ、女の色香に惑わされる。

 僕は酒はともかく、女にはあまり隙を見せたくない。だから高校でも、女子とは距離を置いた付き合いをした。

 そして、僕は初めて女を抱いた時、ゲシュタルト崩壊を起こした。僕と彼女のアイデンティティを歪められ、結果僕は相手を傷つけた。

 だから同世代よりは、女性の体に対する興味や好奇心を失っている。

 と、思っていた。

 だけど僕の体は、ミズキと密着する。バスローブ一枚隔てて、僕の腹辺りに、ミズキの豊満な胸が触っている。シャンプーの香がまた強くなって、脳内が刺激され、下半身がまた覚醒する。

「……」

 恥ずかしい。僕は自分の性欲さえ、上手く定義していなくて、人に性欲を晒すことが、どういうことなのかよくわかっていない。まだ僕は、激しい恋に心を焼いたことがないし、女性を前に、どうやってそれをわかってもらえばいいんだろう。

「な、なあ、昨日から僕にくっつき過ぎじゃないか?」

 顔は僕の胸の中だから、ちゃんと聞こえているかもわからないけれど、僕はそう聞く。

「……」

 ミズキは答えない。バスローブで開いた僕の胸元に、ミズキの熱い吐息がかかる。ゆっくりとしたペースで、もう眠ってしまったのかも、と思ったくらいだ。

「お願い、少しだけ、このままでいて……」

 そう言われ、僕はどうしていいかわからず、体を硬直させる。

「……」

 しかし、彼女は一体どういうつもりだろう。

 同じ部活なんだから、マツオカ・シオリとは友達なのだろうか。それにしてはミズキは、シオリが僕のことを好きだと思っている。なのに今、僕とこうしているということは、本当はシオリのことが嫌いで、復讐か何かのつもりなのだろうか。

 ――いや、それなら僕を惑わせる方法なんていくらでもある。こんな回りくどい方法を取ることはない。ただの陰婦という感じでもないし、異常性癖があるようでもない。

 彼女の目的は、一体――

 そんなことを考えながら、僕達はそのままでいて――

 1分くらいそうしていただろうか。やがてミズキが話し始めた。

「私、年上の人としか、恋をしたこと、ないの」

「……」

 僕は黙っていた。この状況で話すことだ。きっとこれが彼女の一番僕に伝えたいことなのだろう。それが何となく、わかったから。

「私はいつも相手のことを追いかけていた。だけどいつも相手には子供扱いをされてた。そんな時、たまに男の人がボロボロになっている時があった。そんな時だけは、相手も私の支えを必要としてくれた。私はそんな時だけ、自分が愛されているんだって、実感することができた」

「……」

「私はそれから、男の人の支えが出来るような女になれるように頑張った。でも、頑張っても、傷が癒えた男の人は、みんな私の前から去っていった。私は故意をするたびに、疲れきってボロボロになってしまうの」

「……」

「私は相手の心を支えられるように頑張ったのに、男は誰も私の心に触れてくれなかった……」

 僕の胸でくぐもる声は、震えるようにか細くなった。

「……」

 昨日ミズキは言っていた。女は男がボロボロな時、それを支えてやれることに至福の喜びを感じると。

 それは彼女の真実なのだろう。しかし、自分の隙を見せてくれない男が、その時だけ見せてくれる隙――その時だけ、両者のつながりを感じた彼女は、やがてそんな時以外では、愛情を実感できなくなってしまったんだ。

 だから僕に、寂しい? と聞いたのだろうか。

「寂しいのか? それが」

 僕は聞いた。

 彼女は僕の胸の中で、一度首を縦に振った。僕に見えるのは頭だけで、表情はわからないけれど……

「……」

 僕と同じくらいの背の高さの彼女が、こうして見ると妙に小さく儚く見えた。

 若干、いやらしい気持ちが消えた。体の覚醒も一時引く。僕はもう少し、彼女の話を聞いてみようと思い返す。

「でも、何で僕なんだ?」

 僕がそう聞くと、ミズキは僕の胸から少し顔を話す。そして、先程よりはちゃんと通る声で、少し自嘲気味に話し始めた。

「クリスマス前に、また同じことを繰り返して、失恋した……馬鹿みたいだよね。結局遊ばれてたのよ。その人は二股していて、もう一人の人のところへ行っちゃった」

「……」

 二股なんて、したこともされたこともないから、僕は何て言っていいのかわからない。あのユータだって二股はしないし、そういうことする奴は、どこか僕とは違う世界の生き物のように感じてしまう。

「傷心のまま、私はあなたの開いた合宿の打ち上げに参加したの。私にとって、あなたの作ったカレーは、とても優しい味がした。悲しかった心が生き返るような、そんな味がしたの」

「……」

 そんな大層なものじゃないけどな。それは、手間をかけた料理が作れることを、優しい男だっていうこととイコールで結ぶのは、途中式のない方程式みたいに危険な判断である。

「それで私、あなたの事を昨日、目で追っていたんだけど……改めて思ったのよ。あなたは、辛い時に、誰かを欲したりすることはないのかって。いつもひとりぼっちでいて、大丈夫なのかな、って。それとも、ただ単に、人の中に踏み込むのが恐いのかな、って。あなたを見て、そう思って」

「……」

 そうか……この娘は、カウンターにいた僕を見ていたのか。確かにあの時の僕は、人の中に入ろうと思っていても、どうやっていいかわからず、立ち尽くしていた。

 そうだ……あの時僕は、自分の孤独や寂しさを感じ始めたんだ。そして、その後その蓋が開いた……

「君は、僕の寂しさを、今までの男と同じように埋めてあげたい、と、考えたのか?」

 僕は聞いた。

 するとミズキはふるふると、首を振りづらそうに横に動かす。僕の顎が、ミズキの頭で少しゴリゴリされた。

「はじめはそうだと思った。でも、今は違う……」

「……」

「あなたが、あのワンちゃんにご飯をあげるのを見る目が、とても優しいと思ったから。あなたの目には、人を利用するとか、差別するとか、そういう雰囲気がまったく感じられなかった。人を利用し、利用されて、自分を安定させてきた私にとって、あなたのその濁りのない目は、とても眩しかった。私はあなたの、純粋で、それでいて寂しさを抱いた沈んだ瞳に、一瞬で惹かれてしまったの。あなたなら、私の心に触れてくれるんじゃないか、って、思ったの」

「……」

 言いながら、彼女の肩や体が震えているのがわかった。

 泣いている。声を上げずに、感情が零れ落ちるように、静かに。

 僕はやっとわかった。彼女は泣く場所を探していたんだ。泣いてもいいと思える人を探していたんだ。

「……」

 僕は、この時初めて自分の腕に力を入れて、彼女を抱きしめた。

 もう何が正しいかなんて、そんな思考は吹き飛んでいた。人として、彼女が泣くのが見ていられなくて、泣く場所に自分を選んでくれたこと――僕はただ、彼女に泣き止んでほしいと思って、でもどうしていいかわからなくて、いじらしさのあまり、そうしていた。

 ――ズクン。

 心臓が高鳴る。壁が崩れた。

 あぁ、僕と同じ孤独を、形は違えど、この娘は感じていたんだ。そして、彼女は僕に依存することで、今はその孤独を埋めようとしている……

 もう、いいじゃないか。僕だって、もう心を支えるには、孤独を一度吐き出してしまった。このままでは心を食い潰されてしまう。

 彼女だってそれを望んでいる。僕だって内心、そうしたいと考えている。

 それに、ここまで僕みたいな奴を必要としてくれるなんて……今まで、虐げられ続けて、自分はクズだと思っていた僕を、こんなに必要としてくれるなら、本望じゃないか。

 その思いと呼応するように、僕の体は引き寄せられ――

 ミズキは、仰向けになる僕の上に重なって、強くキスをした。舌が絡まる、本当のキスだった。

 頭の中が真っ白になりそうだった。唇を離された時、僕自身も夢中になって舌を絡めていたことがわかった。

「あなたが辛い時は、私が寂しさを埋めてあげる。だから、このまま二人で、堕ちちゃおっか」

「……」

「私をどんな風にしてもいいから、悲しみを忘れてもいいよ。あなたの住んだ瞳が、私を包んでくれるのなら……」

「……」

 僕の中の心が、彼女の一言一言に誘惑される。幼過ぎた地獄が、大人の遊びを知って、快楽に溺れる。

 もういやらしさとか、体目当てとか、そんな感情はなかった。ただ、誰かのぬくもりを、貪るように欲しくなって、それが物欲なのか、性欲なのか、僕の知る限りの煩悩では名づけられないような感情に心が染められた。

 ただ、僕は欲しくなって……目の見えないそれに触れたくて。

 僕の感情が、真っ白になっていく……

 くらくらする程、ミズキとのキスは、僕の空っぽの部分に入り込んでくる。

 今自分は完全に余裕を失っていて――誰にもこの姿を見られたくない程だったけど……

 そんなこと、どうでもいいと思うくらい、気持ち良くなってきた……脳内麻薬を口移しされてるみたいに、すればする程欲しくなる……

 唇を離すと、ミズキは僕のバスローブにゆっくりと手をかけ、上半身をはだけさせる。僕の上半身は裸になる。

 僕はもう一度ミズキを抱き寄せ、キスをする。ミズキのことを強く抱いて、少しでもミズキの孤独を埋めてやりたくて……同時にこうしていても自分の孤独が埋まらなくて……

 唇を離した時、僕の手はミズキのバスローブの肩口にかかっていた。

 既にミズキの胸元は更に開いていて、胸の谷間がかなり開けている。

「……」

 今、電気はベッドの横にある間接照明だけ点いている。一度僕は止まる。

 僕が上になって、体が重なり合う。間接照明に照らされるミズキの顔が眼下にある。

 ミズキのうっすら浮かべる微笑が、僕の中の利己的な感情を全て許してくれるように見えた。

 ミズキの目は、僕を信じきっている目だった。言葉の通り、本当に自分のことを好きにしていいというような目だった。

「ありがとう……」

 不意にミズキは言った。

「……」

 ――ズクン。

 記憶が過去に遡る。

 一年くらい前にも、僕の腕の中で、同じ目をした人がいた――


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