Trio
「待たせたな」
僕は二人に会釈する。
「いえいえ」
ジュンイチは自分の足でキープしていたボールを僕に蹴り出した。
「ヒラヤマくーん」「ユータくーん」
そんな声が所々からした。僕はボールを足の裏で止めながら当たりを見回すと、グラウンド外の金網に、女子高生が鈴なりになって黄色い歓声を上げていた。他校の制服も見えている。それに隠れるように、もう相手チームもベンチに荷物を置いているところだった。
ユータはこのとおりの長身と端正なルックス、そして何より抜群のサッカーセンスから、このとおり校内外問わず多くのファンがいる。一年生で県大会得点王、そして、元々弱小高だった埼玉高校を、県内優勝候補の対抗馬にまでのし上げた原動力でもあるから、雑誌や県内テレビの取材も多い。
「相変わらず、すごい人気だな」
僕はインステップでボールをユータに蹴り出す。
「何言ってんだよ。お前にだってファンはいっぱいいるだろうが」
ユータはそう言いながら、ボールをジュンイチに蹴り出す。同時に歓声が上がる。
よく言うよ、一週間彼女がいなかったことはないってくらいの奴なのに。それとも僕達に気を遣ったのか。大きなお世話だよ、と思う。
「お前、一週間前後輩に告白されたんだろ? また断ったのか?」
ジュンイチはそう言いながら、僕にボールを強めに蹴った。
「――ああ」
僕は若干逸れたボールを拾い、遠目からふわりとした浮き球を蹴る。
「――っと」
ジュンイチはボールを胸で止める。
「もてるのに、付き合わないなぁお前」
「お前もしかして、フケ専なのか?」
ユータが白い歯を見せている。
「――考えたこともない」
ジュンイチはユータにボールを返す。
「しかし、勇気あるよなその子」
「ああ、夏休み前の『下駄箱事件』以来だからな」
「……」
下駄箱事件――ある後輩が僕の学校の下駄箱にラブレターを入れるという、きわめて古典的な告白方法を試みた。しかし僕の下駄箱は、一番下段にあったので、引き戸を開けて無造作に突っ込む習慣がついていた。勿論中身を見たことなどない。なので僕はラブレターの存在に気づかずに、そのまま一月が経過してしまった。
そして一月くらい経った後、昼休みにその後輩が僕に返事を聞きに来たことで、僕はラブレターの存在をはじめて知った。しかしそれを取りに行った時、中身を気にせず靴を突っ込んでいたため、綺麗な便箋にしたためた筈の手紙は、泥だらけの上、ぐちゃぐちゃになって所々破れていて、とても情報伝達機能を満たす原形を留めていなかった。
それに怒った後輩は、最低だと言って僕の頬を叩き、僕の事を睨みながら泣いていた。昼休みの教室で皆に見られていたため、その話はその日のうちに学校中に広がったのだ。先輩達にも広がって色々世話を焼かれたり、文句を言われたり、醜態をさらした。
「いやぁあれはなかったよなぁ。今思い出しても笑える。天然にも程があるぞ」
ジュンイチはその瞬間を思い出したらしく、本当に可笑しそうにケタケタ笑っている。
「でも俺はあれで、ある意味ケースケの人気が上がったと見るね」
ユータはボールを一度止めながら言った。
「あぁ、あの時女の子に言った台詞だろ」
ジュンイチがそう言うと二人はボール回しをやめ、互いに近付き、僕の前でそのシーンを再現して見せた。ユータが僕で、ジュンイチが後輩のようだ。
「サイテー! バシッ!」
平手を振るジェスチャーを自画擬音付きで演じるジュンイチ。
「……」
ユータは頬を張られ、首が横を向いた状態で、ジュンイチを見ている。そしてゆっくりと正面を向き、僕を真似ているのか、静かなゆっくりとした口調で言った。
「――軽蔑してくれて構わない。どうしようもない奴だって思ってくれてもいい――だけど、僕がこんな人間であることは、すぐには変えられない。僕は君が貴重な高校時代の時間を浪費して追いかける価値のある人間じゃないんだ。それはまだ、今は変えられない」
そう言った後、ユータはジュンイチの横を通り過ぎ、背中越しで止まって、言った。
「ただ、こんな僕のことを想ってくれたことは、すごく、すごく嬉しかった。それだけは、一人の人間としては、とても嬉しかったよ――ありがとう」
そこで二人は演技を止め「く~っ!」と腹の奥から甲高い声を上げた。
「――何だよその声は」
今まで二人の猿芝居をただ見ていた僕は言った。ジュンイチがこちらを向く。
「いやいや、お前あのまま教室出て行った後、女子も男子もみんな、キャーッ! とか言ってたんだぜ」
「……」
ユータが軽くはにかんで言った。
「あの時のお前、カッコよすぎたからなぁ。俺はこんなだから、お前と同じこと言っても決まらないだろうからな。とても真似出来ない」
「……」
何てコメントしていいのかわからない。僕にとってはただ自分の忘れかけた醜態を蒸し返されただけだ。ただこの二人がやると、全てパロディ化して、嫌味に感じないだけまだマシか。付き合いが長くなって、こいつらのこういう僕を茶化したがる癖にも慣れてきた。
「まあとにかく、お前はたまにはあんなドジをした方がいいと思うけどな」
ジュンイチが今度は多少真面目っぽい顔で言った。
「浮いちゃわないようにか?」
「そういうこと」
ジュンイチが僕の顔を、銃の形にした指で差した。
「お前はちょっとスキがなさすぎるよ。イメージが先行し過ぎてる」
「……」
そうだ、そのとおりだ。そんなことは自分だってわかっている。
その一例が、さっきのテストの結果用紙。担任のコメントは、まさに僕の幸せを勝手に判断している感が見え見えだった。僕は東大に行くなんて、一度も言ったことはないのに、まるで「お前は東大に行って勉強するのが一番の幸せなんだよ」とばかりに。
「それにそろそろ、彼女の一人も作れよ。カタブツ過ぎるのもどうかと思うぜ」
モテモテ男のユータが僕に言った。言いながらジュンイチにパスを出す。
「適当に付き合ってみろよ、こうやって高校生と普通に出会えて付き合えるチャンスもあとわずかだしさ。30過ぎて女子高生に憧れても、世間が冷たいぜ? ケースケはもてるんだし、適当でいいんだよ。適当に付き合ってみればいいじゃん」
「――いや、今は他にしなくちゃいけないことがあるんだ」
「へぇぇ、あれだけ授業サボって、ギターやピアノばかり弾いてる奴がか?」
ジュンイチがチャチャを入れる。それを訊いて、ユータが子供をなだめるような口調で、僕に言う。
「俺が見るに、お前は考え過ぎだよ。やった後も優しくするのが、うまく行く秘訣だぜ」
「お前――それ、何のアドバイスだよ」
ジュンイチはユータにボールを強めに蹴りながら、的確に突っ込んだ。二人は笑った。
「……」
僕だって今まで適当に彼女を作ったことはあるし、女性経験だって一度だけある。丁度一年位前のことだ。
僕は付き合って半年で、彼女を抱いた。理由は、二人の関係を存続させるのに、それが必要っぽい気がしたからだ。別に存続させなきゃいけない義務に基づいているわけじゃないけれど、それを彼女は望んでいるようでもあったし、それを見ると僕に反対する理由はなかった。その程度の理由だった。少なくとも、激しい感情に促された行動ではなかった。
彼女はベッドの上で、小動物のように愛らしかったように思う。息を切迫させ、肢体は艶かしかった。僕のことを何度も好きだとも言って抱きしめてくれたし、僕にすべてを委ねて甘えてくれていただろう。
だけど当の僕はいっぱいいっぱいで、彼女に対しての愛しさだとか、自分の脳を刺激する快楽感とか、何も感じられなかった。その時の彼女の顔さえ覚えていない。
それでも彼女が、僕のすべてを受け入れてくれた。そしてそれは感謝すべきことであることくらいはわかっている。その自覚はないわけじゃないけれど……
どうしても盛り上がれなかった。彼女の終わった後の嬉しそうな顔を見ると、自分との大きな温度差を感じずにはいられなかった。
その時初めて色々なことがわかった。彼女は僕に抱かれるということに、覚悟があったこと。そして僕にその覚悟が足りなさすぎたこと。
僕は彼女の肢体や、親にも見せないような羞恥的な姿、そしてそれをも厭わない覚悟、そんなものを受け止め切れなかった。彼女の最も美しいところと、最も醜いところを同時に見たような感覚が、彼女のアイデンティティを老朽化したシャフトみたいに両者からの力を受けてねじり切ってしまった。
次の日からもう、彼女のことを今までと同じ目で見ることが出来なくなっていた。覚悟が足りないのに結果的に弄んだ罪悪感ばかりが、僕を押し潰しそうだった。
関係を終わらせようと決意したのは、彼女を抱いて3日も経たない頃だった。僕は彼女に別れを告げた。彼女は僕のことを、体目当てで付き合ったと誤解しても無理はなかった。でも否定はしなかった。結果的にそうなってしまったのかもしれないと、自分の中で納得が出来ていたから。
何度も頬を張られても、甘んじて受けた。別に痛くはなかったが、鉛のような重さが僕の中に沈殿していくのを感じていた。それは今でも忘れられない、心の中に残る棘だ。
「テストでいい点を取るより、人を喜ばせる方がずっと難しい気がするよ」
ポツリとそう言うと、奇特な人間だ、といわんばかりの顔で、二人は顔を見合わせ大爆笑した。僕はいつでも本気でものを言っているけれど、そんなに可笑しかっただろうか。